2017年3月 一念慶喜するひとは 往生かならず さだまりぬ

往生が定まるIMG_20170228_0001_NEW-1
三月の法語では、『浄土和讃』の第二十六首(「讃阿弥陀仏偶讃」二四)の後半二句を味わわせていただきます。
まず、この和讃の全四句をいただきますと、
若不生者(にゃくふしょうじゃ)のちかひゆゑ
信楽(しんぎょう)まことにときいたり
一念慶喜(いちねんきょうき)するひとは
往生(おうじょう)かならずさだまりぬ            (「註釈版聖典」五六一頁)

(「もし生れることができないようなら、さとりを開かない」と本願に誓われているので、真実の信心を得たまさにそのとき、本願を信じ喜ぶ人は、浄土に往生することが問違いなく定まるのである。「三帖和讃(現代語版)』 一九頁)

と詠われています。
今月の法語である後半二句では、真実信心(信楽)が得られたその瞬間(一念)に湧きおこる喜び(慶喜)とともに、その時にさとりの世界であるお浄土に往生することが決定(けつじょう)しているということが見事に詠われています。
「若不生者」の誓い
冒頭の「若不生者」(もし生まれることができないなら)とは、阿弥陀さまのご本願のお言葉です。そこではじめに、本願の由来とその意味をうかがうことにいたしましょう。
「あらゆる生きとし生けるもの(「衆生(しゅじょう)」といわれます)がさとり(正覚)に至るように〔という衆生救済の願いを必ずや実現する〕」という決意(誓願)をもって、「衆生救済」の利他行の道を歩み、この目的を成し遂げようとする実践者を、「菩薩」といいます。そして、その道を完成してさとり(正覚)に至ったものを、「仏」や「如来」といいます。『仏説無量寿経』には、阿弥陀さまがかつて法蔵菩薩であった時、「あらゆる生きとし生けるものが、さとり(正覚)の世界である極楽浄土に往生できるように。さもなければ、私はさとりを得た仏とならない」という、「衆生救済」のための根本となる大誓願を、四十八にわたって誓われたことが説かれています。そして、この大誓願(四十八願)を完成・成就されて阿弥陀如来となられ、いま現に衆生救済の活動をされている、と説かれています。親鸞聖人の師匠である法然聖人は、その大誓願のかなめが第十八願であるとし、これを「本願中の王」とされました。
ここでは、その願文を親鸞聖人が主著『教行信証』に引用されているところによっていただくこととしましょう。〈ただし、ここでは原文や「現代語訳」の中に( )付で、漢語で慣用句として用いられる語句を付記しています。〉

たとひわれ仏(ぶつ)を得(え)たらんに、十方(じっぽう)の衆生(しゅじょう)、心(こころ)を至(いた)し(至心(ししん))信楽(しんぎょう)して(信楽)わが国(くに)に生(うま)れんと欲(おも)ひて(欲生)、乃至十念(ないしじゅうねん)せん。もし生(うま)れざれば(若不生者)、正覚(しょうがく)を取(と)らじ(不取正覚)と。ただ五逆(ごぎゃく)と誹膀正法(ひほうしょうぼう)を除(のぞ)く。

(わたしが仏になったとき、あらゆる人々が、まことの心で(至心)信じ喜び(信楽)、わたしの国に生れると思って(欲生)、たとえば十声念仏して(乃至十念)、もし生れることができないようなら(若不正者)、わたしは決してさとりを開くまい(不取正覚)。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を膀るものだけは除かれる「顕浄土真実教行証文類(現代語版)」 一六一頁)

このように、この誓願(決意)をおこされて、さとり(正覚)を完成・成就されたのが阿弥陀さまです。そこで、この本願のとおり、阿弥陀さまがここにはたらいているといただき、「まことの心で阿弥陀さまのはたらきを信じ喜び、(その阿弥陀仏の国に)生まれると思って」「十声でも念仏する」ものは、さとりの世界であるお浄土へ生まれさせていただく。-その通りにいただかれて、念仏の生活をされたのが法然聖人でした。そして、その阿弥陀さまのたらきに出遇ったことを、

ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし
                    (「歎異抄」『註釈版聖典』八三二頁)

とお示しくださったところに、「念仏往生」の法門が開かれたのです。
本願成就文の意味
さらに、親鸞聖人は、この第十八願文との関係から、・その本願が完成・成就されたはたらきを説かれるご文、すなわち『仏説無量寿経』下巻冒頭の「本願成就文」(第十八願成就文)に注目されました。そうして、「本願成就文」に基づいて「仏説無量寿経」全文を拝読され、阿弥陀さまのみ教えを受け止められたのです。そのご文を、同じく「教行信証」に引かれている引用文によっていただくと、

あらゆる衆生(諸有衆生)、その(無量寿仏の)名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり(至心回向)。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹膀正法とをば除く                        (『註釈版聖典』二コー頁)

(すべての人々は、その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ〔その心(一念)をいだく〕まさにそのとき、その信は阿弥陀仏がまことの心(至心)をもってお与えなったものであるから、浄土へ生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり(即得往生)、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を膀るものだけは除かれる「顕浄土真実教行証文類(現代語版)」 一六二頁)

とあります。
このご文の読み方は、一般的な漢文体の読み方と異なっているといわれますが、親鸞聖人は「仏説無量寿経」の真意を受け止めて読み込まれ、そのためにこのような読み方をされたと理解できます。ここに、親鸞聖人の深く鋭い仏教観がうかがわれ、だからこそ、このような現代語訳がなされるのです。それは、どのようなことでしょうか。この成就文を、一般的、表面的な読み方で拝読しますと、次のようになります。

