ご先祖様

いのちの重さ いのちの広がり

 百人の大学生に、「あなたには四人の祖父母がおられますね。その四人のお名前を、いま、ここで全部書けますか」と質問してみました。書けると答えた人はわずかに二人。

核家族化か急速に速んでいることに驚きました。しかし、かくいう私も、その一代前、即ち曾祖父母八名の名前となると、まったく書けないのです。

 自分の両親から始めて、そのそれぞれの両親というふうに逆三角形を描いてみましょう。二十四代から二十五代前(親鸞聖人の時代)までさかのぼりますと、その数は数千万人になります。

 私は、その名前さえ知らない、実に多数のご先祖のいのちの流れの中に生かされているのです。不思議と申すよりほかありません。

 そのご先祖のお一人おひとりは、それぞれに精下作の人生を生きられたことでありましょう。ご苦労も多かったに違いありません。

そして、わが子、孫よ「幸せに生きよ」

 「真実のお法りをいただけよ」

「お念仏申すひとになっておくれよ」

との願いを残して下さったのです。

 無量ともいうべきいのちと、阿弥陀さまの願いをこの身にいただいていることを思う、わがいのちの重さに気づかせていただくのです。人間の値打ちは、学歴や肩書き、財産の有無ではありません。私の、このいのちそのものが尊いのです。それをはっきり教えて下さるのがお念仏の違であります。

 また、逆三角形にどこまでも広がるご先祖の図を見ますと、「世の中に他人はいないのだ」と実感されますね。

 親鸞聖人は、一切の有情はみなもって世々生々の父母・兄弟なり。と述べておられます。

 私達は、お墓に名前の刻まれたかが家のご先祖のことだけを考えるのではなく、いのちの広がりに思いをいたし、すべてのひとを差別なく愛し、尊敬する心をいただかねばなりません。

   

お休みのないご先祖

 弔辞の多くは、「安らかにお眠り下さい」と結ばれます。慣用の表現であり、病気で 苦しまれた方などへの言葉として用いられるのも、自然な感情の現れとも言えましょう。

 しかし、この世のいのちを終えたひとは、”永遠の眠り”につくのではありません。 まったくお休みのない「いのちとなってはたらいておられるのです。

 親鸞聖人は『浄土和讃』

  安楽浄土にいたるひと
  五濁悪世にかへりては
  釈迦牟尼仏のごとくにて
  利益衆生はきはもなし

 とうたわれました。

 ご先祖は、この世のいのちを終えたその時から、還相回向のみ仏となられ、この私をお救い下さる”おはたらき”を続けておられるのです。それは、眠るどころか、まったくお休みのない大活動のいのちなのです。

 私達は、年忌のお仕事(ご法事)などを丁重につとめますと、立派なことをしたと自己満足をいたします。しかし、私が忘れている時も、眠っている時も、ご先祖はお休みなくはたらいて下さっていることを思わねばなりません。

 また、世間では時折”先祖のたたり”などと言いますが、それはあやまった考えです。

私達は、たたりを恐れることの真反対、ご先祖の大きなご恩に生かされ、導かれていることをはっきり知らされ、喜びと安心の中に、感謝と報恩の生活をさせていただくのであります。

  

  ご先祖の喜ばれること

 ご法話や研修会で、「浄土真宗では、先祖供養ということは申しません」と聞かせていただきます。一般には、よく使われる言葉ですね。

 供養について、『広辞苑』には「三宝または死者の霊に諸物を供え回向すること」と説明してあります。

 けれども、ご先祖は、迷える”霊”ではありません。私を仏法に遇わして下さる善知識です。回向については、浄土真宗では阿弥陀さまが私どもをお救い下さるおはたらきを”他力のご回向”といただくばかりなのであります。お経も回向するものではありません。

 蓮如上人は『御一代記聞書』に

 他宗にはつとめをもして回向するなり、御一流には他力信心をよくしれとおぼしめて、聖人の『和讃』にそのこころをあそばされたり。
 

とお示し下さっております。

お念仏も、私の回向するものがらではありません。

 わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候わめ
 ……(後略)

との聖人のお言葉をしっかり聞かせていただきましょう。

 私が、ご先祖のご恩を偲ぶご縁によって、いま、如来さまのお慈悲に遇う、本願名号のおいわれとおはたらきを聴聞させていただく、お念仏する身とならせていただく、このことこそが、ご先祖の最もよろこばれることなのであります。
                              

  (高千穂 正史)

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