2018年8月 凡夫はすなわちわれらなり

 

「腹」をなんと読むのでしょうか

小さい頃は丸刈り。小学校に入るとスポーツ刈り。中学の頃は再び丸刈り。高校一年生の夏に得度習礼に行かせていただきましたが、その時は普段よりも短めの丸刈りでした。
最近は、ほぼ1ヵ月半ごとに、五十年近く通い慣れた理髪店に行き、頭髪を整えていただきます。椅子に座り、鏡越しに映る上手なはさみさばきに見とれていると、あっと言う間に一時間ほどが過ぎてしまいます。
いつの頃からでしょうか、鏡の横に色紙がかけられています。その色紙に、「腹」という字?図?が書かれています。首を右に傾ければ、「腹」という字になりますね。これは、腹という字を縦にしないで横にしたものですから、「腹を立てず」と読むそうです。
そのほか、心という字をまん丸に書いて、「心を丸く」と読みます。
気という字を縦に長く書いて、「気を長く」と読みます。
口という字を小さく小さく書いて、「口を慎む」と読みます。
最後に、命という字を縦に長く沓いて、「命、長らえる」と読みます。
全体を通して読めば、「腹を立てず、心を九く、気を長くして、口を慎めば、命長らえる」となります。
些細なことで怒ったり、腹を立てたりせずに暮らすことができれば、穏やかな生活ができそうです。
自分の思い通りにならない時に、イライラしてしまうことがあります。心が刺々しくなってしまうと、周囲の人と衝突してしまうこともありますが、心をまあるくすることができれば、気を長くすることになり、周囲との摩擦も少なくなりそうです。
また、口を慎むということも大切なことですね。川頃は不謹慎なことを話したりしないはずの人が、お酒に酔った勢いで大口をたたいたり、人風呂敷を広げてしまうことがあるかもしれません。また、噂話も大好きです。どなたかの良い噂話であれぱよいのですが、噂は悪い噂の方が圧倒的に多そうです。悪い噂をまさか本人を前にして話すことはありませんから、陰口になってしまいます。その陰口がいつかどこかで本人にバレてしまうと、たいへんなことになります。目を慎むことができれば、敵もいなくなるかもしれませんね。
最後の「命、長らえる」というのはわかりませんが、腹を立てずに、気を長く、心を丸くすることができれば、血圧が上がることは少なくなりそうです。結果的に長生きをすることにつながるのかもしれません。
頭髪をきれいにしていただいて、さっぱりと、すっきりとした気持ちになり、鏡の横にかかっている色紙の言葉を見て、こんなふうに過ごしたいなあと想いながら、理髪店を後にします。歩いて数分で家に着き、「男前になったねえ」「さっぱりしたねえ」と言ってくれればよいのですが、なかなか家族からは褒め言葉をいただけません。「行く前とあまり変わらないねえ」などと言われることもあります。そうすると、理髪店を出る時のすがすがしい気持ちから一転、怒りの炎がカッと燃えさかります。これが瞋恚(しんに)という煩悩です。川頃は鳴りを潜めてくれていますが、思いがけない一言で燃えさかるのが私の煩悩です。

凡夫の「常」と阿弥陀さまの「常」

今月のことばは、『一念多念文意』にあるご文です。

「凡夫」はすなはちわれらなり。          (『註釈版聖典』六九一一頁)

「われら」というのですから、私だけが凡夫なのではありません。また、あなたが凡夫で私は凡夫ではないということでもありません。私もあなたも凡夫だというのです。
この言葉の少し後には、凡夫を定義するような次の言葉があります。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず        (「註釈版聖典」六九三頁)

(「凡夫」というのは、わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみねたみの心ばかりが絶え問なく起り、まさに命が終わろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることもない 『一念多念文意(現代語版)』三七頁)

私たちの身には、煩悩が満ちみちており、貪欲・瞋恚・愚痴という三毒の煩悩がひっきりなしに湧き起こってしまい、それはこの娑婆の縁の尽きるその最期の瞬間まで消えることがないというのです。
貪欲・瞋恚・愚痴について簡単に話しておきましょう。先月の「雑毒の善」の毒という字を用いて、貪欲・瞋恚・愚痴の三つは「三毒の煩悩」と呼ばれます。
貪欲とは、自分の思い通りにしたいという想いです。またその想いがどこまでも収まらないということです。「ほしい」「こうしたい」「ああしたい」という想いが、どこまでも続くというのです。ネクタイや(ンカチなど、欲しいものを手に入れるために、小遣いを貯めたり貯金をして、思い通りに手に入ることがあります。しばらくは満足をしますが、すぐに飽きがきてしまうこともあります。欲しいものが手に入る間は良いですが、けれども、必ずいつも、いつまでも手に入るとは限りません。手に入れられない時に、この貪欲が原因で、苫しみや悩みを生じます。
瞋恚とは、怒りや腹立ちの想いです。自分の思い迦りにならない時に、腹立たしい想いが出てきます。想い通りにならない原因を探り、白分の努力不足・力不足を痛感し、自分自身に腹を立てる間は良いかもしれません。けれども、その原因を探し、誰かに責任転嫁をするような時があります。「自分は頑張っていたのに、あの人が邪魔をしたからうまくいかなかったんだ」「邪魔はされなかったけれども、応援をしてくれなかったから、良い結果にならなかった」などと考え、責任転嫁する時に、瞋恚の想いが生じているのです。
愚痴とは、愚かさです。生活の中で、愚痴をこぽすことがあります。何事もすべてが自分の思い通りになるはずがありません。このことがわからずに、何でも自分の思い通りになるはずだという誤った考えを愚かさというのです。自身の愚かさを棚に上げて、他者を妬むような気持ちが生じる時があります。
親鸞聖人は、この貪欲や瞋恚を「常」とあらわされます。たとえば『教行信証』には、

