2016年6月 ただよくつねに み名称え ふかきめぐみ こたえかし 法語カレンダー解説

201606ほんとうのことば

 

今月のことばは、親鸞聖人の「正信偈」の「唯能常称如来号(ゆいのうじょうしょうにょらいごう)応報大悲弘誓恩(おうほうだいひぐぜいおん)」〔ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。〕(『註釈版聖典』二〇五頁)が意訳されたものです。ここでちょっと、「正信偈」が詠まれた背景についてうかがっておきましょう。

 

「正信偈」は、聖人の畢生(ひっせい)の著『教行信証』にある百二十句の偈(詩、うた)です。「帰命無量寿如来、南無不可思議光…」〔無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。〕(『註釈版聖典』二〇三頁)と、偈の一句一句が漢字七文字で統一されていますので、皆で声を揃えてお勤めしやすいのです。その「正信偈」が書き始められる直前につぎの文があります。

 

しかれば、大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏謁」を作りでいはく

(『註釈版聖典』二〇二頁)

 

わたしたちは「正信念仏偈」を略して「お正信偈」と呼んでいるのですね。「正信偈」の内容は大きく前半と後半に分けられるのですが、まず前半部分は古来より依経段(えきょうだん)といわれています。『無量寿経』(『大経』)に依っている段落という意味で、先のご文では「大聖の真言」に相当しますし、聖人のほかの著述では『浄土和讃』の内容とおおよそ重なります。聖人のおっしゃる「真言」とは、さとれるお方のまことの言葉です。人間ではない仏さまの言葉こそが唯一まことだ、ということです。残念ながらわたしたち人間の言葉はあてになりません。これはなにも自分が誰か他人の言葉にだまされる、ということだけではなく、自分が他人を、そして自分自身をだましながら生きているということです。

 

でもわたしたちは、そうでなければ生きていけないのかもしれません。「今日中にこの仕事を片付けるつもりだったけれど、テレビで延期になっていた野球中継があるから仕事はそれこそ延期に・・」と、自分を甘い言葉でだますのです。ですからある意味、わたしたちは日ごろから、だまされる言葉や嘘の言葉というものに泥みすぎているのです。しかし、『大経』に説かれる「あなたを仏と成らせて救う」という言葉は、仏さまの仰せであって、人間の発した言葉ではありません。真実の言葉であって、決してだまされたり裏切られることのない「真言」なのです。

 

話はもどりますが、「正信偈」の後半部分は依釈段(えしゃくだん)といわれています。七高僧がなさった、お釈迦さまの「真言」のご解釈に依っている段落という意味です。先ほどの「正信偈」の文では「大祖の解釈」とあり、先述した前半と同様に、聖人の他の著述でいえば『高僧和讃』の内容と重なります。七高僧がご苦労くだされた意義については先々月のことばで確認いたしました。また、特に第一祖である龍樹菩薩のお手柄についてすでに二ヵ月分にわたってうかがってきました。そのうえで、今月のことばとして龍樹菩薩にうかがうべきは称名報恩のお心です。

 

冒頭にて掲げました「正信偶」のご文を、蓮如上人は『正信偶大意』にて、

 

真実の信心を獲得(ぎゃくとく)せんひとは、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に名号を称へて、大悲弘誓の恩徳を報じたてまつるべしといへるこころなり。

(『註釈版聖典』一〇三〇頁)

 

と解釈され、お念仏申すことが仏恩を報ずることになるとおっしゃるのです。それはなぜでしょうか。

 

 

見えないけれど知らされるもの

 

「見えない」ことと「無い」ことは全く違います。讃岐の庄松同行の言葉として伝えられているものに、「ご本尊様が物を仰せられたら、お前等は一時もここに生きて居られぬ」というものがあります。「お寺の本堂の阿弥陀さまは生きておられるのだろうか、何もものをおっしゃらないではないか」という尋ねに応じられた際の言葉です。仏さまはわたしのこころなどすでにお見通しですが、それについて何もおっしゃらないから、わたしは平然と生きていられるのです。もし、まるでマンガの吹き出しのように、心の中で思っていることが他人に見られることにでもなれば、とても表を歩けたものではありません。あるけれども見えないもの、あるいは目を逸らせて見ないようにしているものが多いから、わたしたちは何食わぬ顔でいられるのでしょう。

 

都会では 夕日をみることも、
満天の星を仰ぐこともできない。
人間が造った建物や照明で
見ることができなくなったのだ。
それを―
「見えないから無い」と思うような
その愚かな心を煩悩という

(寺川幽芳『こころの掲示板』)

 

