2014年5月 きのう聞くも 今日またきくも ぜひに来いとの およびごえ 法語カレンダー解説

お願いだから、そのまますぐに来ておくれ

私がまだ学生の頃、恩帥・村上速水(そくすい)先生とともに京都の上桂にある浄住寺というお寺を訪ねたことがありました。浄住寺は黄檗宗の禅寺です。このお寺を会場にして一年に一度、元大谷大学教授の池山栄吉という先生を偲ぶ「一道会」が開催されていましたので、その会に初めて参加させてもらったのです。お寺には池山先生の二十七回忌を機縁として名号碑が建てられており、その裏面に善導大師の「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」の言葉を先生が解釈された「お願いだから、すぐに来ておくれよ」の文字が刻んでありました。

 

池山先生は大学でドイツ語を教えておられましたが、『歎異抄』を通して真の念仏者となっていかれ、『歎異抄』をドイツ語に翻訳された『独語歎異抄』をはじめ、『意訳歎異抄』『絶対他力の体験』『信を行く旅人』『仏と人』など、お念仏の味わいを述べられた書物も出版しておられます。その念仏者・池山先生を偲ぶ会が、なぜ禅寺を会場にしてと不審に思われるかもしれませんが、実は浄住寺の榊原徳草(さかきばらとくそう)住職(当時)は禅僧でしたが、篤信の念仏者でした。京都女子大学の元教授・宮地郭慧(みやじかくえ)先生や龍谷大学の元学長・千葉乗隆(じょうりゅう)先生も一時、下宿されたことのあるお寺でもありました。

 

本堂にお参りしますと、まずご住職調声のもとで、『歎異抄』の前半部分が朗読されます。『歎異抄』の言葉に感極まって泣きながら朗読されるご住職の姿は、三十年余り経った今でも脳裏に深く焼き付いております。まさに『歎異抄』の一言一句が私のための法語という味わいからのお姿でした。朗読が終わりますと、参加者の中から池山先生の思い出や『歎異抄』の味わいを述べる法話が始まります。お参りしたときには西元宗助先生、川畑愛義(あいよし)先生、花田正夫先生など、今から思えば錚々たる先生方がお話をされました。特に池山先生がよくいわれていた「お願いだから、すぐに来ておくれよ」の言葉を各先生方が味わい深くお話しされましたが、当時、学生であった私には充分理解できませんでした。

 

 

二河白道の喩え

 

親鸞聖人は『教行無証』「信文類」に善導大師の二河白道(にがびゃくどう)の喩えを引用されています(『註釈版聖典』二二三頁)が、そこには釈迦・弥陀二尊の喚びかけが示されています。二河白道は、進むことも死、とどまることも死という切羽詰まった状況のなかにある旅人が、東の岸から「きみ、ただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん」という勧める声と、西の岸から「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」という喚びかけを聞きます。続いて、その勧める声と喚びかけについて、

 

〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きで、道を尋ねてただちに西に進む〉といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ、すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。……〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

 (『同二二六頁』)

 

と述べられ、東の岸からの勧めは釈迦の教法に、西の岸からの喚びかけは阿弥陀仏の本願に喩えられたものであると説明されています。したがって、二尊の命令とは、釈尊が説かれた教えの勧め(発遣)と、「まかせよ、必ず救う」という阿弥陀仏の喚びかけ(招喚)を意味します。その勧めと「まかせよ」という喚びかけの命令に、命令通りに応えていくのが信心であり、これを『尊号真像銘文』には「帰命は、すなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて、召しにかなふと申すことばなり」(『同』六五六頁)と解釈されています。池山先生は、「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」という阿弥陀仏の喚びかけを「お願いだから、すぐ来ておくれよ」と阿弥陀仏から願われている言葉として受け止めていかれたのです。

 

 

願われている宗教

『癌告知のあとで』という本を残して、四十七歳で浄土へ往生された念仏者・鈴木章子さんのお兄さんで、元大谷大学長の小川一乗先生に中央仏教学院の特別講義に一度ご縁をいただきました。仏教学者ですが、お念仏の教えをわかりやすくお話ししてくださいました。その先生が「神と仏」の相違について、次のようなことをいわれています。

 

 神は人間を超越した不思議な能力を有し、我々に禍福を降ろす存在である。

キリスト教の神は全知全能・宇宙を創造し我々を裁く絶対者としての存在であり、神道の神は国土を創造し支配する神聖な存在である。そして神は我々の欲望を適えてくれる存在であるため「願う宗教」というべきである。しかし、我々の方から「願う宗教」は、困った時の神頼みのごとく、不幸な出来事から逃避する「逃げる宗教」であり、いつも願いが適うとは限らないため、「裏切られる宗教」でもある。そして、願う心は日頃、神仏を大切にしておけば不幸な出来事がふりかかってこないかも知れないという気持ちが基本であるため、神仏との取り引きをすることにもなる。

これに対して仏教は我々が仏(覚者)に成る教えであるから、仏は我々の大先輩であり、中でも阿弥陀仏は、我々の欲望から解放してくれる存在である。「願う宗教」の虚しさに気づき、迷いから目覚めよと、目覚めた仏から「願われている宗教」である(『宗教』三〇八号・要旨)

 

先生のいわれる「願う宗教」は言い換えれば「請求書の宗教」であり、「願われている宗教」は「領収書の宗教」です。阿弥陀如来に願い事を請求していくのではなく、「ぜひに来い」と願われている喚び声に気づいて、「そのままおまかせします、有り難うございました」と応えていくのが領収書です。

 

 

聞くということについて

「きのう聞くも 今日またきくも ぜひに来いとの およびごえ」という言葉は、昨日の聴聞も今日の聴聞も、いつ、どこで聞いても、「ぜひに来い」と願われている喚び声に目覚めていくことです。

親鸞聖人は「聞く」ということについて、『大経』の本願成就文の「聞其名号」の言葉を解釈して『教行信証』「信文類」に、

 

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きで疑心あることなし、これを聞といふなり

(『註釈版聖典』二五一頁)

 

といわれ、また一念多念文意』にも、

 

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

(『同』六七八頁)

と述べて、名号を聞くというのは仏願の生起本末を聞くことと示され、名号を聞くことがそのまま信心であるといわれます。聞く内容について、仏願の生起とは、阿弥陀如来が本願を起こされた理由であり、仏願の本末とは、阿弥陀如来が因の位(法蔵菩薩)のときに起こされた本願が、果の位(成仏)において願い通りに衆生を必ず救う本願力・名号が完成したということです。わかりやすくいいますと、私のこころと如来のこころの、二つのこころを聞くということです。

私のこころを聞くというのは、煩悩罪悪に汚染され清浄真実の心がないために、往生できる要素をまったく持たない私のあるがままの相を知らせてもらうということであり、如来のこころを聞くというのは、迷いの世界を脱け出すことのできない私を必ず救うはたらきであることを知らせてもらうということです。この二つのこころを聞いていくことが、そのまま「ぜひに来い」と願われている喚び声に日覚めていくことです。

(白川晴顕)

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