2019年11月のことば 真の知識にあうことは かたがなかになおかたし

善き師との出遇い

十一月のことぼは、『高僧和讃』源空讃(『註釈版聖典』五九七頁)で、恩師・法
然聖人を讃えられた和讃です。

『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』の「化身上文類」に、

  しかるに愚禿釈(ぐとくしゃく)の鸞(らん)、建仁辛酉(けんにんかのとのとり)の暦(とり)、雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願(ほんがん)に帰(き)す。
(『註釈版聖典』四七二頁)

と述懐されますように、親鸞聖人は二十九歳のとき、吉水の禅房に法然聖人を訪ね、二十年間の比叡山での自力の雑行と訣別して、本願の教えに帰入されました。そのときの喜びは、どれはどのものであったでしょうか。今までの価値観が一変し、目につけていた鱗が、一枚一枚剥がれていく懐いであったに違いありません。

親鸞聖人において、もし本願を説かれた釈尊の教えに遇うことがなかったならば、そして、その教えを承け継がれた七高僧の方々、なかでも、本願の真実を直接教えてくださった、善き師・法然聖人との漫遁がなかったならば、本願の教えを聞くことも信ずる身にもなっていなかったであろう。そうした念が『教行信証』総序に、

  ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生(たしょう)にも値(もうあ)ひがたく、真実(しんじつ)の浄信(じょうしん)、億劫(おくこう)にも獲(え)がたし。たまたま行信(ぎょうしん)を獲(え)ば、遠(とお)く宿縁(しゅくぇん)を慶(よろこ)べ。           (『同』 一三二頁)

という言葉として吐露されています。

「値う」とは「値遇(ちぐう)」ともいわれ、「遇う」と同じ意味であって、予期しない、思いがけない偶然の漫遁(めぐりあい)を意味する言葉です。いくたび人生を重ねたとしても、本願に遇う縁をめぐまれることはむずかしく、たとえ気の遠くなるような時間を経たとしても、真実の信心を獲得することは困難な私であった。たまたま法然聖人との漫遁を通して、本願に遇い信心を獲得されたとき、それが遠く過去からのさまざまな因縁によるものであった、という喜びの表現です。それは、みすがらの努力を積み重ねることによって得られたものではなく、さまざまな因縁の上に、たまたま得られた信心であることの表明でもあります。
親鸞聖人は、法然聖人との出遇いの不思議を重く受け止められていました。それ
は『高僧和讃』源空讃に、

礦劫多生(こうごうたしょう)のあひだにも
出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)しらざりき
本師源空(ほんしげんくう)いまさずは
このたびむなしくすぎなまし           (『註釈版聖典』五九六戸

と詠まれて、法然聖人との出遇いがなければむなしい人生を過ごしていたであろうと、法然聖人との値遇を讃えられた内容からしても、うなずけるところです。そし
て、親鸞聖人は法然聖人に対して、人間・法然聖人ではなく、阿弥陀さまの化身と
して、あるいは還相の菩薩として、この世に現れてくださった方という受け止めを
しておられます。
直接、教えを蒙った面授の師ほど、その人を慕う心は何よりも強いものがありま
す。親鸞聖人加法然聖人を慕われていかれたのも、そのような心持ちからではない
でしょうか。『高僧和讃』のなか、法然聖人を除くほかの六祖の和讃が、その教義上
の功績を讃えた内容が多いのに対して、「源空讃」二十首は教義について述べられた
ものはなく、値遇の喜びやその業績を讃えた和讃ばかりであるということも、法然
聖人の善知識としての人柄を偲ばれてのことであるといえましょう。

