2011年6月 他力というは如来の本願力なり 法語カレンダー解説

他力ということ

 この言葉は、『教行信証』行文類「他力釈」の冒頭(『註釈版聖典』 一九〇頁)に、「他力」とは何かということを端的に表現されたものです。自分の力のことを「自力」と言いますから、「他力」という言葉は、私自身の力ではないということを示していると考えでよいでしょう。お念仏の教えは、阿弥陀如来のはたらきによって、浄土に往生させていただき、仏とならせていただくのであって、そのはたらきを他力というわけですから、普通であれば、「他力とは阿弥陀如来のはたらきをいう」とか、「他力とは如来の慈悲のはたらきである」とかいう方が自然であり、わかりやすいように思います。しかし、たとえば親鸞聖人の言行を記した『歎異抄』という書物でも、「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」(第一条 『註釈版聖典』八三一頁)とあるように、如来のはたらきを表されるような場合には、本願あるいは誓願・仏願のはたらきとして示されることが多いのです。それはどういうことなのでしょう。

 「他力」という言葉は、あるいは一般語としては使われていたのかもしれませんが、仏教の言葉として初めて用いられたのは曇鸞大師です。その主著である『往生論註』は、他力ということを明らかにされたものとして知られていますが、そのなかでもたとえば、

   

おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり。 

(『註釈版聖典(七祖篇 一五五百)

とあるように、一貫して「本願力」ということが強調されています。では、本願力とは一体何なのでしょう。

    

菩薩の願い

もう、十年以上前のことになりますが、京都女子大という大学で仏教の話をしていたとき、授業が終わって教壇の上の本やノートを鞄にしまっていますと、一人の学生が話しかけてきました。その日は、ちょうど仏の願いと行についての話だったのですが、それがどうにも納得できないというのです。

   

「先生、仏さまって煩悩を持っていないんでしょう?」
「そうですね、仏さまはさとりを開かれた方ですから、煩悩はもはや持っておられませんね」
「でも、仏さまは人びとを救いたいとはたらいているんですよね」
「そうですよ、それが仏さまの願いですから。今日の話だと、その願いを誓願とか仏願とか、あるいは本願というんです」
「そうですよね。仏さまには願いがあるんですよね。でも、願いって欲しゃないんですか? 人びとを救いたいというのも、結局何かをしたいわけだから、それは欲望であって、煩悩なんじゃないですか?」

   
 これはなかなか鋭い質問です。私は、「あなたの言うとおり、何かをしたいという以上、それは煩悩です。ですから、仏はその思いから実は離れているのです。しかし、説明するのには少し時間が必要なので、次の週にみなさんに話をしましょう」と約束をして、その日は終わりました。

   

 さて、「人びとを救いたい」という願いが尊いものであることは間違いありません。
もとより菩薩は仏道を志すにあたり、一切の衆生を救いとるという願いを立て、それが成就するまでさとりに至らないという誓いを立てるのです。仏道を全うするということ、さとりに到るということは、その願いが成就するということに他なりません。
つまり、すべての仏はもとより願いを持っているのです。

   

 菩薩の道は、「上求菩提(じょうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅうじょう)」と言われます。つまり、上に如来のさとりを求め、下に衆生を化益(けやく)するというのですが、これを端的に示すものとして「四弘誓願(しぐぜいがん)」が知られています。「四弘誓願」とは、

   

衆生無辺誓願度(衆生は限りなくあるが、誓ってそれをすべて救いとると願う)
煩悩無量誓願断(煩悩は限りなくあるが、誓ってそれをすべて断ち切ると願う)
法門無尽誓願智(法門は限りなくあるが、哲にてそれをすべて学び知ると願う)
仏道無上誓願成(仏道はこの上なく尊いものであるが、誓ってそれを成就し仏となると願う)

   

というものです。すべての菩薩に共通する願いであり、「総願」と呼ばれるのですが、これを成就した者が仏なのですから、仏とはこれを基本的な性格とすると考えでよいでしょう。それに対して、それぞれの仏の個性を示すのが「別願」と呼ばれるものです。具体的には阿弥陀如来の四十八願が有名です。四弘誓願の第一願は、あらゆる衆生を救いとることを誓われていますが、それではどのように救いとるのか、そのことが示されたのが別願と考えてもよいでしょう。

   

 菩薩はこうした願いを立てて菩薩の道を歩むのですが、学生が質問してきたとおり、それが願いである以上、いくら尊い願いであるといっても欲であることには違いありません。欲は相手(対象)や自分自身にとらわれることによって生じるのですが、さとりを求める以上、菩薩の道を歩む中、それを離れるときがおとずれます。それが第七地という段階であり、ここで菩薩はあらゆるとらわれを離れて空をさとるといいます。

    

七地沈空の難

   

