2012年2月こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし 法語カレンダー解説

障りと徳

 

今月は、『高僧和讃』「曇鸞讃」のなかの一節をとりあげて、そこに現されている深い心に聞いていきたいと思います。

   

まず、そのご和讃を取りあげてみましょう。

 

罪障功徳(ざいしょうくどく)の体(たい)となる

こほりとみづのごとくにて

こほりおほきにみづおほし

さはりおほきに徳おほし

(『註釈版聖典』五八五頁)

   

罪や障りが覚りのもととなります。氷と水の関係のなかで、氷が多ければ水も多いように、障りが多ければ、覚りの徳も多いのです。

この和讃の第三句・第四句目が、今月のご文として引用されています。

   

最近、親鸞聖人の真筆として世に出ました『信微上人御釈(しんびしょうにんおんしゃく)』(本願寺蔵)のなかに、

   

障り滅れども去なる所ろ無し、冰り解て水と為るが如し、冰多れば水多し、障り多れば徳多し。

(『浄土真宗聖典全書』第二巻、九八三頁・原漢文)

  

という言葉があります。障りがなくなるといっても、どこかに消えていってしまうのではありません。それは、ちょうど氷が解けて永となるようなものです。形は変わっても、その本質はひとつであるということです。そして、次の文は今の和讃の言葉と同じであります。氷は煩悩に、水は菩提に喩えられます。ですから、氷が解けて水になるということは、煩悩がそのまま菩提になるということで、煩悩を離れて菩提はないし、菩提は煩悩と体ひとつだということになります。また、煩悩の氷が多ければ多いだけ、解けた水も多くなる。氷の分量と水の分量が比例するということです。このような関係を思ってみますと、煩悩が起こっている私のところにこそ、阿弥陀さまのはたらく場があると味わわれます。煩悩が多ければ多いだけ、仏の力というものもそれにつれて多くなるということです。  

   

ある方が、「われわれの罪や煩悩が、そっくりそのまま覚りの種だ」と言っておられました。心に残っている言葉であります。ある方は、「『さはりおほきに徳おほし』と言い切れる世界が開けた人は、豊かな人生を生きられるでしょうね」と言われておられました。人生には、さまざまなつらいこと、苦しいことが、また障りが起こってきます。なぜ、こんな苦しい人生を生きねばならないのだろう、と思うこともあります。そんな時、「さはりおほきに徳おほし」という言葉が、どのように響いてくるでしょうか。障りを通して徳が昧わえるような視野が開かれていくのが「信心の智慧」だ、ということだと思われます。

   

ずいぶん前のことになりますが、妙好人(みょうこうにん)を訪ね、有福(ありふく)の善太郎さんのお寺にお参りしたことがあります。その時、ご住職から次のようなお話をうかがいました。

   

善太郎さんはもともと”毛虫の悪太郎”と嫌がられ、残された手記によりますと、

   

善太郎は父を殺し、母を殺し

その上には盗人をいたし、人の肉をきり

その上には人の家に火をさし

その上には親には不孝のしずめ

(菅真義著『妙好人 有福の善太郎』二〇頁)

   

と告白しています。そういう善太郎さんが、お念仏を喜ぶ身となっていかれたということをお聞きしながら、親鸞聖人の今の和讃が心に浮かんできました。恐ろしい顔つきのクチビルがいつの間にかモグモグ動いて、静かな念仏の声が出るようになったといわれています。まさに、「さはりおほきに徳おほし」の言葉どおりの姿を見るようであります。

   

「二河白道の譬」

   

この和讃を味わう時、今一つ思い出されるのは、煩悩のなかに清浄な往生を願う心が生ずるという、有名な善導大師の『観経疏(かんぎょうしょ)』「散善義」の「二河白道(にがびゃくどう)の譬(たとえ)」です。 その内容を少し辿ってみることにします。

   

その冒頭には、

   

人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。

(『註釈版聖典(七祖篇)』四六六頁)

   

とあって、その旅人は旅の途中で二つの河に出合います。一つは火の河、今一つは水の河です。善導大師は、同じく「散善義」のなかで、

   

「水火二河」といふは、すなはち衆生の貧愛(とんない)は水のごとく、瞋憎(しんぞう)は火のごとくなるに喩ふ。

(『同』四六八頁)

   

と示されています。そして、

   

二河おのおの閥さ百歩、おのおの深くして底なし。南北辺なし。

(『同』四六六頁)

   

と続きます。この「深くして底なし」というのはわれわれの煩悩の底が限りなく深く暗いということを表しています。『歎異抄』の、

   

さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし

(『註釈版聖典』八四四頁)

   

という言葉が思い浮かびます。人間の限りない暗さと悪への可能性を読み取ることができます。さらに、「南北に辺なし」という文が深い意味を添えます。深さだけではなく、広がりをもって煩悩を表しています。

   

ついで、

   

まさしく水火の中間(ちゅうげん)に一の白道あり。闊(ひろ)さ四五寸ばかりなるべし。

(『註釈版聖典(七祖篇)』四六六頁)

   

とあり、水の河・火の河の中間に、四・五寸ばかりのわずかな幅のIつの白道がありますと述べられています。

   

その白道について、善導大師は、

   

衆生の貪瞋(とんじん)煩悩のなかに、より清浄(しょうじょう)の願往生心(がんおうじょうしん)を生ずるに喩ふ。

(『同』四六八頁)

   

といわれていますが、このなかの「煩悩のなかに」といつ文に注目したいと思います。

それは、煩悩を離れて清浄願往生心はないということです。煩悩が清浄願往生心を起こさしめているということです。

   