恩師の心配り

考えてみますと、私も今の私かあるのは恩師の先生方のお陰であると思います。
恩師の先生方に出遇うことがなかったら、多分、今の私は存在していなかったとい
うことを、歳を重ねるにつれて、つくづく感じるようになりました。
私の恩師の先生ですが、大学時代は浅野教信先生です。私か龍谷大学に入学しか
ときは、丁度、学園紛争の真っ只中でした。当時、学舎は京都市南部の深草にあり
ましたが、入学して間もなく大学封鎖ということになり、一年間、まったく講義が
ありませんでした。二回生になって初めて講義を受けることができたのですが、そ
のほとんどが教養科目の講義でしたから、真宗の講義はわずかしかありませんでし
た。三回生になると、学舎が深草から文学部中心の大宮に移り、そこで真宗の専門
科目の講義を数多く受けていくということになります。しかし今度は、大宮学舎が
全面封鎖ということになりました。そのために、また一年間、講義を受けることが
できなくなったのです。恥ずかしいことですが、私は大学三回生のとき、「浄土三
部経」がどういうお経を指すのか、ということさえわかりませんでした。それくら
い、無知な学生時代を送っていたのです。
そして四回生になったとき、初めて真宗の専門の講義を受けました。そのなかに
ゼミ、いわゆる真宗学演習という講義があり、そのゼミ担当が浅野教信という先生
でした。学生の間では、先生は非常に厳しいという評判でしたので、あまり人気が
なく、ゼミを受講する学生も毎年少人数で、私か受講した年も五、六人くらいしか
いませんでした。そこで、先生の気が向けば「今日のゼミは、教室でするよりも喫
茶店でしようか」といわれ、大学の近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら講義を聴
いたり、あるいは先生の研究室で講義を聴いたりするなど、家庭的な雰囲気のなか
で先生と親しく接するようになりました。
また学生時代は、なかなか買いたい本があっても買うことができません。そうす
ると、先生が「自分の付けで買ってやるから」と言われましたので、仏書店に行っ
てほしい本を買い、「これを浅野先生に付けておいてください」と言って、買い求め
た本がたくさんあります。夏休みにお盆参りをして手当が大りますと、その半分く
らいを先生にお返しするわけです。しかし、学生を終える頃になりますと、どのくらい付けが残っていたのかわからなくなりました。そうすると、先生は「もう、い
いから」とおっしゃって、だいぶん肩代わりをしてくださったのではないかと思い
ます。先生自身が、学生時代にそういう面で苦労をされたと聞いておりますので、
学生の少しでも手助けになればという気持ちから、心配りをしてくださっていたの
です。先生の付けで本を買わせてもらったのは、私だけではなく何人もおりました。
今から思えば、先生にとって大きな負担となっていたのではなかろうかと申し訳な
く思っております。