諸有衆生(あらゆるしゅじゃう)、其(そ)の(無量寿仏の)名号(みょうごう)を聞(き)きて、信心歓喜(しんじむくゎんぎ)して、乃(すなわ)ち一念(ねむ)に至るまで
 心を至し廻向(いかう)して、彼の国に生ぜむと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住す。
(浄土真宗聖典編纂委員会編「蓮如上人500回遠忌総合計画実施記念浄土三部経」四七頁)

傍線を付したところに注目してご文を拝読しますと、ここではご文全体の主語は「諸有衆生」であるとみられますが、親鸞聖人は、「乃至一念」までと「至心回向」との聞に切れ目を入れて、二文からなるように読まれました。すなわち前述のように、聖人は「至心に回向せしめたまへり」(至心に回向なさっている)と読まれて、この部分だけは「無量寿仏」(阿弥陀仏)を主語とされています。ここから、「至心回向」すなわち「まことの心をもって回向なさる(ふりむけお与えになる)」のは、「あらゆる衆生が」ではなく「無量寿仏が」ということになり、無量寿仏(阿弥陀仏)のお仕事・おはたらきであったといただかれました。
このように、「至心回向」を阿弥陀さまのはたらきと受け止めることによって、『仏説無量寿経』を首尾一貫、矛盾なく拝読することができ、これによって「他力回向」の意が明確に示されたのです。

 

信方便の易行

 

さらに、三月の法語の結びの「往生かならずさだまりぬ」について、その意味をうかがいたいと思います。「本願成就文」には、「すなはち往生を得、不退転に住せん」とあり、

(信を得たそのとき浄土へ生れようと願う、そのときたちどころに)往生すべき身に定まり(即得往生)、不退転の位に至る。

と現代語訳することができます。その意味を、親鸞聖人は、七高僧の第一祖・龍樹菩薩が著わされた『十住毘婆沙論』の易行品五、および龍樹菩薩のみ教えに基づいて論説をなされている、第三祖・曇鸞大師のご指南によって、明確にお示しになりました。それは、おおよそ次のように説明できるでしょう。
龍樹菩薩は、「易行品」に次のように述べられます。

仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至るものあり。〈もし人疾く不退転地に至らんと欲はば、恭敬の心をもって執持して名号を称すべし〉。(中略)人よくこの(阿弥陀)仏の無量力功徳を念ずれば、即の時に必定に入る。
(『教行信証』「信文類」引文、「註釈版聖典」 一五一~一五三頁)

ここに、「信方便の易行」といわれ、「ちょうど船に乗せていただいて容易に目的地に至るように、〔阿弥陀さまのはたらきに〕感謝の念(恭敬の心)をもって阿弥陀さまの名号を称え念ずれば、〈即の時に必定に入る〉こととなる」、すなわち、阿弥陀さまに恭敬の心をもってそのはたらきを信ずるものは、直ちにさとりに至ることが決定した状態に入ることとなる、と説かれています。
「現生正定聚」となる
さらに、第三祖・曇鸞大師は、第二祖の天親菩薩の「浄土論」を解説する大著「往生論註」(「浄土論註」)を著わされ、その冒頭に龍樹菩薩の「易行品」の当該のご文を引かれて、註釈・解説の依りどころとされています。この『往生論註』のご文を親鸞聖人は「教行信証」「行文類」に引用されますが、そのかなめとなるご文だけをうかがうことにしましょう。

引用のご文は、「つつしんで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるにいはく」(『註釈版聖典』一五四頁)に始まり、菩薩の道に難行道と易行道の二道があることを示されます。そして、難行道について「五濁の世、無仏の時において、(自ら修行して)阿毘蹟致(不退転)を求むるを難とす」(同頁)といわれ、易行道については、

易行道とは、いはく、ただ信仏の因縁をもって浄土に生ぜんと願ず。仏願力に乗じてすなはちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持してすなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘趾致なり。たとへば水路に船に乗じてすなはち楽しきがごとし          (『註釈版聖典』 一五五頁)

(易行道とは、ただ仏を信じて浄土の往生を願えば、如来の願力によって清らかな国に生れ、仏にささえられ、ただちに大乗の正定聚に入ることができることをいう。正定聚とは不退転の位である。これをたとえていえば、水路を船で行けば楽しいようなものである「顕浄土真実教行信証文類(現代語版)」四五~四六頁)

と述べられます。ここに龍樹菩薩の示される「易行道」を受けられて、曇鸞大師は「信仏の因縁」(阿弥陀さまに任せきるという信)によって浄土往生を願えば、「仏願力に乗じて」「大乗正定の聚」に入ると示されます。
こうして、阿弥陀仏の本願のはたらきに乗せていただくと(すなわち、阿弥陀さまのおはたらきに任せきって)、「大乗の正定聚」として「浄土に往生してさとりを得る身となる仲間に入る」ことができるのです。それは、この世を去る時のことでなく、いま現在において「往生成仏する身に決定している仲間」となる、すなわち[現生正定聚]を意味しているのです。
三月の法語である「往生かならずさだまりぬ」とは、まさにこの龍樹菩薩、曇鸞大師の示される「正定聚に入る」ことを意味しており、「現生正定聚」となることが示されているということになるでしょう。真実信心が得られたその時に、まさにこの「現生正定聚」となるということを、この一句で簡潔に詠われていて、味わい深い法語であります。
(佐々木恵精)

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