2011年8月 真理の一言は悪業を転じて善業と成す  法語カレンダー解説

煩悩を断ぜずして涅槃を得

   

 「真理の一言は、悪業を転じて善業と成す」とは、『教行信証』行文類「一乗海釈」の文です。

  

『楽邦文類』にいはく、「宗暁禅師(しゅうぎょうぜんじ)のいはく、〈還丹(かんたん)の一粒(いちりゅう)は鉄を変じて金と成す。真理の一言は、悪業を転じて善業と成す〉」と。

(『註釈版聖典』一九九頁)

(宗暁が『楽邦文類』にいっている。「還丹という薬はたった一粒で鉄を金に変える。
 真実の道理である如来の名号は、悪い行いの罪を転じて善い行いの功徳とする」

『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 一三一頁)

とある文の一節です。

   

 この八月の法語は、七月の法語「煩悩の氷解けて功徳の水となる」と表現は違いますが、同じ内容が述べられているのです。

   

 如来の智慧の眼から見れば、煩悩と覚り、悪業と善業とは、氷と水のように本性は同じで違いはないと、仏教では言います。しかし、悪業と善業、煩悩と覚り、迷いと涅槃とが、本性は同じだといくら聞かされても、私たちはどうしてもそれを覚ることはできません。その智慧のない私たちに、如来の真理の一言である南無阿弥陀仏の名号を与えて、仏の覚りの智慧を与えてくだざるのです。

  

 「正信偈」に、

 能発一念喜愛心(のうほついちねんきあいしん) よく一念喜愛の心を発すれば、
 不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)  煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

(『註釈版聖典』二〇三頁)

(信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、自ら煩悩を断ち切らないまま、浄土でさとりを得ることができる。『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 一四四~一四五頁)

   

などと、親鸞聖人は讃嘆されています。

   

  聖人のお心を考えるとき、そのもとになっているのは曇鸞大師(どんらんだいし)の教えです。大師は『往生論註(おうじょうろんちゅう))に、

荘厳清浄功徳成就(しょうごんしょうじょうくどくじょうじゅ)とは、偈に「観彼世界相(かんひせかいそう) 勝過三界道(しょうかさんがいどう)」といへるがゆゑなり。

これいかんが不思議なる。几夫人ありて煩悩成就するもまたかの浄土に生ずることを得れば、三界の繋業(けごう)、畢竟(ひっきょう)じて牽(ひ)かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや。 

(『註釈版聖典(七祖篇)』 一一一頁)

   

と述べられています。

   

 曇鸞大師の意は、次のような意味でしょう。天親菩薩は「阿弥陀如来のお浄土を思い見ると、迷いの世界である三界の因果を超え勝れている」と言われている。これがどうして不思議であるかというと、几夫のわれわれは、煩悩づくめの生き方をしているが、このわれわれが浄土に往生できれば、この世界で作った煩悩の行為の果を引くことなく覚りに到ることができるのである。このことをすなわち煩悩を断ぜずして涅槃を得というのである。不思議ではないかということです。

   

 この曇鸞大師の教えを、親鸞聖人は受けつがれました。「真理の一言は、悪業を転じて善業と成す」の「真理の一言」とは、われわれのところに南無阿弥陀仏となってはたらいてくださる阿弥陀如来の名号のはたらきです。その名号のはたらきが、われわれの悪業を転じ変えて覚りと成す。すなわち、われわれに浄土の覚りをあたえてくださるというのです。

   

 また、煩悩の氷解けて功徳の水とならなければ、われわれは苦悩から出ることはできません。我執煩悩のために角を立て他と対立し、苦海を出ることはできません。その煩悩の氷を解かすのはわれわれの力ではなく、阿弥陀如来のわれわれをお救いくださるおはたらきなのです。

   

 われわれの悪業を転じてくださるのも、煩悩の氷を解かしてくださるのも、阿弥陀如来のおはたらきでした。ですから、私たちの側で煩悩を断ずる必要はないのです。いや、断ずる力がわれわれにないからこそ、仏力、他力によって断じてくだざるのです。

   

   

信心の利益

   

 自力の仏教では、一般に煩悩を断じて涅槃の真理を悟るという意味で、「断惑証理(だんわくしょうり)」という言葉が用いられます。しかし、他力の教えでは仏力、他力によって覚りに到ると考えるのです。

  