聴聞の姿勢

大学卒業後、さらに大学院に入学し、大学院でも浅野先生の講義は受講し続けま
したが、ゼミを持たれていなかったので、今度は村上速水先生の指導を受けること
になりました。博士後期課程に進学したとき、先生が龍谷大学の宗教部長に就任さ
れましたので、私に「宗教部の手伝いをしてくれ」と言われ、「りゅうこく」という新聞の編集や大学の宗教行事など、三年間、先生のもとではたらくことになりまし
た。お手伝いを通して、先生と親しくお付き合いさせていただく機会に恵まれまし
た。その後、先生が文学部長に就任され、職務に多忙の日々を過ごしておられたと
き、一九七八(昭和五十三)年の一月でしたが、突如、脳血栓で入院されました。そ
して病気によって重い後遺症を患われたのです。ご病気当初は言葉が出てこない、
右半身の自由が利かない、という状態でした。大学の先生にとって、喋る、書くと
いう機能は、なくてはならないものです。その大切な機能を病気によって一気に失
われました。しかしながら、リ(ビリによって右半身の自由はある程度回復され、
書くという機能は取り戻されましたが、喋る方はそれから二十数年、八十二歳でご
往生されるまで、元には戻られませんでした。
先生が退院され、週二回の通院のときには、毎回タクシーを利用しなければなら
ないということを聞きました。そのとき、私は学生でしたが、すでに受講する講義
数も少なく、また先生の近くに住まいがあり、自家用車も持っておりましたので、病院の送り迎えをさせていただくことを申し出ました。約一年半の送り迎えを通し
て、先生と今まで以上に身近に接しさせていただき、知らず知らずのうちに受けた
薫陶と温情は計り知れません。
大切な機能に障害が生じられたため、闘病のご苦労は、筆舌し難いものがありま
したが、そういう状況にあっても、本願寺の総会所で開かれている常例布教に、聴
聞のため通われることを欠かされませんでした。常例布教のご講師には、先生が大
学や仏教学院で教えたことのある人もおられます。その教え子さんの話に耳を傾け
られる。学者としてもすばらしい先生であるけれども、同時に敬虔な念仏者として
頭の下がる思いがいたしました。学問の上でも、私かお話ししている浄土真宗の教
えは、まさに村上先生との出遇いによる果実であるといっても過言ではありません。
また念仏者としての先生のすがたに感服させられたことも何度かありました。ある
とき、先生がいまだ辿々しい口調で、私に次のようなことを話されたことがありま
す。
総会所通いをしていると、聴聞の人の顔ぶれは大体決まっている。そんななかで、法座が終るといつも口癖のように、「ああI、今日もいい話を聞かしてもらった。有り難かった、有り難かった。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、つぶやきながら帰っていく年配の女性がいる。自分が聴聞していて、それほど有り難いと思えない話のときでも、「今日も有り難い話を聞かせてもらった。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」という独り言が出る。その女性のつぶやきをいつも聞いていながら、実は今日、初めて気づかせてもらった。聴聞というのは、話す側に問題があるというよりも、聞く側に問題があるのではないか。

親鸞聖人の教学研究において第一人者として評され、本願寺派の勧学和上でもあ
った先生が、しかも六十歳を超えられて、今まで気づかなかったものをひとりの年
配の女性から教えてもらったといわれたとき、私はすばらしい師匠に出遇わせてい
ただいたという感動を、憶えずにはおられませんでした。
そういう一一人の先生に出遇ったお陰で今の私かあるということを、歳を重ねると
ともに強く感じるようになりました。

善き師に遇うことのむずかしさ

仏教の世界でいう善き師とは、この和讃に「真の知識」と表現される人であり、
それは心の底に真実を見据えている人であり、したがって、うそやごまかしが利か
ない、また厳しくもあり優しくもある人です。しかも、そのような善き師に遇うと
いうことは、単なる「その人」に会うのではなく、「法」に裏付けられた「その人」に
遇うということです。これが世間で師と仰がれる人と、仏教の世界で師と仰がれる
人との大きな違いではないでしょうか。
「面授」という言葉がありますように、「法」は「人」によって伝えられていきます。
しかし、いかにすばらしい善き師であっても、その教えに耳を傾けようとしない間
は、善き師と仰ぐことはできません。
私か勤めておりました中央仏教学院では、心に染み入る話が聞ける特別講義や記
念講演も多数ありますが、なかには講義の最初からもはや耳を傾けようとしない学
院生もおります。そういう状況を見ておりますと、源信和尚のお言葉に、

  宝の山に入りて手を空しくして帰ることなかれ。
(『往生要集』、『註釈版聖典(七祖鎬)』八四二頁)

とあるように、まさに宝の山に入っているにもかかわらず、その価値に気づかない
で終ってしまうのではなかろうか、という危惧さえ抱きます。また耳を傾けたとし
ても、善き師の教えの真意がそのまま受け止められるかといえば、そうではありま
せん。法然聖人や親鸞聖人の門下において生じた種々の異義は、真意を教え伝える
ことがいかに困難であるかを物語っています。
師を通して真実の教えに遇ってこそ、心境が通じ合い、心から善き師と仰げるようになっていきます。一生に一人でも善き師「真の知識」に出遇えた人は、真実の
教えに目覚めた人でもあります。
(白川 晴顕)

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