わたしの本務校である中央仏教学院にて、長年ご指導をくださいました寺川幽芳先生の詩です。見えないものや見ることができなくなったものを、知らせて見せるはたらきも宗教なのでしょう。実は多くの見えないものに囲まれ、支えられていたのです。中国には「水を飲むときは井戸を掘ってくれた人のことを偲べ」という意味の格言があると聞いたことがあります。見えなくて、知らなかったけれども蒙(こうむ)っているはたらきを冥加(みょうが)といいます。過去をふり返って、わたしは願われていた、はからわれていたと知ったときから、恩を報ぜずにいられない心持ちが生じます。

 

『歎異抄』後序には「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(『註釈版聖典』八五三頁)という言葉が、聖人のつねの仰せとして引かれています。阿弥陀さまのご本願がこのわたし一人のためであったと知らされるのです。先の「正信謁」のご文でいえば、「大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知」しかならば、必ず報恩謝徳の念に及ばずにはいられないのです。

 

冒頭にも記しましたように、今月のことばは、「正信偈」では「ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり」と讃詠されています。「恩を報ずべし」の箇所を「恩を報ぜねばならない」と読めば、恩返しの強制のように見えます。しかし、決してそうではありません。恩は「なされたところを知る」という意味ですから、知らないままに強制されて成り立つようなものは恩ではないのです。

 

仏祖をはじめ、家族や知人の恩、何らかの組織や地球環境の恩ということも言えるでしょう。「自分は他人の世話になったことはない」とあくまで言い張る人があっても、自分一人でこの世に生まれ出たはずはありませんので、この世の始まりは母親から産まれるという「なされた」ことからだと言えないでしょうか。

 

話は今月のことばに戻りますが、つぎに問題となるのは、なぜ「つねにみ名となえ」ることが報恩になるのかという点です。

 

 

「称」は、はかり

 

聖人は、つぎの曇鸞大師のことばを『教行信証』「行巻」に引用しておられます。

 

いかんが讃嘆する。いはく、かの如来の名を称(称の字、軽重を知るなり。『説文』にいはく、銓なり、是なり、等なり、俗に秤に作る、斤両を正すをいふなり)す。かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲ふがゆゑにと

(『註釈版聖典』 一五六頁)

 

称えるという「称」の文字を説明して、「秤」の意味があることを示しておられます。天秤ばかりは右と左がつり合うことで重さをはかります。ですから、二つのものがつり合っている状態、という意味があります。

 

いま、お念仏を称えることが、阿弥陀さまが衆生を救うおいわれにかなっている、つりあっている、とおっしゃるのです。阿弥陀さまの清浄真実の仏のお心と、あるものを見ようともしない煩悩具足のわたしの心は、雪と炭ほどの違いです。つり合うことなど何もありません。ですが、そのわたしにおいて、唯一つり合うものが「南無阿弥陀仏」のお念仏として恵まれているのです。

 

親孝行とは、子どもが親の願いのとおりになることだと聞いたことがあります。

 

反対にいえば、子どもの側から考えている親孝行の多くが、実は子どもの自己満足であって真の親孝行にはなっていない、ということかもしれません。ですから、ときどき見聞きする「無理をして出世などしなくていい、ただ元気でいてくれ」「丈夫な体でないことは、むしろ親のわたしが痛いほどに知っている。ただおまえの優しい心をずっと大切にしていてほしい」「世間様にご迷惑をかけて、結果どんなつまはじき者にされようとも、いつまでもわたしの子でいてくれることが願いだ」などの親の願いは、成功や健康、善良などの一般的な価値観、そして子どもの側の想像を超えているのでしょう。

 

阿弥陀さまは、わたしに「南無阿弥陀仏」を与えるから称えておくれ、と願い通しです。だから、その願いのとおりに「南無阿弥陀仏」とお念仏申すことが、唯一阿弥陀さまのこころにかなうのです。

 

親鸞聖人は『尊号真像銘文』に、

 

「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは、仏をほめたてまつるになるとなり。

(『註釈版聖典』六五五頁)

 

とお示しですが、お念仏が仏徳讃嘆に「なる」のです。わたしの心根が良いからではありません、親の願いがわたしに到り届いたからです。

 

以前、お出遇いしたお同行の言葉が思い起こされます。

 

その方はでいつも常に小声で「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ…」と称えておられます。ですからそのような常念仏のお心持ちを聞かせてください、とうかがったのです。「はい、わかしは念仏せずにおれない身としていただいたことがうれしいから、お念仏させてもらっています」とおっしゃいました。

 

ご報謝させてもらうことさえも阿弥陀さまからのご恩だったのです。

(高田未明)

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