2017年8月 金剛心は菩提心 この心すなわち 他力なり

「さとりタイ」は煩悩?

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中学生や高校生に煩悩についての話をする時、僧侶であり教育者でもある東井義雄さんの「バカにはなるまい」という文章を、よく紹介していました。

皆さんの人生はこれから始まるわけですが、これから始まる人生をどんな人生にしあげていくか。ところが、ちょうど皆さんの時にはね、いろんな欲望や衝動かこみあげてくる。だから、バカにならんようにしようと思ったらな、あんたらのまわりには、こんなのがいっぱい泳いどる。へたくそな鯛の絵を黒板に三匹かきました。
私はなんでもへたくそで、絵は特にへたくそで、鰯に見えるか、めだかに見えるかしらんけどな、これ鯛のつもりじゃ。鯛にはどんな種類があるか知っているか。一番こちらの鯛は何という鯛かというと、「もうちょっと寝とりタイ」という鯛。その次の鯛は何という鯛か、「もうちょっとテレビが見タイ」という鯛。その次の鯛は「もうちょっと漫画が読みタイ」という鯛。近頃、日本も豊かになって、鯛が異常繁殖して、その上お父さんお母さんがたが、皆さんをかわいがるつもりで、一生懸命に鯛の餌やりしてくださるので、知らんまに鯛が大きくなって、かんじんの主人公を食べてしまいよる。(中略)
皆さんも、いろんな「タイ」を持っていると思いますが、どうか「たい」の奴隷にならんようにして下さいね。
東井義雄著「バカにはなるまい」三一圭二二頁)

このような文章です。そして、「このような『○○タイ』という心を煩悩といいます。この煩悩によって、私たちは苦しんだり、悩んだりしています。ですから、仏教では、煩悩を滅して安らかなさとりの境地に至ることを目指すのです」というような説明をしていました。すると、
「先生、では、『さとりタイ』という心も煩悩ではないんですか?」と質問してくる生徒が、時々いました。なかなか鋭い質問です。
みなさんは、どう思いますか。「さとりタイ」という心は、煩悩でしょうか。もし、私が「さとりタイ」と思ったとしたら、それは多分、煩悩だと思います。なぜなら、「さとりタイ」と思うその理由は、「さとったら苦しみ悩みがなくなって、楽な人生を送れそうだから」とか、「さとったら偉くなって、皆から尊敬されるから」とか、結局は私の欲望を満たそうという思いでしかないからです。

「さとりタイ」は菩提心

仏教でいう「さとり」とは、真実に目覚めることです。ただ、真実に目覚めた人は、自分が真実に目覚め苦しみ悩みがなくなったら、それで終わりではなく、周りで苦しみ悩んでいる人を見て、真実に目覚めさせようとします。自分だけがさとって、周りの人が苦しんでいても白分には関係ない、というのはさとりではありません。自らがさとること(自利)と、他をさとらせること(利他)の両方が完成して、初めてさとりというのです。つまり、さとりとは自利利他の完成のことです。
いざとなれば、自分のことしか考えない私。そんな自己中心の心から離れられない私に、このようなさとりを求めたいという心が起こるでしょうか。
仏教では、「さとりタイ」という心、さとりを求める心を、「菩提心」といいます。仏道修行を始めるにあたって、この菩提心を起こすことは必要不可欠なことであり、出発点でもあります。菩提心なくして修行は成り立ちません。これが伝統的な仏教の考え方です。

自力と他力

ところが、親鸞聖人の師である法然聖人は、この菩提心やさまざまな修行を捨て、念仏一つを選び取られました。善人も悪人も、出家者も在家者も、男も女も、すべての大が平等に念仏一つで救われる、と説かれたのです。その根拠は、阿弥陀さまのご本願の中に「すべての人を、お念仏一つで必ず救う」と誓われているから、というものでした。
それに対して、奈良や比叡山の伝統仏教教団から、批判が起こりました。その代表的な人が栂尾の明恵上人(高弁)です。明恵上人は「摧邪輪」を著し、法然聖人が菩提心を捨てたことを徹底的に批判しました。伝統的な仏教の枠組みからいえば当然の主張でしたが、それは、法然聖人の教えが理解してもらえないことからでてくる批判でした。
これらの批判に対して、法然聖人の弟子であった親鸞聖人は応えていかれるのです。それが「教行信証」「菩提心釈」(「註釈版聖典」二四六~二四九頁)です。詳しく説明すると煩雑になりますので、要点のみを述べます。
親鸞聖人は、菩提心に「自力の菩提心」と「他力の菩提心」があるといわれています。そして、法然聖人が捨てられたのは自力の菩提心であり、煩悩具足の凡夫である私には、そのような菩提心を起こすことは不可能だというのです。「正像末和讃』に、

自力聖道の菩提心
こころもことぱもおよぱれず
常没流転の几愚は
いかでか発起せしむべき  (「註釈版聖典」六〇三項)