 なお、ここで注意しておきたいのは、「煩悩の氷解けて功徳の水となる」のも「悪業を転じて善業と成す」のも、あるいは「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということも、すべて浄土で得る利益、すなわち覚りのことです。この世で覚りを得られたら、浄土往生は必要ありません。

   

 「悪業を転じて善業と成す」のも、「(悪業)煩悩の氷とけて(善業)功徳の水となる」のも、ともに浄土に往生してから後に得る利益であるのなら、この世で得る利益はないのでしょうか。

   

 真理の一言である南無阿弥陀仏の名号のはたらきを身に受けている信心の行者は、将来浄土に往生して必ず覚りを開く徳を身にいただいている、正定聚(しょうじょうじゅ)の人です。

   

 正定聚の人がこの世で得る利益は、種々に表現されます。『教行信証』では、信心の行者がこの世で得る利益を十種の観点、側面から表されています。そのなかで、「心光常護(じんこうじょうご)の益(やく)」(『註釈版聖典』二五一頁)に注目したいと思います。心光常護とは、信心の人は常に阿弥陀如来の心光に護られているということです。このことをまた聖人はお手紙に、

真実信心の行人は、摂取不捨(せっしゅふしゃ)のゆえに正定聚の位に住す。

(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七三五頁)

  

とも述べられています。摂取不捨とは、阿弥陀如来の心光に摂取されてお捨てにならないということです。信心の人は、如来の光明のなかに生きる人だとも言われています。信心をいただいた人の人生は、それまでの人生が煩悩海、苦海であったものが、その人の人生すべてを通して、如来の光明のはたらきのなかに生かされていると感じられる人生に変わるのです。

   

 如来の光明のなかに生かされる信心の人は、「転悪成善の益」を得るとも言います。

   

 私の身近な人たちで、よく聴聞なさる方々は、「歳を取るといいことは何もないという人もあるけれども、歳をとったおかげでわからせていただいたことがたくさんある。病気を通しても、体が弱ったことを通しても、気づかせていただくことがたくさんあります。本当におかげさまで有り難いことです」と言われます。

   

 「転悪成善の益」とは、浄土に往生して覚りを開くという意味もあります。しかし、信心の人がこの世で得る利益とも考えたいものです。歳を取ることも、病気になることも、体が弱ることも、いやなことです。一般的には避けたいことです。しかし、避けられないいやなこと、不幸なことが、それはそれとして人生の意味を持つ、あるいは意義が与えられることも、「転悪成善の益」と味わいたいものです。

   

   

感謝の生活

   

 私のよく存じあげている、ある篤信の年配女性のことです。娘時代のことですが、その方の言葉によると次のように話されました。
   

 私のお父さんは、お医者さんから治らぬ病と告げられていました。そのとき、私は十八歳で、妹や弟もいました。一番下は小学校三年生でした。私は、お母さんを助けて妹や弟を一人前に育てなければと思っていました。

   

 戦争も激しさを加えていたある日、出征兵士を村はずれまで送って行きました。その日を最後に帰らぬ人となる人も多かったので、日本中、どこでも戦場に向かう兵士を見送ったものでした。

   

 家に帰ってみると、お母さんが土間で倒れていました。お母さんは数日後に亡くなってしまいました。それまで、お父さんが亡くなるとは思っていました。しかし、お母さんが亡くなるとは夢にも思わなかったことです。そのお母さんが亡くなったのです。天と地がひっくり返ったような驚きでした。人間は何をたよりに生きていったらよいのか、そのときの気持ちはうまく言い表すことはできません。そのとき以来、お寺の釣鐘が鳴ると、家にじっとしておれませんでした。私か聴聞を始めたのは十八歳のときからでした。

  

 このように、この方は当時をふり返って申されたことがあります。

  

 この方にとって、お母さんとの別れ、両親との別れという事実に、お念仏の教えに遇うことを通して、新しい意味が与えられたのです。あのお母さんとの別れがあったればこそ、お念仏の教えに遇わせていただいたと、感謝の生活をされています。

   

 最近も八十数年の生涯をふり返って、若いときには乳呑み児を連れおむつを持って聴聞に出かけた。夫もそれを許してくれた。聴聞を続けることができたのは、こんな愚かな者を捨てられないという如来のお慈悲のおかげであったと、喜んでおられます。

   

 両親と若くして別れるという事実はけっしてなくなりません。しかし、如来さまのお力によって、そのような出来事があったればこそと、力強く生きぬくことができるようになるのです。そのことが、この世において悪業を転じて善業と成すという味わいでしょう。

   

(黒田覚忍)

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