2014年2月 人は 法を求めるに止まって 法に生きることを 忘れている 法語カレンダー解説

hougo201402仏教が生きている ――法に生きる

 

二月は、高光大船(たかみつだいせん)師のお言葉をいただきました。大船師は、暁烏敏(あけがらすはや)師や藤原鉄乗(ふじわらてつじょう)師らとともに加賀の三羽烏とも敬われ、真宗大谷派の同朋会運動を生み出す源となった、篤信の念仏者であったといわれます。

 

みずからを仏法から離してその外側において「法を求める」に止まっているのではなくて、仏法の中にあって「法に生きる」のでなくては本当の仏法求道ではない、と断言されているところに、鋭い、そして真剣な「求法」の姿、「聞法」の姿が示されているとうかがわれます。学生時代に大船師に出遇われた訓覇信雄師は「仏教を生きている人がいる。仏教が生きているという事実に触れて目が覚めたんだ。……」と、最初の出遇いの印象を語られているとのことですが、今月の法語は、その意味をよく示しています。

 

 

『蓮如上人御一代記聞書』のおことばから

 

仏法が生活そのものとなるべきことを、『蓮如上人御一代記聞書(ごいちだいきききがき)』には適切な讐喩によって示されています。

 

その一つが、『聞書』第八八条に次のようにあります。

 

人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ龍に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。
その寵(かご)を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ。

(『註釈版聖典』一二五九~一二六○頁)

 

現代語版では、次のように訳されています。

 

ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありかたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」と申しあげたところ、蓮如上人は、「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水の中にひたしておけばよいのだ」と仰せになったということです。
「何ごとも信心がないから悪いのである。よき師が悪いことだといわれるのは、他でもない。信心がないことを大きな誤りだといわれるのである」とも仰せになりました。

(『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』六三頁』)

 

自分のこころを籠に喩え、聴聞するみ教え(ご法義)を水に喩えて、本堂や会館で仏法を聴聞しているときは、ご法義の水がわが心の籠に入ってきて「ありかたいことだ」と思われるが、一歩外に出ると、ザルの籠からは水がすべて流れ出てしまって、もとのザルの、空の心になってしまう、と訴える聴聞者が取り上げられています。まさに、現代のせわしい社会生活を送る私どもの姿を端的に示しているといえるでしょう。蓮如上人は、即座に応えられます、「そのザルの籠を〔ご法義の〕水にひたしておきなさい」と。日々の生活そのものが仏法の中にあることが大事で、仏法がそのまま生活となるべきことをお示しくださっています。世事に忙しく追われている現代人にとって、難しいことといわれるかもしれませんが、「後生の一大事」を心にとめる場合、まさに日々の生活に仏法がある、仏法の中に生活する、仏法そのものが生活となるということが大事な事といえるでしょう。

「何ごとも信心がないから悪いのだ」といわれるのも、親鸞聖人の教えをしっかりと受け止められて「信がないのがもっともよくない」と厳しく戒められて、「ご法義の中に身を浸しておく」こと ―それが信心の姿でもあります― が大事であるとお示しくださっているといただくのです。

 

 

世間のヒマを闕きて

 

同じく『蓮如上人御一代記聞書』第一五五条に、聴聞のあるべき姿を次のように示されています。

 

仏法には世間のひまを闕(か)きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ。「たとひ大千(だいせん)世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」と、『和讃』(浄土和讃・三一)にあそばされ候ふ。

(『註釈版聖典』一二八○頁)

 

同じく現代語版には次のように訳されています。

 

「仏法は世間の用事を差しおいて聞きなさい。世間の用事を終え、ひまな時間をつくって仏法を聞こうと思うのは、とんでもないことである。仏法においては、明日ということがあってはならない」と、蓮如上人は仰せになりました。

 

このことは『浄土和讃』にも、

 

たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきで
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり

 

たとえ世界中に火が満ちているとしても、ひるまず進み、仏の御名を聞き信じる人は、往生成仏すべき身に定まるのである。

 

と示されています。(『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』 一〇〇~一〇一頁)

 

多くの人々が、次のように考えているかもしれません、―すなわち、仏教の話を聞く、ご法話を聴聞するということは、世事に忙しくしている者として、暇ができたら聴聞に行こうとか、追われている仕事をすませてからにしようとか、職を離れてある程度の年齢になってからにしようとか、と考えがちかもしれま廿ん。しかし、そのような世間的な仕事などは生涯つきるものではなく、常についてまわります。そこで、「後生の一大事」を聴聞する仏法聴聞のこころえを、蓮如上人は「世間のことに費やす時問をさいて法を聞け」とさとされています。そもそも、仏法を聞こうとしない人は、世間のことが大事、生きるための仕事が大事であるとして、ひまができたらとか、ひまがあったらとか、になりがちですが、それでは、一生聴聞の時を取ることができません。

 

親鸞聖人が命がけで「生死出づべき道」を求めて法然聖人を尋ね、念仏の道に到られた、そのおこころをいただいて、日々に、一刻一刻を聴聞の時として仏法を歩むべきことを、ここにお示しくださっているといただかれるのです。

 

二月の法語「人は 法を求めるに止まって 法に生きることを忘れている」をいただいて、仏法そのものに生きることを心にとめるべきであると受け止めさせていただくのです。仏法を対象化してしまったり、世間的なことの次に置いてしまったり、世間的なことの次に置いてしまったり、などしていては、仏法に本当に触れることはでない、仏法の中にわが身を置いて「法に生きるべし」とさとされているおことばといえるでしょう。

(佐々木惠精)

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