2011年9月 如来一切のためにつねに慈父母となりたまえり 法語カレンダー解説

王舎城の悲劇

   
 今月の法語は、『教行信証』信文類の『涅槃経』の長い長い引用のなかの一文です。

 お釈迦さまの最晩年、インドで最も栄えたマガダ国に一大悲劇が起こりました。皇太子である阿闍世(あじゃせ)が、お釈迦さまの弟子の提婆達多(だいばだった)にそそのかされて、父の頻婆娑羅(びんばしゃら)王を殺し、王位を奪ったのです。しかしその後、阿闍世は猛烈な後悔に襲われ、激しく苦しむのです。やがて、お釈迦さまによって阿闍世は救われます。阿闍世は救われた喜びを詩にして、お釈迦さまを讃えます。その詩のなかの一節が、今月の法語です。

そんなわけで、この法語は阿闍世王がお釈迦さまを讃える言葉なのです。

  

 しかし、親鸞聖人は阿闍世王が救われたこの事実を、すべての凡夫のため、すべての五逆罪を犯す者のためのことであり、迷えるすべての衆生の救いを表すものと考えられました。『涅槃経』も、またそのような意味で説かれています。ですから、私たちも今月の法語をそのように味わいたいと思います。

  

親鸞聖人は、悪縁に遇えば親殺しもしかねない私たちの姿を阿闍世王の上にご覧になり、このような悪人こそ第十八願の救いの目当てであると考えられたのです。この悲劇の展開と救いこそ、釈迦・弥陀の種々の巧みな手だてによる我々の救いに他ならないと、親鸞聖人は考えられました。

  

 『高僧和讃』に、

釈迦(しゃか)・弥陀(みだ)は慈悲の父母(ぶも)
種々(しゅじゅ)に善巧方便(ぜんぎょうほうべん)し
われらが無上の信心を
発起せしめたまひけり 

(『註釈版聖典』五九一頁)

    

(お釈迦さまと阿弥陀如来は慈悲においての父母である。様々に真実巧みな手立てをなされ、私たちにこの上もない信心を、起こさせてくださったのである。  

北塔光昇著 『聖典セミナー 高僧和讃』二二三頁)

とあり、『浄土和讃』に、

弥陀・釈迦方便して
阿難(あなん)・目連(もくれん)・富楼那(ふるな)・韋提(いだい)
達多(だった)・闍王(じゃおう)・頻婆娑羅(びんばしゃら)
耆婆(ぎば)・月光(がっこう)・行雨等(ぎょううとう)

(『註釈版聖典』五七〇頁)

(『観経』『涅槃経』は、阿弥陀如来と釈迦如来が私たちを救う手だてとして説かれた経典である。如来の救いの手だて、方便として浄土から現れてくださった方々は、阿難尊者、目連尊者、富楼那尊者、韋提希夫人、提婆達多、阿闍世王、頻婆娑羅王、耆婆大臣、月光大臣、行雨大臣等である。

黒田覚忍著『聖典セミナー 浄土和讃』二九〇頁)

 

大聖(だいしょう)おのおのもろともに
凡愚底下(ぼんぐていげ)のつみびとを
逆悪(ぎゃくあく)もらさぬ誓願(せいがん)に
方便引人(ほうべんいんにゅう)せしめけり

(『同』)

(韋提希夫人や阿闍世王のほか、阿難や月光、行雨等、王舎城の悲劇に関係した人びとは、本来、皆浄土の大聖者であった。その聖者方がおのおの善人となり悪人となり、王となり妃となり、一緒になって愚かな凡夫、生死の大海の底に沈んでいる悪人を、十悪、五逆の罪人ももらさずお助けくださる第十八願に導き入れてくださった。

『同』二九三頁)

と讃嘆されています。

  

 この王舎城(おうしゃじょう)の悲劇をもとに、『観経』では韋提希夫人の救いが説かれています。経典は異なりますが、ともに凡夫、悪人の救いがテーマです。 

  

   

慚愧の心

  

 『涅槃経』に説かれる阿闍世の救いで、特に心に留まる言葉が二つあります。一つは、阿闍世は慚愧(ざんぎ)の心をいだいているとあることです。もう一つは、阿闍世が救われたことを無根の信を得たと表現されていることです。

   

 慚愧という言葉は、当時、お釈迦さまの信者で名医と言われた耆婆大臣が、阿闍世の次のような告白に対して言った言葉です。

  

〈耆婆よ、わたしは今重い病にかかっている。正しく国を治めていた王を非道にも殺害してしまったのである。どのような名医も良薬も呪術も行き届いた看病も、この病を治すことはできない。なぜなら、わたしの父は王として正しく国を治めており、まったく罪はなかったのに、非道にも殺害してしまったからである。(中略)わたしは昔、智慧ある人が次のように教えを説かれるのを聞いた。

《身・口・意の三業が清浄でないなら、この人は必ず地獄に堕ちるのである》

と。わたしもまたそうなるのである。これがどうして安らかに眠ることができようか。どのようにすぐれた医者でも、今のわたしを治すことはできない。病を治す薬となる教えを説いてわたしの苦しみを除くことはできないのである〉と。

