2014年4月 一切は 縁において生まれ 縁においてあり 縁において去っていく 法語カレンダー解説

hougocalender201404縁起について

 

仏教の根幹をなす思想の一つに縁起があります。この世の一切の存在は直接にも問接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合い、同時に生滅変化しているという考え方です。縁起という語は因縁生起の略であり、因は結果を生じさせる直接の原因、縁はそれを助ける外的な条件のことです。「一切は縁において生まれ、縁においてあり、縁において去っていく」の言葉には、この縁起の思想が端的に表明してあります。
釈尊の悟りの内容は縁起の理法を達観されたことにあり、それはそのまま、仏教の標幟が諸行無常印・諸法無我印・涅槃寂静印の三法印にあるといわれる所以でもあります。すなわち、この世に存在する一切のものは、常往にして不変なるものは何もなく、時間的に因縁果の道理に沿って刹那刹那に変化してやまないために、それ自身、無常であると説くのが諸行無常印です。また一切の存在は他のものと空間的な因縁の関係をもたずして存在するものは何もなく、互いにもちつもたれつの関係にあると説くのが諸法無我印です。

 

それは私白身も単独に存在するものではなく、さまざまな因と縁が和合する中に生かされている仮の存在であるために、我として執着すべきものではないことを教えています。したがって、一切の存在そのものはもちつもたれつの関係にあるために、自性(固定した独自の性質)をもつものではなく、無自性なるものであることを知らせるために説かれたのが諸法無我印です。

 

そして、この諸行無常、諸法無我の真理に目覚めていくことこそ涅槃寂静の境地を体得することであり、それが仏道の目指すさとりの境地に他なりません。

 

 

一切は縁において生まれ

 

初めの「一切は縁において生まれ」という言葉ですが、この世に命が誕生するためにはさまざまな多くの縁がなければなりません。私か生まれてくるためにも父母の両親がいなければなりません。その両親にも二人の親、そうして先祖を遡っていきますと、十代前(三五〇年頃前の江戸中期)は千二十四人、二十代前(七〇〇年頃前の親鸞聖人の鎌倉時代)は百四万八千五百七十六人、三十代前(一〇〇〇年頃前の平安時代)は十億七千三百七十四万千八百二十四人の親の数になります。さらに四十代前二四〇〇年頃前の聖徳太子の時代)まで遡りますと、その数は一兆九百九十五億千百六十二万七千七百二十六人という膨大な数字になります。聖徳太子の頃の日本の人口は五百万人位であったといわれていますので、数が合わないことになりますが、これはすべての先祖が他人同士であったと仮定した上での計算結果です。先祖の中には同じ先祖を持つ人同士が結婚するということも多くあったことは否めません。

ともあれ、私の先祖は、あなたの先祖と同じ人であり、まさに日本国民は血の通った父母・兄弟です。

 

したがって親鸞聖人は『歎異抄』第五条に「一切の有情はみなもって世々生々の父母・兄弟なり」(『註釈版聖典』八三四頁)と述べられたのです。そして、その先祖の一人でも欠けておれば、今の私は存在していないということになります。私かこの世に存在するということは当たり前のことではなく、とても不思議なことなのです。

 

 

縁においてあり

 

次の「縁においてあり」という言葉は、この世の一切の存在はお互いにもちつもたれつの関係にあることを示しています。自然界では太陽によって育てられた草を草食動物が食べて成長し、その草食動物を肉食動物が補食します。

そして肉食動物が死ぬとバクテリアが大地に草の栄養物として還元するといった食物連鎖を取り上げてみても、一切のものは単独に存在するものは何もないということが解ると思います。私かこの世に存在するのも私一人の力で存在しているのではありません。生きていくためには野菜や魚、肉も食べなければなりません。多くの命を犠牲にして今の私か存在しているのです。

 

しかし、今の特に若い世代はそのことに気づいていない人が多いのではないかと思います。先日もテレビで若いディレクターが佃煮にされた小魚と串刺しにされたエビが皿に整然と並べら牡た状況を見て、「綺朧ですね」という言葉を言っただけで、それを口にしました。そこからは「命をいただきます、申し訳ありません」という気持ちさえ伝かってきませんでした。ディレクターだけではなく、これが現代の若い世代に共通した姿勢ではないかと思います。仏教の教えを全く知らないことが大きな要因であるといってもよいでしょう。

 

仏教国・ブータンでは牛肉などは食べても魚は決して食べないと聞いたことがあります。同じ一つの命であれば、数多くの命を犠牲にしなければならない魚より牛一頭で多くの命が養えるという考え方からだそうです。

 

金子みすゞの有名な詩に「大漁」という詩があります。

朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮(おおばいわし)の
大漁だ。

浜はまつりの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだらう。

(『金子みすゞ童謡全集』 JULA出版局』)

 

大漁だ、大漁だと祭りのように喜んでいるのは人間中心の考え方です。鰮の立場になれば、それは兄弟・仲間への弔いに他なりません。

 

仏教のものの見方は、「私一人の力で生きているのではない、多くの命を犠牲にしなければ生きていけない私である、申し訳ありません」。ここに仏教徒としての基本姿勢があります。

 

 

縁において去っていく

 

そして、結びの「縁において去っていく」という言葉には、因果律、すなわちあらゆる現象には原因のない結果はあり得ないのだから、それを引き起こした原因が必ずあるという見方が示されています。

 

以前、元検事総長であった方が、「人間死んだらゴミになる」ということを言われ、話題になったことがありました。仏教は因果の道理を踏まえたものの見方をしますので、「人間は生きてきたように死んでいく」という捉え方をします。そうすると結果がゴミになるのであれば、その人の生き様はゴミのような人生であったということになります。もし仮に元検事総長のお孫さんが訪ねてきて、「お爺ちゃん、僕死んだらどうなるの」と質問したら、果たして、「おまえが死んだらゴミになるんだよ」と応えられたでしょうか。元検事総長がどのような気持ちで、この言葉をいわれたのか、はっきりしませんが、このような考え方であれば、「死んだらもうお終い、生きているときがすべてである」という享楽主義にもなりかねません。同時に死ぬ間際になれば、「今から死ぬからゴミ袋を用意して遺体をゴミとして出すように」と家族に依頼しておくことも必要です。そしてゴミになる死であれば、迎える死は安らかかといえば、決してそうではなく、恐怖そのものになっていくのではないでしょうか。

 

親鸞聖人は『教行信証』「証文類」に

 

しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁(ざいじょく)の群萌(ぐんもう)、往相回向(おうそうえこう)の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚(だいじょうしょうじょうじゅ)の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。

(『註釈版聖典』三〇七頁)

 

と述べて、他力の信心を獲得すれば、即時に正定聚の仲間になることができ、正定聚が約束されるために必ず滅度の浄土に生まれることができると示されます。煩悩が満ち満ちていようとも、生死を繰り返す罪業深い身であろうとも、阿弥陀如来の本願のはたらき一つにすべてをまかせたならば、それが因となって迷いのない浄土へ往生できる果が得られるのです。

 

職場で安心して働けるのも、旅行が安心してできるのも、帰る家があってこそではないでしょうか。それと同じように、生きているときに帰っていく世界、帰っていく浄土が持てるということは、人生そのものが充実し安心できるものになっていきます。「縁において去っていく」のが仏教の説く因果の道理ですから、その縁を大切なものにしていかなければなりません。

(白川晴顕)

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