 ところが、この第七地という段階で、菩薩が陥る大きな落とし穴があるというのです。それが「七地沈空の難」と言われるものであり、これも曇鸞大師の『往生論註』に、

   

菩薩、七地のうちにおいて大寂滅(だいじゃくめつ)を得れば、上に諸仏の求かべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんと欲す。その時に、もし十方諸仏の神力の加勧(かかん)を得ずは、すなはち滅度して二乗と異なることながらん。

(『註証釈版聖典(七祖篇)』 一三三頁)

   

と説明されています。つまり、空をさとった菩薩は執着すべきものが何一つないとして、もはやさとりを求めようとするこころもなく、衆生を救いとろうとするこころもないという状態に陥るというのです。菩薩の道とは「上求菩提・下化衆生」でありました。さとりを求めようとするこころも、衆生を救いとろうというこころもないのであれば、それはもはや菩薩ではありません。それで「二乗(声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく))と異なることながらん」と言われ、菩薩の死とも言われるのです。空になずむ菩薩に対し、そのときに「十方諸仏の神力の加勧」があるというのですが、具体的に言えば、いくら菩薩が空をさとったといっても、道を歩もうとしたそのときに救いとろうと誓った衆生かいなくなるわけではなく、その苦しみや悩みが消えてしまったわけではない、そのことを忘れずに道を歩み続けよと、十方の仏がたがお勧めになるというのです。菩薩は仏がたのお勧めを受け止め、再び道を歩むのですが、すでに空をさとっているのですから、あらゆるものに対する執着は離れています。やがて願いが成就して仏のさとりを得たとき、道を歩み始めたときのその願いによって、ただ苦しみ悩む衆生を救いとっていくはたらきをする、そのはたらきのことを「本願力」あるいは「仏願力」というのです。

   

 そして、執着を離れて衆生を救いとっていくようすは、もはやとらわれがないものであるため、救いとったという思いはなく、そのことを『往生論註』には、

   

菩薩、衆生(しゅじょう)を観ずるに畢竟(ひっきょう)じて所有(しょう)なし。無量(むりょう)の衆生を度すといへども、実に一衆生として滅度を得るものなし。衆生を度するを示すこと遊戯(ゆげ)するがごとし。
「本願力」といふは、大菩薩、法身のなかにおいて、つねに三昧(さんまい)にましまして、種々(しゅじゅ)の身、種々の神通(じんずう)、種々の説法を現ずることを示す。みな本願力をもって起せり。たとへば阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、音曲自然(いんぎょくじねん)なるがごとし。

(『註釈版聖典(七祖篇)』 一五三頁)

   

(衆生を救いながらも救うというとらわれがない。浄土の菩薩が衆生を観ずるとき、実体があるとみるのではない。数限りない衆生を救いながら、一人としてさとりを得させたというとらわれはない。衆生を救うはたらきをあらわすことに、とらわれがないのである。〈本願力〉とは、八地(はちじ)以上の菩薩が平等法身(びょうどうほっしん)のさとりの中において、常に禅定(ぜんじょう)にあって、さまざまなすがたを現し、さまざまな神通力をあらわし、さまざまな説法をするのであるが、これらはみな阿弥陀仏の本願力によるものであることをいう。
たとえば阿修羅の琴は弾くものがいなくても自然に調べを奏でるようなものである。

『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』三七八~三七九頁、参照)

   

と示されるのです。

   

 他力ということは、私白身ではないはたらきによって、私か浄土に往生させていただき仏とならせていただくということを表していて、それは如来のはたらきであるのですが、そのことを「他力とは阿弥陀如来のはたらきをいう」、あるいは「他力とは如来の慈悲のはたらきである」等とは示さずに、「他力といふは如来の本願力なり」と表されているのは、このような理由によると思われます。

    

ただ念仏して浄土に生まれていく

   

 この「本願力」という言葉は、曇鸞大師だけではなく、インドの龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)や天親菩薩が書かれたものにも示されているのですが、その場合に、この本願という言葉は「もと菩薩であったときに立てた願」という意味です。しかし、親鸞聖人が本願という言葉を用いられるときには、基本的には四十八願のうちの第十八願を指しています。
つまり、「ただ念仏して浄土に生まれてこい」という私への喚びかけです。そうしたことを含めて、この「他力といふは如来の本願力なり」という言葉を考えてみると、如来のはたらきによって浄土に往生させていただくという私のありようは、ただ念仏するしかないということを示しているようにも思えます。

   

 このような話を次の週に学生に話しかところ、「私たちを救いたいからこそ、その救いたいという思いを離れなければならないなんて、とてもできるごとしゃないですね。仏さまもたいへんですね」との反応でした。そのとてもできることじゃないことを成し遂げないと救うことができないのが、私のありようです。

   

さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ          

(『註釈版聖典』八五三項)

『歎異抄』に示された親鸞聖人のお言葉に、あらためてうなづかされます。

(安藤光慈)

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