2016年5月 弥陀の誓いに帰しぬれば 不退のくらい自然なり 法語カレンダー解説

hougo201605「宗教は必要ですか」

 

「宗教は必要ですか」という問いを聞くことがあります。その問いは「宗教など不要です」と、実は言いたいのかもしれません。「宗教を信仰しなくても、立派に社会で成功している人はたくさんいるではありませんか」とか、さらには「無宗教であることこそ良識ある人なのだ」などという考えが見え隠れしています。いま、この問いをきっかけとして考えてみたいのは「必要性を感じる」という点です。

 

生活習慣病や初期の糖尿病には、病気の自覚がほとんどありません。しかし、お医者さんが生活の改善や治療の必要性を説きます。むしろ治療の難しさを知り、病状に苦しむ多くの姿を見てきたお医者さんだからこそ、治療を、そして治療に先立つ予防を切に訴えるのです。ですから、病人であるという自覚と、本来の治療の必要性とは別のことからだということが言えるでしょう。

 

同様に、わたしが宗教を必要としていなくとも、宗教を説いてくださる、すなわち真の救いを与えずにいられないお医者さんが、阿弥陀さまだということができます。無明の病のわたしに真実を与えて真実たらしめる、つまり仏と成らせる救いです。

 

今月のことばは、この阿弥陀さまの「あなたを救う」という誓いに帰依し、すべてをおまかせしたならば、ただちに「不退のくらい」に入る、と示されています。

 

実は、これも龍樹菩薩が、阿弥陀さまの救いの特徴の一つとしてお讃えになったことがらです。親鸞聖人のご和讃にも、

 

不退(ふたい)のくらゐすみやかに
えんとおもはんひとはみな
恭敬(くぎょう)の心に執持(しゅうじ)して
弥陀(みだ)の名号(みょうごう)称すべし

(『註釈版聖典』五七九頁)

 

として、阿弥陀さまに帰依しお念仏申す身とならせていただいたならば、すみやかに不退の位に到ることが示されています。

 

 

船の行き先

 

真理やさとり、つまり仏果へ向かって歩む者を菩薩といいます。しかし、その道ゆきははなはだ困難です。ですから仏道はそもそも難行であるといえます。龍樹菩薩の「易行品」の冒頭に、

 

阿惟越致地(あゆいおっちじ)に至るには、もろもろの難行を行じ、久しくしてすなはち得べし。
あるいは声聞(しょうもん)・辟支仏地(びゃくしぶつじ)に堕(だ)す。もししからばこれ大衰患(だいすいげん)なり。

(『註釈版聖血ハ(七祖篇)』三頁)

 

とあり、難行を久しい時間行じつつも、声聞や辟支仏地という仏のさとりより低い位に落ち着いてしまうことがあります。つまり、時間が経てば必ずさとりに近づくかといえば、そうとも言えないのであって、登りつめた菩薩の位でも、破戒など仏道修行上のマイナス要因によって後戻りすることがあります。

 

先の「易行品」のご文には「阿惟越致地」との言葉がありますが、これが「不退のくらい」、不退転地ともいわれることがらです。仏道修行は後戻りする可能性を引き受けつつ、気の遠くなる時間を歩み続けるものですから、もし、退転しない境地に入るならそれは菩薩にとっては歓喜以外のなにものでもありません。また、この不退転地に到れば、まだ仏とは成っていないものの、真如をさとるためほんとうの歓喜を得ます。ですから不退転地は歓喜地ともいわれ、「正信謁」によれば、

 

宣説大乗無上法(せんぜつだいじょうむじょうほう)
証歓宜地生安楽(しょうかんぎじしょうあんらく)

 

大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して安楽に生ぜんと。

(『註釈版聖典』二〇五頁)

 

とあり、龍樹菩薩ご自身が歓喜地、つまり不退転地の菩薩であったことが知られます。

 

本願のお念仏を聞きうけるならば、仏果に到るための行と信が、その行者の身の上に因として成立することになりますので、必ず成仏という果に到ります。この因が成立するのは現生であって、信心獲得その時ですから、信心が正しき因となります。この世で、いま、さとりに到ることが定まるのです。不退転、後戻りしないということを言い換えれば、もう仏と成ることが定まったと表現できます。その意味で、まさしく仏になることに決定している聚類(なかま)、正定聚ともいわれます。

 

繰り返しになりますが、親鸞聖人は、この正定聚の位に入るのは「信心を獲るいま、ここで」とおっしゃるのです。よくよく考えればたいへん驚くべきことで、今月のことば「弥陀の誓いに帰しぬれば不退のくらい自然なり」は、そのようなとても大切なことがらが詠まれていたのです。

 

 

凡夫の聖者

 

しかし、そうするとつぎに、他の浄土教一般の考え方との大きな違いが問題となってくるのです。つまり、正定聚不退転という菩薩の位に入るためには、この穢土(えど)ではなくて浄土に往生することが必要だとする考え方とくい違うのです。菩薩の階位は『菩薩環路本業経』に説かれる五十二位が有名で、そこには十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚の各階位が示されており、なかでも十地位の初地以上を聖位と捉えます。ならば、この世で生きている限り凡夫でしかあり得ないわたしが、現生で正定聚に入るとするならば、凡夫でありながら聖者という事態が生じるのです。事実、親鸞聖人の『一念多念文意』には、

 

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河(すいかにが)のたとへにあらはれたり

(『註釈版聖典』六九三頁)

 

とあり、死ぬまで三毒をそなえた凡夫であり続けることが示されています。一方で『人出二門偈頌』には、

 

