2013年7月 「まかせよ まかせよ」如来の声 「おまかせします」私の声 法語カレンダー解説

hougo201307苦悩を克服する方法

鈴木章子(あやこ)さんの『癌告知のあとで』の一部を紹介します。

鈴木さんは、入院をされて乳ガンとの取り組みが始まると、限られた人生の前には、世間一般の価値観が通用しなくなるということに気づかれて、「お先真っ暗」といった心境になられます。「生死」の問題と向き合うようになった時、次のような手紙を受け取ります。

 

 そんなとき、八十歳を過ぎた実家の父から手紙があり、「あなたは、一体何をドタバタしているのか。生死はお任せ以外にはないのだ。人知の及ばぬことはすべてお任せしなさい。そのためにお寺に生まれさせてもらって、お寺に嫁いだのではないか。生死はあなたが考えることではない。自分でどうにもならぬことをどうにかしようとすることは、あなたの傲慢である。ただ事実を大切にひきうけて任せなさい」と書いてありました。

(『癌告知のあとで』二一頁)

 

こうして、お父さんの言葉に安心され、誰にも代わってもらえない人生であることに気づいたと言われています。

人間が生きるということは、誰もが持っている根源的な生命の欲求であります。生命の欲求は、動物も同じように共通に持っています。しかし、人間には理性があり、願望を持った生き方をしていますが、その願望も、突然、病にかかって再起不能の宣告を受けたりすると、かなわなくなることがあります。このような不安定ななかで私たちは生きています。

仏教は、人生の苦悩を克服するために、煩悩をなくしていくことを教えるものです。

しかし、煩悩をなくすことは不可能です。そこで、心の持ち方を転換し、視点を変えることによって、少しでも苦悩を克服できる方法があるのではないでしょうか。

 

 

現生正定聚の利益

 

親鸞聖人の『正像末和讃』には、

 

如来(にょらい)の作願(さがん)をたづぬれば

苦悩の有情(うじょう)をすてずして

回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて

大悲心(だいひしん)をば成就(じょうじゅ)せり

 (『註釈版聖典』六〇六頁)

 

とあります。『仏説無量寿経』には、法蔵菩薩があらゆる衆生を救いたいと誓願をおこされたとあります。そして、長い間の修行をかけて完成してくださったのが、南無阿弥陀仏の名号です。その名号が「南無阿弥陀仏」の喚び声となってはたらいておられることが、説かれてあります。また『仏説阿弥陀経』には、ここから西方に、十万億の諸仏の国々を過ぎたところに世界があって、その世界を極楽と言います。その極楽には阿弥陀という仏がおられて、いまも現に迷い続けている人びとを救う法を説き続けておられるとあります。

 

『教行信証』信文類末には、

金剛(こんごう)の真心(しんしん)を獲得(ぎゃくとく)すれば、横(おう)に五趣八難(ごしゅはちなん)の道(どう)を超え、かならず現生(げんしょう)に十種の益(やく)を獲(う)。

(『註釈版聖典』二五一頁)

 

と表し、金剛の信心を得た人には、仏道の妨げとなる八難を超えて、十種類の念仏の徳が備わると述べられています。その利益には、念仏者は阿弥陀さまの光明に摂取されて、常に護られている利益や、心によろこびがあふれてくる利益、阿弥陀さまの大悲を人のために常に実践できる利益などがあります。

 

『正像末和讃』には、

弥陀智願(みだちがん)の広海(こうかい)に

凡夫善悪(ぼんぶぜんあく)の心水(しんすい)も

帰入(きにゅう)しぬればすなはちに

大悲心(だいひしん)とぞ転ずなる

(『註釈版聖典』六〇七頁)

と言われ、これら十種の利益のなかに、悪が転じられて善となる利益があることが記されています。

「凡夫善悪の心水」には、「凡夫の善の心、悪の心を水にたとへたるなり」(『註釈版聖典』六〇八頁)と左訓がしてあります。また、「転ずなる」にも「あくの心甘んとな
るをてんずるなりといふなり」(『浄土真宗聖典全書(二) 宗祖篇・上』四八八頁・原片
仮名)と左訓がつけてあります。この意味から窺いますと、川の水(凡夫の心)が海に入ると海水(仏の心)と一味になるように、私たち衆生の心中に阿弥陀さまの大悲心が満入(まんにゅう)すると、たちどころに凡夫の煩悩の心が善に転ぜら札て、阿弥陀さまの大悲心と融化(とけて形を変える)していくのであります。

阿弥陀さまの助ける名号が私に届いた姿が、お助けを喜ぶ信心となります。「たのめ助くるぞ」の阿弥陀さまの喚び声を聞くところに、私は「お助けをたのむ」という信心を持つことになります。つまり、阿弥陀仏の喚び声が、喚び声どおりに私の心にありのままに届いて、「おまかせします」と南無阿弥陀仏の念仏となって出てきてくだざるのであります。

これら信心の十種の利益のなかで中心となるのが、「正定聚(しょうじょうじゅ)の益」です。正定聚の益とは浄土に生まれて仏になることが約束され、念仏者の仲間に入れていただくことなのです。

 

『浄土和讃』には、

真実信心(しんじつしんじん)うるひとは

すなはち定聚(じゅうじゅ)のかずにいる

不退(ふたい)のくらゐにいりぬれば

かならず滅度(めつど)にいたらしむ

(『註釈版聖典』五六七頁)

