2015年2月 拝むとは 拝まれて居た事に 気付き醒めること 法語カレンダー解説

hougo201502拝むとは

二月の法語には、高光大船(たかみつだいせん)師(一八七九~一九五一)のおことばをいただいています。高光先生は石川県の生まれで、暁鳥敏(あけがらすはや)師や藤原鉄乗(ふじわらてつじょう)師とともに「加賀の三羽烏」と呼ばれて敬われ慕われて、真宗大谷派の同朋運動を生み出す源となった篤信の念仏者であったといわれます。煩悩に支配されて欲望の中にいる「自己」を厳しく見つめられながら、徹底した求道の生活を生きられた真の求道者です。

 

今月のことばとしていただいた、

 

   拝むとは 拝まれて居た事に 気付き醒めること

 

というのも、そのような求道の生活の中で示されました。

 

阿弥陀如来の本願に出遇い、阿弥陀如来のお慈悲につつまれて、お念仏を申しながら合掌礼拝させていただく、それが信心決定の姿といえましょう。阿弥陀如来のお慈悲に、報恩のこころから拝むことになるわけですが、実は大いなるお慈悲のはたらきは、この「私」が報恩感謝の心を抱く前から、拝む遥か前から、本願のおはたらきが届いていた、阿弥陀如来がみ手を差し伸べてくださっていた、と気付かされて、はっとさせられます。

 

大船先生のおことばはまさに、この「私の気付き」の遥か前から阿弥陀如来から手を差し伸べられていた、ご本願がはたらいてくださっていた、お導きいただいていた、というはっとさせられる思いを、「拝まれて居た事に気付き……」と言われています。

 

こちらの「はからい」、こちら側の詮索など遥かに超えて、真実の智慧と慈悲のはたらきがすでにはたらきづめであった、という驚きと慶喜のおこころをいただくのです。

 

 

拝まれている

 

この高光大船師のおことばをいただいて思いおこされるのが、東井義雄(とういよしお)先生(一九ー二~一九九一)の詩です。東井先生は兵庫県出石郡の東光寺に生まれ、師範学校を経て小学校訓導(現在の教諭)になられて子どもの教育に、というより自らも共に学ぶ場として「いのち」をかよわせ合う教育、「生活綴り方」教育に情熱を注がれました。ご住職としても、仏教に生き親鸞聖人のみ教えに真摯に学ばれて、子どもたちの教育と阿弥陀如来のみ教えの伝道に一生をささげられました。

 

子どもたちの生きいきした詩を多く紹介されるとともに、ご自身も多くの詩文を綴られて、心の触れ合いを、そしてまたみ仏に出遇われた慶びを披歴され、多くの仏法味あふれる詩集を残されました。その最後の詩集となった『東井義雄詩集』(探究社)に、次のような詩が収録されています。

 

墓そうじ

毎年
半日で済ませた墓そうじであるのに
きょうはこれで 二日目
十時を過ぎると
おてんとうさまも 燃えてこられる
「無理をしないで
もう下りてきてください」
屋敷の草とりをしてくれている腰の曲がった老妻が
見上げていてくれる

憶(おも)わぬさきから
憶われていた 私

拝まない者も
おがまれている
拝まないときも
おがまれている

すみません
南無阿阿陀佛。

(『東井義雄詩集』 一六六~一六七頁、探究社)

 

東井先生は、七十歳代中ごろに癌で胃を摘出するという大病を患われました。その後も衰弱してきているお体を押して、住職としての仕事や畑仕事などをされながら、毎日のように詩文を綴られていました。この詩は、そのようななかで「墓そうじ」をされているときのおこころを綴られたものです。

 

詩の中で「老妻」と呼んでおられる奥さまについてうたわれます。「老妻」は腰が曲がってしまっているのに草取りに精を出している。その「老妻」から「無理をしないで、もう下りてきてください」と声をかけられて、東井先生は、はっとされた――〔こちらが憶うよりも前に憶われていた〕と。先生は、感謝の心をもって、「憶わぬさきから 憶われていた 私」と、その奥さまの慈愛の声を受けとめておられます。

 

そして奥さまの慈愛のお声に促されて、阿弥陀如来のご本願にいだかれていることに心を向けられ、み仏が手を差し伸べてくださっていることに報謝してお念仏し礼拝する(阿弥陀如来を拝む)ということになります。

 

そこで先生は、「〔こちらが拝むことなくても、‐またこちらが拝むより前に〕阿弥陀如来の方から〔そのままでよい、こちらへ来ておくれよ〕と、すでに手を差し伸べてくださっていたのだ」と、阿弥陀如来の方からはたらいてくださっているおはたらきを、感謝と慶びを込めてうたわれます。

 

拝まない者も
おがまれている
拝まないときも
おがまれている

(『拝まない者もおがまれている』光雲社)

 

とうたわれて、阿弥陀如来の大いなる大慈悲にいだかれていたことの感動を、その慶びを披歴されているのです。さらに反対に自らを見つめると、自分勝手な欲望や怒りに走るばかりの自分の姿が見えてきます。そこを、

 

すみません
南無阿弥陀佛。

 

と、働愧(ざんぎ)するばかりであると結ばれています。

 

東井義雄先生には、胃癌の大手術を受けられる前年に『拝まない者もおがまれている』(光雲社)と題する詩集を発行されていて、仏力のおはたらきの中に生かされていることを深く受け止めておられるお姿がうたわれています。この「墓そうじ」の詩もまた、そのおこころをうたっておられると、学ばせていただくのです。

 

高光大船先生のおことば「拝むとは 拝まれて居た事に 気付き醒めること」を味わうにつけて、東井先生の「拝まない者も おがまれている 拝まないときもおがまれている」をいただいて、より一層深く受け止め味あわさせていただくところです。

 

(佐々木恵精)

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