煩悩を具足せる几夫人、仏願力によりて信を獲得す。この人はすなはち凡数(ぼんじゅ)の摂(しょう)にあらず

(『註釈版聖典』五五〇頁)

 

として、信心の行者はすでに凡夫の仲間ではない、ともお示しです。この凡夫でありながら凡夫ではない、矛盾ともいえることがらが信心の念仏者のうえに統一されている点がわかりづらいのです。

 

聖人ご在世の当時も、ご門弟方のあいたで同様の疑問が生じていたことが、聖人のお手紙からうかがえます。そこで、聖人がお手紙において不退転、現生正定聚を語っておられるご文をいくつかみてみましょう。

 

真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚のくらゐに住す

(『親鸞聖人御消息』第一通『註釈版聖典』七三五頁)

 

御たづね候ふことは、弥陀他力の回向の誓願にあひたてまつりて、真実の信心をたまはりて、よろこぶこころの定まるとき、摂取して捨てられまゐらせざるゆゑに、金剛心になるときを正定聚の位に住すとも申す

(『同』第三十九通『註釈版聖典』八〇二頁)

 

ほかにも似た趣旨のご文はたくさんありますが、これらは「信心の行者は、阿弥陀さまの摂取不捨のはたらきにあずかるからこそ、正定聚の位に住するのである」というかたちが共通していて、正定聚は摂取不捨とペアになって示されていることが見えてきます。「摂取不捨(摂め取って捨てず)」はもともと『仏説観無量寿経』(観経)に出てくることばですが、その摂取不捨の理解として詳しく親鸞聖人が語られたものが『浄土和讃』にあります。それは、

 

十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれは
阿弥陀となづけたてまつる

(『註釈版聖典』五七一頁)

 

というご和讃で、特に「摂取」の左には註が施されており、「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」(『註釈版聖典』五七一頁)と示されています。ここよりすれば摂取不捨とは、念仏の衆生を摂めとって捨てず、護りつづけることだといえるのです。これは、この世で生死のなかにありながら生死に縛られない立場をも意味しています。だからこそお念仏の救いには、煩悩の有無や臨終のあり方、そして凡夫であるか聖者であるかなどが問題とならないのです。石が水に沈む性質のまま、船に乗せられて沈まずに浮かぶことにたとえられますが、阿弥陀さまにまかせきったならば、今生で凡夫のまま正定聚の位につかせていただくのです。

 

また、「摂取不捨」で思い起こされるのは『歎異抄』第一条ではないでしょうか。

 

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

(『註釈版聖典』八ご二頁)

 

ここに出る「摂取不捨の利益」のことばを、「不退のくらい」と読みかえると、今月のことばの内容と重なっていることに気づかされるのです。

 

親鸞聖人が見ぬかれたのは、阿弥陀さまの救いにあずかった者に成り立つ、現生正定聚という利益でした。そしてこの点は、先だって龍樹菩薩が説いておられたことを承けたものであることが、『教行信証』「行巻」に示されています。

 

しかれば、真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。(中略)いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して 捨てたまはずゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもって龍樹大士(りゅうじゅだいじ)は「即時入必定(そくじにゅうひつじょう)」(易行品一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数(にゅうしょうじょうしゅしじゅ)」(論註・上意)といへり。

(『註釈版聖典』 一八六頁)

 

ここに龍樹菩薩および、後に龍樹菩薩の説を承ける曇鸞大師のお名前を掲げ、両師の明らかにされたところは「即時大必定」および「入正定之聚」という、信心の行者が不退転地に入ることが示されます。龍樹菩薩がお説きくださった、船に乗せられて水路を進む易行の眼目だといえるでしょう。

 

 

わたしの願いに先だって

 

あるお同行が、つぎのように打ち明けてくださいました。

 

「わたしは生まれてから今日まで、これといって大きな問題にも出遭わず、現在も、おかけで夜も眠られないほどの悩みというものはありません。だからでしょうか、仏教でこの世を『穢土』といわれるほどに厭わしいとも思いません。ですが、何となく不安なのです。衣食住に何の不足もなく、家族も元気で地域の人々とも親しく穏やかな日々ですが、なぜかわたしは『これで良いのだ』と落ち着くことができません。決して日々寂しくて堪えられないというほどでもありませんが、この不安は隠せません。わかしは気にしすぎでしょうか」

 

なぜ宗教は必要なのですかと問わずにいられないわたしたちは、科学技術をはじめとするすばらしい人知や多くのめぐみに浴しながら、心の奥の深い深いところで、生まれたがための不安、つまり老病死の不安を抱えつづけています。本当の意味で、心の底から安心したいと願っています。ですから決して「気にしすぎ」では済まされない問題なのです。

 

そんな問題をかかえるわたしを見ぬいている阿弥陀さまの救いであって、聖人のご和讃(『高僧和讃』)では「龍樹讃」に、

 

生死の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける

(『註釈版聖典』五七九頁)

 

との一首があります。お念仏は、この迷いの境界に沈んでいるわたしを、まことの境界に至らせる弥陀の願船です。船に乗せられたならば、もう船の行く先にしか行けなくなるのです。願船に乗せられ、南無阿弥陀仏を称える身とならせていただくならば、その時、お浄土にしか往けない身となるのです。

 

死んでいくだけの寂しい人生かと、うすうす不安を感じていました。でも、そうじゃありませんでした。お念仏によって、お浄土に生まれていく人生だったと知らされ、この世で往生浄土の証拠を得させていただくのです。

(高田未明)

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