(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』二七五~二七六頁)

という言葉に対して、耆婆大臣は王に、

 

善いことを仰せになりました。王さまは罪をつくりましたが、深く後悔して慚愧の心をいだいておられます。(中略)今王さまが十分に慚愧の心をいだいておられるのは、実に善いことです。

(『同』二七六~二七七頁)

 

と、王の深い後悔の心のすばらしいことをほめ、お釈迦さまは必ず王の心の病を治してくださるから、お釈迦さまのもとへ行くように強く勧めます。しかし、王はなかなかためらって決心がつきません。そして王は耆婆に対して、「如来は、わたしのような者にも会ってくださり、心をかけてくだざるのであろうか」と尋ねます。王は、自分の犯した悪業にとらわれて、自分のような者に如来は会ってくださらないだろう、自分のような悪人に心をかけてくださらないだろう、と考えていたのです。

  
 その王に対して、者婆大臣は次のように答えます。

 たとえばあるものに七人の子がいたとしましょう。その七人の子の中で一人が病気になれば、親の心は平等でないわけではありませんが、その病気の子にはとくに心をかけるようなものであります。王さま、如来もまたその通りです。あらゆる衆生を平等に見ておられますが、罪あるものにはとくに心をかけてくださるのです。放逸のものに如来は慈しみの心をかけてくださるのであり、(中略)王さま、仏がたはあらゆる衆生に対して、その生れや老若や貧富の違い、また、生まれた日の善し悪しなどを見られるのでもなく、(中略)たとえば王さまのおこされた慚愧の心のように、善の心ある衆生を、ただご覧になるのです。そして、もし善の心があるなら、慈しみの心をかけてくださるのであります。

(『同』二八三~八三四頁)

  

  

無根の信

  

 耆婆大臣は、このように仏の慈悲の大きいことを繰り返し繰り返し説きますが、王は過去の罪にとらわれて、自分を責め卑下し、お釈迦さまに会いに行くことをためらいます。しかし、どうにか耆婆に連れられて、お釈迦さまに会いに行くことになりました、この光景は『教行信証』には引用されていませんが、たいへん重要です。概略は次のようです。

  

 二人は、お釈迦さま入滅の地、沙羅双樹のお釈迦さまの所に来ました。そこにたくさんの人が集まっています。そのとき、お釈迦さまは”大王”と呼びかけられました。王は、自分のような罪深い悪人が、「大王」と呼ばれるはずがないと思い、あたりを見まわしました。すると今度は、「阿闍世王」と呼ばれたのです。この言葉を聞いて、王は自分のような者を「大王」と呼んでくださった仏の慈悲を、全身に感じたのです。

「真に如来が、諸(もろもろ)の衆生に於(おい)て、大悲憐愍(れんみん)して、差別無きを知る」(『大般涅槃経』『国訳一切経』涅槃部一・三八八~三八九頁)と言い、お釈迦さまに対するゆるぎない心が生じ、王の過去の罪に対するかたくなな心がとけ、説法を聞くことになります。

  

 こうして、阿闍世に信心の心が開けてくるのです。王は、次のように述べています。

  

〈世尊、世間では、伊蘭(いらん)の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀(せんだん)の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝(ほうぼう)や僧宝(そうぼう)を信じたこともなかったので、それを無根というのであります。世尊、わたしは、もし世尊にお遇い しなかったなら、はかり知れない長い間地獄に堕ちて、限りない苦しみを受けなければならなかったでしょう。わたしは今、仏を見たてまつりました。そこで仏が得られた功徳を見たてまつって、衆生の煩悩を断ち悪い心を破りたいと思います〉と。
   (中略)
 〈世尊、もしわたしが、間違いなく衆生のさまざまな悪い心を破ることができるなら、わたしは、常に無間地獄にあって、はかり知れない長い間、あらゆる人びとのために苦悩を受けることになっても、それを苦しみとはいたしません〉と。

(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』二九五~二九六頁)

と救われた喜びを述べています。

   

   

 如来さまからの喚びかけ

  

 今月の法語は、始めにも述べましたが、救われた喜びからお釈迦さまを讃える詩のなかの一説です。長い詩ですが、その中心は「如来一切(にょらいいっさい)のために、つねに慈父母(じぶも)となりたまへり」(『註釈版聖典』二八八頁)です。

  

如来に救われた喜びから過去をふり返ったとき、仏法から逃げまわっていた自分の姿に気づかされたのです。自分が殺した父が仏のもとに行けと命じても、耆婆がどれほど誘っても、自分の犯した罪にとらわれて仏のもとに行くことができませんでした。仏のもとに赴いたことも、説法を聞く心が起こったことも、私の力ではありませんでした。この罪深い者、自分の犯した罪にとらわれている自分に向かって「大王よ」と呼びかけ、聞く心を起こしてくださったのです。

   

 もっと過去から考えますと、この世に生まれる前から私たちの苦悩の現実をお見通しになって、如来は私を思い続けていてくださったのです。

(黒田覚忍)

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