2018年1月 帰命ともうすは 如来の勅命に したがうこころなり

十字名号を解釈された文IMG_20171231_0011
一月の法語は、『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』からの一文で、天親菩薩の『浄土論』正式には『無量寿経優婆提舎願生傷(むりょうじゅぎょううばだいしゃがんしょうげ)』といい、『往生論』ともいう)冒頭の帰敬偈(ききょうげ)「世尊我一心(せそんがいっしん) 帰命尽十方(きみょうじんじっぽう) 無擬光如来(むげこうにょらい)」の「帰命」を解釈された一文です。まず、その文と現代語訳をうかがいましょう。

帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。  (『註釈版聖典』六五一頁)
(「帰命」とは「南無」であり、また「帰命」というのは阿弥陀仏の本願の仰せにしたがうという意味である。『尊号真像銘文(現代語版)』 一九頁)

『尊号真像銘文』の「尊号」とは、阿弥陀さまの尊い御名のことで、帰依礼拝の対象である本尊としての名号のことです。親鸞聖人は『唯信紗文意』に、

「尊号」と申すは南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)なり。「尊(そん)」はたふとくすぐれたりとなり。「号(ごう)」は仏に成りたまうてのちの御なを申す   (『註釈版聖典』六九九~七〇〇頁)

と述べられています。「真像」とは、真影ともいい、み教えを相承された印度・中国・日本の祖師方の絵像(肖像画)のことです。また「銘文」とは、それら尊号や真像の上下の添紙や色紙型に記された、経典’・論書・釈書などの大切な讃文をいいます。この文は、天親菩薩の絵像に対する銘文というよりは、「帰命尽十方無擬光如来」という十字名号(尊号)に対する銘文を解釈された文と考えられています。

「帰命」とは「南無」

天親菩薩は『浄土論』を造られるにあたり、自ら教主であるお釈迦さまの仰せに対して、阿弥陀さまのお救いを疑いなく信じ、まことの信心を頂戴したということを、「世尊我一心」と表明されています。

そして、その救いの仏である阿弥陀さまを「帰命尽十方無傷光如来」と礼拝・讃嘆されています。「尽十方」とは、仏の光明がいつでも、どこでも普く満ちわたっている状態を、「無磯」とは、衆生の煩悩や悪い行いにさまたげられない光の仏の徳のはたらきを讃えています。また、「光如来」とは、仏の智慧が光明の形をとったもので、凡夫のはからいを超えた絶対の徳をあらわして「不可思議光仏」ともいいます。
親鸞聖人はお手紙に

帰命は南無なり。無磯光仏は光明なり、智慧なり。この智慧はすなはち阿弥陀仏なり。阿弥陀仏の御かたちをしらせたまはねば、その御かたちをたしかにたしかにしらせまゐらせんとて、世親菩薩(天親)御ちからを尽してあらはしたまへるなり。     (『親鸞聖人御消息』第十三通、『註釈版聖典』七六三頁)