 

とあります。凡夫が自力で覚りを開くことは不可能なことです。しかし、真実信心の人は、阿弥陀仏の功徳を領受した信心獲得の念仏者のことを指しますから、正定聚の人と同じことです。その信心を得た人には、現生において、「仏になるまでといふ」『一念多念文意』『註釈版聖典』六八〇頁・脚註)不退転の位につき、大きな利益を得ることができます。

たとえば、受験生が大学入試に合格すれば、大学生の仲間入りをします。ところが、まだ入学式を済ませていないので大学生とは言えません。しかし、いずれは大学生になることが決まっているのです。大学入試に合格したということは、真実信心を得た人と同じということで、正定聚の仲間に入り不退の位に就くのです。正定聚の人は後戻りしない、すなわち退転しないということです。迷いの世界にもう落ちる心配がなくなるということです。信心を得た人は、現生において正定聚の人となり、不退の位に就きます。そして浄土に往生すると同時に、必ず滅度の覚りを開くことができるのです。

 

『親鸞聖人御消息集』には、

正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪(ふじょうぞうあく)の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。

(『註釈版聖典』七五八頁)

 

とあります。このように、正定聚の人は「如来と等しい」とも言われています。信心をよろこぶ人は、この身はあさましい煩悩具足の凡夫ではあるけれども、阿弥陀さまから無上の功徳である名号を回向(えこう)されますので、信心の徳として念仏者の心は如来と同じ功徳にめぐまれるのです。

正定聚については、「往生すべき身とさだまるなり」『一念多念文意』『註釈版聖典』六七九頁・脚註)、「かならず仏になるべき身となれるとなり」(『同』六八〇頁・脚註)と左訓がしてあります。信心をよろこぶ人は、まさしく往生することが定まった仲間となって、浄土に往生すると必ず成仏する身となるというのです。

正定聚の人とは、阿弥陀さまと同じよろこびをめぐまれた人となり、「念仏のひとは弥勒のごとく仏になるべしとなり」(『同』六八〇~六八一頁・脚註)と弥勒菩薩と同じとも言われます。弥勒菩薩とは、五十六億七千万年の後、この世の衆生を救済する未来仏と言われていますが、その弥勒と同じだと言われるのです。こうして信心をよろこぶ人は、あさましい罪深い心はなくなりませんが、大涅槃に近づく尊い人間となっていくのであります。

また、信心よろこぶ人と言えども、苦悩のなかにありながら、力強く生きる力を与えられるのです。それは、蓮の華が泥のなかで生育しながら、泥のなかから美しい華を咲かせることに似ています。信心をよろこぶ人は念仏の華を咲かせることから、分陀利華(ふんだりけ)(白蓮華)と言い、妙好人・真の仏弟子とも言われるのです。

 

 

釈尊の勧めと阿弥陀さまの喚び声

『教行信証』信文類には、善導大師の二河白道の話が出ています。

ある旅人が西に向かおうとしますと、その白道を炎と水の波浪が交互に交わって通ることができません。旅人は引き返そうとしますが、群賊・悪獣が追ってきて殺そうとします。旅人は、恐ろしくなって西に向かおうとしますが、このままだと水火の二河に落ちてしまいます。今引き返しても死、立ち止まっても死、このまま進んでも死が待ちかまえています。これを「三定死(さんじょうし)」と言います(『註釈版聖典二二四頁』)。

もう死を免れることはできないと思っていますと、東の岸にたちまちに人の勧める声を聞きました。「あなたは決意して、この道を訪ねていきなさい。必ず死ぬことはないであろう。もしも、そこに止まったならば、死ぬであろう」と呼びかけてきました。また、西の岸からも、「あなたは、一心に正しい思いを持って、ただちにこの道を来なさい。私は、あなたを必ず護るであろう。決して水河の難をおそれてはならない」という、喚び声が聞こえてきました。

この話では、東の岸から「きみただ決定(けつじょう)してこの道を尋ねて行け」(『註釈版聖典』二二四頁)という声とは、釈尊がこの道を行けば必ず浄土に通じるということを勧める声であり、西の岸からの「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」(『同』)という声は、阿弥陀さまの喚び声でありました。これを釈迦・弥陀の「発遣(はっけん)・招喚(しょうかん)」と言います。釈迦のこちらからの勧めと、阿弥陀さまの浄土からの「ただちに来たれ」という喚び声がひとつとなって、念仏者に救いの法をさしのべておられるのです。

 

 

如来の声と私の声

阿弥陀さまの「わが声をたよりに来れば、必ず救う」という、「まかせよ、まかせよ」との喚び声に、私は素直に「はい、おまかせします」と答えるだけでいいのです。

信心をよろこぶ人は、阿弥陀さまの「われにまかせよ」という喚び声を聞いて、すべてを阿弥陀仏におまかせすることで、浄土往生をなしとげることができるのです。

覚りを開くことは、凡夫の自力のはからいではどうすることもできません。凡夫を救うはたらきは、阿弥陀仏の受け持ちであります。阿弥陀仏の受け持ちは、凡夫を必ず仏に仕上げていくことですから、凡夫は阿弥陀仏の喚び声におまかせして念仏するだけでいいのです。

(石田雅文)

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