泥中の蓮華

   

よく知られている『維摩経(ゆいまぎょう)』のなかに出てくる、煩悩の泥中に咲く蓮華の話もそうです。

   

讐えば高原の陸地は蓮華を生ぜず、卑湿(ひしつ)の淤泥(おでい)は乃ち此の華を生ずるが如し。(中略)煩悩の泥中に乃ち衆生有りて仏法を起こすのみ。

(『維摩詰所説経』『新国訳大蔵経』文殊経典部二、一〇一頁)

   

とありますように、蓮華が淤泥に染まらず、淤泥のなかから美しく咲いています。もちろん、ここで淤泥は煩悩に、そして蓮華の花は菩提に喩えられます。煩悩こそ仏道を成り立たしめている素材ということになります。

   

煩悩にそのような意味があるとすれば、闇と明かりの関係で考えますと、闇、そして暗いところはダメで、明るいところが肯定され価値が認められるという見方は、少し考え直さなければならないといえるでしょう。たとえば、こんな話を聞いたことがあります。朝顔は、朝、太陽の光に当たって咲きます。確かにそうだと思っています。しかし、夜の長い時間をくぐりぬけ、そして朝の陽に当たって咲くのだという見方もできます。もし、そのように考えることができるとすれば、闇に対する考え方を少し変えなければならないと思います。親はわが子のため涙を流しながら、長い夜を通り過ぎて、初めて本当の親になるのだといわれます。現代は、どこか暗いところを切り捨て、かえりみることをしなくなった時代のように思えてなりません。

   

智慧のはたらき

   

ところで、障りが功徳に転換するといわれる場合、その転換は智慧のはたらきによるものです。智慧は知識とは違います。知識には行き詰まりがあります。さますまな出来事が起こり、それを解決しようとすれば、知識では解決できない問題も生じてきます。もっとも生きていく上においては、知識も必要です。豊かな生活を送るためには、知識がなくてはなりません。ですから、けっして知識がいらないといっているのではありません。

   

仏の教えは、何ものにもさまたげられない行き詰まりのない世界を知らせてくださるのです。その仏さまの教えによって新しい領域に気付かされ、救いにあずかるということができるのです。それは智慧の眼をいただくということです。肉眼(にくげん)・天眼(てんげん)・慧眼(えげん)ということがいわれます。私たちがいかに物を見ているようで見ていないかということを思い知ることができます。障子一枚向こうは誰が何をしているのか分からないのですから。

   

高性能の望遠鏡によって、五十億光年という遠くの星が観測できるようになったといわれています。しかし、それは、宇宙全体からみれば全天の一点にすぎません。また、精度の高い電子顕微鏡によって、十の十八乗分の一の世界が見られるようになったともいいます。しかし、それ以上の極小の世界は、見ようとして光のエネルギーをあてますと、かえって見えなくしてしまうということを聞きます。いずれにしても、私たちの眼で見える世界には限界があるのです。

  

このような人知を超え、智慧の眼をいただくということがなくては、転換は成り立ちません。それが信心の智慧をいただくということです。

   

渋柿の渋がそのまま甘味かな

   

という歌のごとく、転成(てんじょう)とは、渋がなくなって甘くなるのではなく、太陽の光を受け養分を取って、渋のままが甘くなるのです。大きな力によって転じられていくのです。

   

氷もその本質は水でありますから、熱を加えれば水に転ずることができます。この煩悩成就の凡夫がそのままで、如来の本願力によって救われていくということです。

   

信心の利益

   

親鸞聖人は、曇鸞大師(どんらんだいし)を讃えられる和讃のなかで、

本願円頓一乗(ほんがんえんどんいちじょう)は

逆悪摂すと信知して              

煩悩・菩提体無二と

すみやかにとくさとらしむ

(『高僧和讃』『註釈版聖典』五八四頁)

   

すべての教えが円かで速やかに備わっている、優れた本願のみ教えは、五逆や誹謗の者を摂取すると信じ知らせ、煩悩と覚りとが本来ひとつであるということを、即座に覚らせるのです。

   

 無礙光(むげこう)の利益より

威徳広大(いとくこうだい)の信をえて

かならず煩悩のこほりとけ

すなはち菩提のみづとなる

(『高僧和讃』『同』五八五頁)

阿弥陀さまの無限の障りのないはたらきによって、すばらしい信をえることができれば、必ず氷のような煩悩も解けて、そのまま水のような功徳に満ちた覚りになります。

   

などと詠って、「信知して」、あるいは「信をえて」とあるように、どこまでも信心の利益として、「煩悩・菩提体無二」とか「煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる」といわれるのです。私たちは、つい利益の方に、氷と水の喩えの方にと、眼が向きがちですが、和讃一つひとつにたとえ信心の語がなくても、いただかれた信の上に立って、それぞれが詠われていることに注意すべきであります。曇鸞大師は、信心の内容を詳しく説かれています。それを受けられた親鸞聖人も、たとえば次のように詠われています。

   

論主(ろんじゅ)の一心ととけるをば

曇鸞大師のみことには

煩悩成就のわれらが

他力の信とのべたまふ

(『高僧和讃』『同』五八四頁)

天親菩薩が「一心」とお説きになった信心を捉えて、曇鸞大師は「煩悩にまみれた私たちのための他力の信心である」とお述べになりました。

   

このように和讃を通して、お念仏の教えに触れさせていただきたいものです。

(大田利生)

 

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