と、示しておられます。
もともと「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、梵語すなわちインドの言葉ではナマス(ぶ日色、帰依・敬礼の意味ですが、善導大師は「南無」を「帰命」と解釈され、また浄土に参りたいという義(発願回向)があると示されました。また、「阿弥陀仏」という仏名に、衆生往生の行の徳が如来の手元にて成就され具わっている(即是其行)とされました。大師は、機根の劣っている十悪・五逆の悪人の称名念仏も、往生の行道に必要な願と行が具足したもので、命終後に直ちに往生を得ると主張されました。阿弥陀さまの大いなる本願のはたらきに乗じることこそが、最高唯一の凡夫往生の道として、仏の正意を明らかにされたのです。
まことの因果
私の子どもが小さい頃に、こんな質問をして困ったことがあります。
「お父さん、月にはウサギさんがいるんだよね?」
という純粋な質問に、夢を壊さないように、
「そうだねー、餅つきしているのかなっ」
と答えました。しかし、子どもも成長し科学的な知識が身についてきますと、その答えは嘘だったと気付いてきます。どうやら私たちは、その存在を科学的・実証的に証明しないと気がすまない教育を受けてしまったようです。
ところが、大人となった私たちは、目の前に見えるものや現実生活の中でのありのままの真実に気付かず、自己中心の心で物事を捉えています。そのため、思い通りにならないことで、悩み苦しむことが多々あります。一生懸命に幸福を求めて努力をしていたのに結果として不幸になり、悪い方向ばかりに向かう時があります。そうした経験をしますと、あれだけ科学的・実証的に物事を見ていた私たちに、突如道理の通らないことが頭をもたげてきます。現在でも崇りを恐れる信仰が盛んであったり、縁起の道理に合わない迷信が絶えないのも、その一例でしょう。
努力すれば幸福になる。誰しもそれを求めているのですが、私たちの求めている幸福は、無明煩悩にもとづく幸福であり、不幸という場合も無明煩悩にもとづく不幸なのです。お釈迦さまはそれを見ぬかれて、コ切は苦である」とあっしゃられました。そのお釈迦さまは、「無常」なる世に固定的な実体はないといわれ、「無我」なるさとりの境地を体得されて、縁起の道理を説かれたのでした。
親鸞聖人は『教行信証』「行文類」に曇鸞大師のお言葉を引用されて、その私たち凡夫の実体を次のように述懐されます。

いわゆる凡夫が修めるような善を因として、人間や神々の世界に生れる果報を得ることは、因も果もみな真如にかなっておらず、いつわりであるから、不実功徳というのである。  (『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』五二~五三頁)

と、煩悩に汚れた心で修した行為はさとりに適っていないもので、因も果もいつわりである。私たちの人間生活は、無明煩悩にもとづいた迷いの努力の積み重ねで、迷いの因果でしかないといわれます。
したがって、聖人は、顛倒・虚偽でない真実真如に順じた、如来の名号の救いの業因により、浄土往生の正しき因を頂戴してさとりの果に至るという、阿弥陀さまによる真実の因果の道理に、私たちを導かれたのです。
発遣・招喚の声と信順
親鸞聖人は、善導大師の解釈を承けられて、南無阿弥陀仏の「南無」は帰命という言葉であるが、「帰命」とは、お釈迦さまが「お浄土へ参れ」という勧め遣わす教法の声(発遣)と、阿弥陀さまの「帰命せよ」と招き喚ぶ本願の仰せ(招喚の勅命)である、と理解されます。また、二尊の教命により弥陀の本願大悲心の召しに適うという、勅命に信順した言葉として解釈されます。
『尊号真像銘文』のこの文は、「帰命と申すは如来の勅命にしたがうこころなり」と、如来より「帰命せよ」との招喚に信順し真実信心を頂戴した、衆生の立場からご解釈されています。
一方で、『教行信証』「行文類」では六字の名号をご自釈されて、「南無」とは、私の信順に先んじた如来の招喚する「帰せよ」の勅命で、如来がすでに因位の時に誓願を起こされ発願されて、衆生の行を回施された(「発願回向」)如来の大悲心とされます。また、それは如来が第十八願に誓われた行(「即是其行」)であると、六字の全体を阿弥陀さまの救いのお立場から解釈されています。
このように親鸞聖人は、釈迦・弥陀の勧めと喚び声に対して信順され、「帰命」と名号を称えて、浄土往生を願われたのでした。私たちは、天親菩薩が力をつくして示された仏さまの救いの御名を聞いて、阿弥陀さまの真実功徳が、まさにこの凡夫の世界に満ち満ち、いかなる時においてもその大悲の中に願われ生かされていることを知らねばなりません。その阿弥陀さまに信順するところに、間違いなく浄土に生まれさせていただける安心ができるのであります。                                 (武田 晋)

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