2016年8月 まどえる身にも 信あらば 生死のままに 涅槃あり 法語カレンダー解説

8月

凡夫と白蓮華

先月の法語では、往相(浄土へうまれること)と還相(浄土から、衆生を救うためにこの娑婆世界に還ってくること)はすべて阿弥陀如来のご本願のはたらき、すなわ
ち他力であると、阿弥陀如来のはたらきが讃えられました。
そして今月の法語は、

「正信偈」の「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」〔惑染
の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。〕(『註釈版聖典』二〇六
頁)

のおこころを詠われたものです。

これは、煩悩に染まり惑う凡夫であっても、ひ
とたび他力の信心をおこしたならば、迷いの身であるままで、やがて浄土に往生して
「生死すなはち涅槃なり」という、仏のさとりを開くことができる、ということです。
私たちは浄土に生まれどう変えられていくのか、言い換えれば浄土往生の相状とし
て、私たちの側から他力のはたらきをどのように受け止められていくのかということ
が、ここに示されています。
さて、最初の「惑染凡夫信心発」とは、曇鸞大師は『往生論註』の中に、

これは几夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の
正覚の華を生ずるに喩ふ。
(『註釈版聖典(七祖篇)』二一七頁)

と述べられていますが、これに拠ったものとうかがうことができます。
ご承知のように、蓮華は清らかな地には生じません。湿った泥の中にありながら
も、その泥に染まらず清らかで美しい花を咲かせます。とりわけ白い蓮の花は、
まったく濁りが混じらない純白の象徴的な花として、信心の人を讃える言葉として
用いられます。余談ですが、蓮の華の花言葉をご存じでしょうか。調べてみますと
「清らかな心」だそうです。私たちの蓮の華にもつ印象は、どこでも大体同じよう
であります
さて、「正信偈」では「一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是
人名分陀利華」〔一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解
のひととのたまへり。この人を分陀利華と名づく。〕(『註釈版聖典』二〇四頁)とあ
りますが、「和訳正信偈」をいただきますと、

ほとけの誓い信ずれば
すぐれし人とはめたまい
いとおろかなるものとても
白蓮華とぞたたえます

とあるのが、まさにこのことをいうのでしょう。
ところで、曇鸞大師が初めて、ご本願の救いのめあては一切衆生、とりわけ十悪
五逆・謗法の者であることを明らかにされました。この極悪の凡夫こそ、法語では
「まどえる身にも」とありますが、このような者がどうして救われると言えるのか
ということを、讐えで示されています。

たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至らば、すなはち明朗なるがごとし。
闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。
(『註釈版聖典(七祖篇)』九七頁)

と、十悪五逆・謗法の者とは、心の中に深い迷いの闇を抱えている凡夫ではあるけ
れども、その迷いの闇がたとえ千年続いていたとしても、ひとたび光がさしこめ
ば、たちまちにして闇も消えて明るくなります。闇は光によってしか破られませ
ん。自分でいくらもがいても闇は晴れることがないばかりか、かえって深くなるば
かりであります。しかし、信心を得て、ご本願の光明が心の中に差し込めば、迷い
の闇は晴れ、浄土に往生を得ると説かれています。

 生死の迷いと涅槃の世界
さて、「正信偈」では次の句として「証知生死即涅槃」〔生死すなはち涅槃なり
と証知せしむ。〕(『註釈版聖典』二〇六頁)とあります。このご文はもともと曇鸞大
師の『論註』の中に、無礙道を説明して、

「道」とは無凝道なり。(中略)「一道」とは一無礙道なり。「無礙」とは、いは
く、生死すなはちこれ涅槃と知るなり。 (『註釈版聖典(七祖篇)』一五五頁)

とあるのに拠られたものでありましょう。『歎異抄』第七条に「念仏者は無礙の一
道なり」(『註釈版聖典』八三六頁)という言葉がありますが、何ものにもさえぎら
れない道ということを説明して、「生死すなはちこれ涅槃と知るなり」と示された
のです。

