2011年7月 煩悩の氷解けて 功徳の水となる 法語カレンダー解説

煩悩の水を転じる

   

七月の法語は、『教行信証』行文類「一乗海釈」の一文です。

「一乗海釈」には、

「一乗海」といふは、一乗」は大乗なり。大乗は仏乗なり。一乗を得るは阿耨多羅三貌三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得るなり。(中略)一乗はすなはち第一義乗(だいいちぎじょう)なり。ただこれ誓願一仏乗(せいがにちぶつじょう)なり。

『註釈版聖典』 一九五頁)

   

(一乗海というのは、「一乗」とは大乗であり、大乗とはこの上ない仏のさとりを得
る教えである。一乗の法を得るものはこの上ないさとりを得るのである。(中略)一乗の教えは最上の教えである。それは如来の本願のはたらきにより、あらゆるものに仏のさとりを開かせるただ一つの教えにほかならない。

『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 一二四~一二五頁)

とあります。

  

 その意味を要約しますと、本願念仏は、すべての人びとに、すみやかに最高の仏のさとりを開かせる、唯一無二の教えであることを明らかにされるのです。仏教諸宗のなかには、すべての人びとが、すみやかに、仏の最高の覚りに到ることを主張する教えはいくつもあります。しかし、理論的にはそうであるかもしれませんが、現実的に、すべての人びとが、平等にすみやかに、みな仏の最高の覚りに到ることは不可能です。本願他力念仏こそが、すべての人びとが平等にすみやかに、阿弥陀如来と同じ覚りに到ることのできる教えであることを明らかにされるのです。

 「一乗海釈」は、さらに続きます。

「海」といふは、久遠(くおん)よりこのかた、几聖所修(ぼんしょうしょしゅ)の雑修雑善(ざっしゅぞうぜん)の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明(ぎゃくおうせんだいごうじゃむみょう)の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳(ほんがんだいひちえしんじつごうじゃまんどく)の大宝海水となる。 

これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、経に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水となる」とのたまへるがごとし。         

(『註釈版聖典』 一九七頁)

   

 (「海」というのは、はかり知れない昔からこれまで、凡夫や聖者の修めたさまざまな自力の善や、五逆・謗法・一闡提(いっせんだい)などの限りない煩悩の水が転じられて、本願の慈悲と智慧との限りない功徳の海水となることである。これを海のようであるとたとえる。
これによってまことに知ることができた。経に「煩悩の氷が解けて功徳の水となる」と説かれている通りである。

『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 一二七~一二八頁)

 この意を要約すると、次のようになります。親鸞聖人は、「本願海」と弥陀の本願を海にたとえられました。弥陀の本願が広く深いことを海にたとえられたものです。
太平洋は、黄河の水も長江の水もメコン川の水も淀川の水も利根川の水もみな受け入れ、みな同じ塩味に変えてしまいます。そのように、「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず」(『歎異抄』第一条 『註釈版聖典』八三一項)と言われます。

几夫であろうと聖者であろうと、親殺しなどの五逆罪を犯した者であろうと、仏法を誇る謗法の重い罪を犯した者であろうと、受け入れてくださいます。人間のどのような善も、如来の救いの助けにはなりません。また、人間のどのような悪でも、如来の救いの障礙にはなりません。如来は、人間のどのような善もどのような悪をも超えて、同じ信心の味わいを与えてくだざるのです。

   

一味の世界

   

『歎異抄』後序には、

「源空(げんくう)が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房(ぜんしんぼう)の信心も、如来よりた
まはらせたまひたる信心なり。さればただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」

(『註釈版聖典』八五二頁)

  

(「この源空の信心も如来からいただいた信心です。善信房の信心も如来からいただかれた信心です。だからまったく同じ信心なのです。別の信心をいただいておられる人は、この源空が往生する浄土には、まさか往生なさることはありますまい」

『歎異抄(現代語版)』四六~四七頁)

 

と、四十三歳で本願念仏に帰入され、七十歳を越えられた法然聖人の信心も、念仏に帰入されて五年もたっていない善信房(親鸞聖人)の信心も、まったく同じだと語られるのです。

  

 法然聖人のお言葉に、法然の念仏と弟子の念仏は同じだという語録があります(「聖光房(しょうこうぼう)に示されける御詞(おことば)」『昭和新修法然上人全集』七四四~七四五頁)。「阿波介(あわのすけ)」という一文不知の陰陽師が申す念仏と源空が申す念仏と、「全くをなじことなり」と仰ったそうです。阿波介という男は、七人の妻を持つお金持ちで、貪欲・非道・放逸邪見(ほういつじゃけん)で、妻たちを柱に縛り杖で打ちたたくことを楽しみにしていました。ところが、ふとしたことから道心を起こし、法然聖人の弟子になったと言われています。本願念仏に生きる人は、如来の本願海に入った人です。同じ信心の味わいに生きる人です。