貪愛(とんない)の心つね(常)によく善心(ぜんしん)を汚(けが)し、憎憎の心つね(常)によく法財(ほうざい)を焼く。
(『註釈版聖典』二三五頁)

とあります。また「正信偈」には、

貪愛瞋憎之雲霧(とんないしんぞうしうんむ) 常覆真実信心天(じょうふしんじつしんじんてん)  (『尊号真像銘文』、「註釈版聖典」六七〇頁)
(貪愛・瞋憎の雲霧、つねに莫実信心の天に覆へり。『註釈版聖典』二〇四頁)

とあります。ここに「常」という字があります。親鸞聖人は、一念多念文意』の冒頭で、「常」という字と「恒」という字との違いについて説明をしておられます。「惧」と「常」とは、ともに「いつも」「つねに」ということです。「あの人は、いつも本を読んでいます。」「あの人は、つねに人の悪口を言ってますね。」という時の「つね(恒)」と、「私たちはつねに呼吸をしています。」「心臓はつねに動いてくれています。」という時の「つね(常)」。どこが違うでしょうか。
答えは、途切れる時があるか、ないかという点です。恒は途切れる時があります。常は途切れる時がありません。「教行信証」や「正信隔」には、私たちの煩悩は途切れる時がないと示されるのです。
厳しい見方ですね。

私には煩悩がないと自信を持って語ることができる方は、なかなかいないと思います。煩悩があることは認めます。けれども、煩悩が常にあると認めることはなかなか難しいですね。すがすがしい清らかな気持ちでいる時もあります。けれども、腹の底には毒々しい煩悩があるというのです。
親鸞聖人は、このような厳しい指摘をされる一方で、阿弥陀さまも「常」だと示されます。「正信偶」に、次のように詠っておられます。

摂取心光常照護(せっしゅしんこうじょうしょうご)         (「尊号真像銘文」、「註釈版聖典」六七〇頁)

(摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、つねに照護(しょうご)したまふ。『註釈版聖典』二〇四頁)

大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)

(大悲(だいひ)、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。『同』二〇七頁)

私たちの煩悩が常であると同時に、阿弥陀さまの大いなる慈悲の心も常なのです。

阿弥陀さまの尊さ

私たちは、他人の長所を褒めるよりも、他人の短所を論うことが多いのではないでしょうか。他人に良いことがあると妬ましく思い、他人に不幸があるとひそかにほくそ笑んでしまうこともあります。けれども、そのような私の姿こそ、私の大きな短所ではないでしょうか。
他人の悪いところはよく目につきますが、自分の悪いところはなかなか気付かないものです。他人の悪い噂は、たとえそれが嘘であっても面白いものです。逆に、自分の噂は、それが本当であっても不愉快な気持ちになります。私たちは、自分勝手な考えをしているといわなければなりません。このような自分勝手な心、自分本位な想い、自分中心な考えを総じて、煩悩と呼ぶことができるでしょう。
一日二十四時間の内、私だちから阿弥陀さまを思う時間は、それほど多くはありません。朝夕の読経の際や、ふとした時に、阿弥陀さまを思う時もあります。何かのおりに、南無阿弥陀仏とお念仏を称える時もあります。けれども、仕事に没頭している時、楽しく語らっている時、激しく言い争いをしている時には、なかなか阿弥陀さまを思うことはありません。
けれども、阿弥陀さまは、片時も離れずに、いつも、常に、私とともにいてくださるのです。凡夫であるわれらとともにいてくださる阿弥陀さまなのです。「どうせ煩悩があるから…」と、煩悩を言い訳にしてはいけません。
煩悩を抱え、煩悩から離れることができず、しつこい煩悩にまとわりつかれている自身は、恥ずかしい自分です。けれども、この恥ずかしい私に片時も離れず、煩悩の私を放っておけずに常に見守り、傍に寄り添ってくれる阿弥陀さまのお心を、大切に聞かせていただきたいものです。
大きなお心の阿弥陀さまに、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えさせていただきましょう。

(玉木興慈)

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