(自力聖道門の菩提心は、思いはかることも言葉に表すこともできない。常に迷いの海に沈み、迷いの世界をさまよっている愚かな凡夫は、どうして菩提心を起こすことができるであろうか。)

とあるのが、その意味です。
では、他力の菩提心とは何かというと、信心であるというのです。ここでいう信心とは、私が信じる心ではなく、阿弥陀さまの救いのはたらいを疑いなく受け容れた心(状態)のことです。阿弥陀さまから与えられた信心だということで、他力回向の信心といいます。つまり、他力の菩提心は、私か起こす心ではなく、阿弥陀さまから与えられた心なのです。その他力の菩提心(信心)が私を揺さぶり、さとりを求める私へと、少しずつお育てくださる力です。
また、他力回向の信心(他力の菩提心)は、願作仏心(仏に成ることを願う心・自利)であり、度衆生心(衆生を救済しようとする心・利他)である、といわれています。「高僧和讃」「天親讃」に、

願作仏の心はこれ
度衆生のこころなり
度衆生の心はこれ
利他真実の信心なり               (『註釈版聖典』五八一頁)

仏に成ることを願う心〈願作仏心〉は、衆生を救済しようとする心〈度衆生心〉である。衆生を救済しようとする心〈度衆生心〉は、阿弥陀さまから与えられた真実の信心〈他力回向の信心〉である。)

とあるのがそれです。
天親菩薩と曇鸞大師

さて、八月の法語は、「高僧和讃」「天親讃」の中の一つ、

信心すなはち一心なり
一心すなはち金剛心
金剛心は菩提心
この心すなはち他力なり             (『註釈版聖典』五八一頁)

の後半部分です。現代語に訳してみると、

真実の信心は、すなわち一心である。一心は、すなわち金剛心(決して壊れることのない心)である。金剛心は、菩提心(さとりを求める心)である。この心は、すなわち他力(阿弥陀仏のはたらき)である。

となります。

『高僧和讃』は、七高僧の教えを、その事跡や著作をもとに、和語で讃嘆されたものです。この和讃は、天親菩薩の著作「浄土論」の、

世尊我一心 帰命尽十方 無擬光如来 願生安楽国
(「尊号真像銘文」引文、「註釈版聖典」六五一頁)

(世尊、われ一心に尽十方無磯光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。「註釈版聖典(七祖篇)』二九頁)

というご文や、「浄土論」の註釈書である曇鸞大師の『往生論註』の、

この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。       (「註釈版聖典(七祖篇)」 一四四頁)

によって、作られたものです。
堅固不動な他力の心

和讃を昧わってみましょう。まず、「信心すなはち一心なり」の「信心」とは、親鸞聖人の明らかにしてくださった信心、真実の信心のことです。この信心は、私か信じる心ではなく、阿弥陀さまの救いのはたらきを疑いなく受け容れた心(状態)のことで、本願力回向の信心(他力回向の信心)ともいいます。この真実の信心が「一心」であるというのです。この「一心」とは、天親菩薩が「浄土論」のはじめに、

世尊(釈尊)よ、私(天親)は一心に、尽十方無磯光如来(阿弥陀如来)に帰命したてまつりて、安楽国(浄土)に生まれることを願います。

と、自らの信心を表明したところに出てくる「一心」のことで、その内容が「帰命尽十方無磯光如来」なのです。尽十方無擬光如来とは、智慧の光をもって十方世界を照らし、さわりなく衆生を救う如来さまということで、阿弥陀さまのことです。私の煩悩もさわりとせず救ってくださる阿弥陀さまに、お任せする(帰命する)。
それが一心であり、信心なのです。この一心は、私か作り上げた心ではなく、阿弥陀さまの心です。阿弥陀さまの無磯の救いのはたらきが届いたところを一心と呼んでいるのです。一心が私の心なら、ふらふらして散り乱れ壊れてしまいますが、阿弥陀さまの心なので、決して壊れたりゆらいだりすることはありません。
よって、「一心すなわち金剛心」と、「一心」は決して壊れることのない心、金剛心であるというのです。「金剛心」という言葉は、『浄土論』にも、その註釈書である曇鸞大師の『往生論註』にも出てきません。この言葉は、善導大師『観経疏』「玄義分」の冒頭にある「帰三宝偶」(「註釈版聖典(七祖篇)」二九八頁)に出てきますが、決して壊れることのない堅固不動な心のことをいいます。
続いて、「金剛心は菩提心」とあるように、金剛心は、さとりを求める心、菩提心であるというのです。
そして、最後に「この心すなはち他力なり」と結びます。信心といい、一心といい、金剛心といい、菩提心といった心は、すなわち他力(阿弥陀さまのはたらき)であると結論づけているのです。信心も一心も金剛心も菩提心も、私の心ではなく、阿弥陀さまの心なのです。阿弥陀さまのはたらきが届いた姿なのです。ここに親鸞聖人の深い思いがうかがえます。
(小池秀章)

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