 「正信偈」に、

凡聖逆謗斉回入(ぼんじょうぎゃくほうさいえにゅう)

凡聖・逆謗斉(ひと)しく回入すれば

如衆水入海一味(にょしゅしいにゅうかいいちみ)

衆水(しゅすい)海に入りて一味なるがごとし。

(『註釈版聖典』二〇三頁)

 

(凡夫も聖者も、五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる。

『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』一四五頁)

と讃嘆されているのも、同じ味わいを表されるのでしょう。

   

転治の法

   

 さて、私たちは、煩悩や苦悩を自分の力で解決することができません。解決する力を持たずに苦を重ねている私たちに、如来のお慈悲がかけられているのです。

  

 如来の私たちをお救いくださるはたらきを、医師の病気治療にたとえることがあります。如来の衆生救済の方法には、「対治の法」と「転治の法」があると言われています。対治の法というのは、たとえば風邪には風邪の治療法、腹痛には腹痛の治療法があるように、布施の行は施しを嫌うけちな根性を治療する方法であり、持戒は気ままな心を治療する方法です。また、人間は非難されたり批判されたりすると冷静になれず、しっぺ返しをしたくなりますが、その心を治療するのが忍辱(にんにく)の行だと言われます。このように対治の法は、総じて種々諸々の行を修めさせて苦から救う方法です。

  

 しかし、対治の法では、すべての人びとが平等に救われることはありません。そこで如来は私たち衆生に、悪を善に転じ変える智力、煩悩を功徳に転じ変える智慧を与えて、お救いくださるのです。智慧の念仏、信心の智慧を与え、悪を善に、煩悩を功徳に転変する力を、与えてお救いくださるのです。本願名号、本願念仏、信心の智慧こそが、転治の法です。

  

 『教行信証』行文類に、

〈還丹(かんたん)の一粒(いちりゅう)は鉄(くろがね)を変じて金(こがね)と成す。真理の一言(いちごん)は悪業(あくごう)を転じて善業と成す〉

(『註釈版聖典』 一九九頁)

 (「還丹という薬はたった一粒で鉄を金に変える。真実の道理である如来の名号は、悪い行いの罪を転じて善い行いの功徳とする」

『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』一三一頁)

とあるのも、同じ心を表されたものでしょう。

  

 私たちは、自分の煩悩の深さに思い到るとき、この煩悩の身なればこそ、この煩悩があったればこそ、如来の本願に遇うことができたと、本願を仰ぐことができるのでしょう。

  

大悲の温もり

   

 浅原才市さんは、

あさましや

さいちゃ 十悪

さいちゃ 五逆 人殺す

これを 親に(註・如来さま)とられて

南無阿弥陀仏と 変えてもろうたよ。

(高木雪雄著『才市同行 -才市の生涯と周縁の人々-』九六頁)

と詠っておられます。

 菊藤明道氏によると、才市さんは事情により、幼少の頃より両親と離ればなれで成長されたそうです。その淋しさを少年時代の才市さんは親のせいだと思って、親を恨んだことがあったそうです。

  

  ゆうも ゆわんもなく 親が死ぬればよいと 思いました。なして わしが親は   死なんで あろうかと 思いました(中略)この悪業 大罪人が いまヽで よこれで(よくも) こんにちまで 大地が さけんこをに(裂けずに) をりました

(菊藤明道著『妙好人の氷』五五頁)

と、親を恨んだことを述懐しています。

   

 「親が死ぬればよい」。死んでくれていたらよいと親を恨んだことが、才市さんの心に「この悪業、大罪人」「十悪・五逆、人殺す」として生涯残り、この悲しみを縁として、本願念仏の世界に入られたのです。煩悩の氷解け、功徳の水となったのです。私たちには煩悩の氷を解かす力はありません。その私たちに、如来が如来の大悲の智慧の念仏を与えてくださり、大悲の温もりをいただいて、煩悩の氷が解かされるのです。

   

 私たちは、命のある限り、煩悩をなくすことはできません。しかし、その煩悩悪業にそって、如来の大悲がかけられているのです。そして、如来の大悲の温もりが感じられるとき、この煩悩があったればこそと、本願を仰ぐ人生を歩ませてもらえるのです。こうして、私たちは「煩悩の氷解けて 功徳の水となる」如来のはたらきのなかに生かされるのです。

(黒田覚忍)

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