さて、この「証知生死即涅槃」というのは、どういうことでしょうか。「生死」
とは生と死によって限界づけられた無常の世界のことであり、またそこに迷い苦し
んでいる私たちの人生そのものであります。親鸞聖人が「生死出づべき道」を求め
られたというのは、仏教は生死の迷いを脱してさとりに至るのが目的であり、その
目的をめざして歩むことが仏道だからです。そして、その目標が「涅槃」というこ
とになります。「涅槃」とはさとり、あるいはさとりの世界であり、不生不滅の永
遠の真理そのものの世界です。
煩悩を否定し尽くされたのさとりの世界を「涅槃」といいますので、生死と涅槃
の二つは決して一つにはなりえないのです。言葉を換えていえば、生死、煩悩があ
るところには「涅槃」はなく、また、涅槃の世界には生死や煩悩が微塵も存在し得
ないのであります。いわば、生死と涅槃は否定的なまったく逆の関係であるという
ことです。ですから「迷いはそのまま涅槃である」と言われても、理解し難いこと
です。

したがって、このことは仏さまの智慧において初めて言える言葉であります。言い
換えれば、決して私たち凡夫がそういう境地をさとるというようなことではないので
す。浄土でさとりを得て初めて開かれる境地であるということです。ところが、「正
信偈」の前の句をいただきますと「惑染の凡夫、信心を発すれば」とあるのは、ど
う考えたらよいかという問題が出てきます。これは、信心を発するといっても、凡夫
の起こす信心ではなく、あくまで信心をいただくことであります。
信心をいただくとは、私たちにおいては仏さまの智慧の眼をいただくことでもあり
ます。仏さまの智慧の眼をいただけば、生死の世界は、涅槃の世界と別ものではな
く、生死の世界は涅槃の世界に包まれていたということを知らされるということでは
ないでしょうか。煩悩の衆生は、煩悩の我が身であることを把握できません。自己
中心的な考えしかできない私たちは、どこまでも自分の都合でしか考えられないも
のです。このような独善的な日常を送り続けていく中で、迷い続け苦しんでいるのが
この私たちの相であります。煩悩具足の我が身が、煩悩具足であることを気づかし
められるのは、ほかならない如来大悲の光明に照らされたらばこそであります。

 「おんいのち」をいただく

『歎異抄』後序に、「聖人の仰せ」として有名なご文があります。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとた
はごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします
(『註釈版聖典』八五三頁)

 凡夫にも、また凡夫の営む世界にも、真実はただのひとつもないと述懐されてい
るのですが、「そらごとたはごと、まことあることなし」と見抜かれた仏さまの智
慧の眼には、ただ頭が下がるだけで何の反論もできません。ただ、「まことあるこ
となき」現実を歎き悲しむのではなく、「まことなき世の中」を、「まことあること
なき」身のままに「まこと」をもって生きることの大切さを知らされるのです。そ
の「まこと」とは、お念仏となって至り届けてくださっております。そして、煩悩
具足の凡夫であることに気づけば気づくほどに、本願大悲の深さが、いよいよ身に
しみて感じられるのであります。そのお念仏をただ一つの依りどころとすること
が、私たちの生き方ではないかと思います。
お念仏のおこころを喜ばれた白井成允師は、歌集『青蓮華』の中に、

いつの日に死なんもよしや弥陀仏の み光の中のおんいのちなり

と詠んでおられます。「いつの日に死なんもよしや」とは、生死は生死のまま、一
切が阿弥陀如来に摂取されているという、よろこびと安心のこころ、つまり罪深い
私か救われていく喜びを表現されているのでしょう。だからこそ、続けて「弥陀仏
のみ光の中のおんいのちなり」と、流れるように詠っておられるのだと思います。
「我が命」と言わず、「おんいのちなり」と詠まれたおこころこそ、「証知生死即涅
槃」の世界をいただかれた尊い生き方のあらわれであると思います。

(桐原良彦)

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