2019年9月のことば  わがこころよければ 往生すべしとおもうべからず

往生の要因

九月のことぼは、親鸞聖人が笠間(現・茨城県笠間市)の門弟の疑問に答えられた、ご消息に出てくる一文です。このご消息では、最初に「自力」「他力」の説明がなされ、つづいて次のように記されています。

  しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず。  凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ、往生すべしとおもふべからず。自力の御はからひにては真実の報土へ生るべがらざるなり。      (『註釈版聖典』七四七頁、傍線引用者)

この文を現代語訳すると、次のようになります。

ですから、この身が悪いから、阿弥陀仏が迎え取ってくださるはずがないと思ってはなりません。凡夫はもとより煩悩を身にそなえているのですから、自分は悪いものである知るべきです。また、自らの心が善いから、往生することができるはずだと思ってはなりません。自力のはからいでは、真実の浄土に生れることはできないのです。
(『親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』二一頁、傍線引用者)

この「凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ、往生すべしとおもふべからず」という一連の文は、往生の要因について説きつつ、また人間の本質について言及した深い言葉となっています。
ここで批判されている考え方は、『歎異抄』などでも同様に批判されている「賢善精進」の思想といえます。「賢善精進」とは、善を積みあげ賢くなり精進していくことで、自身の浄土への往生がより引き寄せられていくとする考え方です。生前の行為下善行)と来世での果報との間に一定の相関があると考えます。そのため、それこそが往生の道だと思う人たちは、この世ではできるだけ善い行いをし、多く学問して賢くなり、日々精進してその継続や蓄積による功徳をたのみにしました。これらは確かに重要なことではありますが、法然聖人・親鸞聖人の浄土教の捉え方とは異なった道でした。

仏教における行の歴史

しかし、そもそも仏教の伝統をふりかえると、古くは「七仏通誠偶」に、

諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)

自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

(もろもろの悪を作すこと莫く もろもろの善を奉行し 自ら其の意を浄くす 是がもろもろの仏の教えなり)

とあるように、仏教では善業を行うこと(=衆善奉行)こそが、諸仏が同様に主張されていた道であるとされていました。この考え方は、その後も仏教の伝統において形を変えつつ、繰り返し説かれます。例えば、戒定慧の三学、六波羅蜜の修行、天台宗であれば一念三千の止観行、真言宗であれば三密の行などが、それにあたります。このように、善行や善業を行うことでさとりへのステージを一つひとつ登ると考える伝統が仏教にはありました。
また、この状況は、来世に天へ生まれるというインド社会の一般信者の考え方においても同様でした。この生天思想は、現世と来世の二つの境界をまたぐことを説いていますが、そこにおいて、その二つをつなぐ力となるものとして、生前の善業があると考えられました。この生天思想とある種の影響関係にあるなかで、浄土教の往生の考え方も出てきています。

浄土教における新たな行の展開

仏教のなかで、浄土教(浄土門)では、他の一般仏教(聖道門)のようにこの世界のなかでさとりの段階をあげていくという行ではなく、別種の極楽国土に往生する行というものが新しいテーマとなりました。それは「往生行」といわれますが、その「往生行」においても、阿弥陀仏や極楽浄土と私たちをつなげる行として、古来よりさまざまな善や観法が求められました。経典に説かれる内容に従い、六波羅蜜の修行や布施や寄進を行うことにより、よりよい形で極楽へ往生することも目指されました。
こうして、長い間、浄土教においても善行・善業の蓄積を重視する伝統があったのですが、法然聖人や親鸞聖人の日本浄土教では、従来の道とは異なる往生の業が示されました。
親鸞聖人の考え方は、長い間、それまで伝統としてあった善業の思想(善因楽果の思想)と「往生の行」とを合わせてみていくような考え方と、大きく距離をとることになりました。それは、これまでの自力による善の積みあげを超えた、新しい浄土の行でした。すなわち、先にも触れました『無量寿経』の阿弥陀仏の本願(第十八願)には、

  たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らし。ただ五逆と誹誇正法とをば除く。                       (『註釈版聖典』 一八頁)

とありますが、親鸞聖人が重視されましたのは、その本願に則ったところの念仏と信心であり、他力の信行です。まさに阿弥陀如来によって選択された本願に説かれているままの行を、ただそのままに行う信行であり、自力の蓄積とは根本的に異なった行いということになります。

愚者になりて往生する道

ここで再度、今回のご消息の一文「わがこころよければ、往生すべしとおもふべからず」をふり返り分析しますと、この一節の内実としましては、

わが心よくて
→ そしてその善い心を前提として善行を積み重ね
→ その功徳によって往生する

という順序が見受けられます。親鸞聖人は、そのようなメンタリティー(精神性)全体に対して批判をされていますが、とりわけ、その最初の「わが心善くて」という出発点に問題性を見ておられるようです。
先に引用しました「七仏通誠偶」では、了目ら其の意(心)を浄める(自浄其意)」とありましたが、親鸞聖人は、そもそも自分の心が善くあることはできない、という前提を持っています。果たして、私たちの心は善くある(また、あり続ける)ことができるのでしょうか。親鸞聖人は、そのことについて、生涯自問し続けられました。
親鸞聖人が比叡山の修行での挫折を通し、またその後の人生を通してかみしめられた事実は、「わが心が善くない」という思いであったと考えられます。その思いを普遍化した結果、自己を基点として善行を積みあげていきたいとする考え方を、遠ざけられたのだと考えられます。
『歎異抄』第十三条にも、類似の文言として。

  わがこころのよくてころさぬにはあらず。     (『註釈版聖典』八四三頁)

というI節がみられます。また、その著作の処々において、ご自身の心は「虚仮不
実」(『正像末和讃』)であり、「蛇蝸のごとくなり」(『正像末和讃』)であるともおっしやられており、人間の心というものの不確実性を見定めておられます。
そういう意味では、T心の善き自分というもの」を前提として出発する「行」というものに対して、聖道門の伝統(=自力の行)との決別があったと考えられます。
三月のことば(四三頁)でも触れられていた、法然聖人の最晩年の「一枚起請文」には、

  念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。           (『註釈版聖典』 一四二九頁)

と、念仏を信じる者は「智者のふるまひをせず」とおっしやっておられます。また、親鸞聖人のご消息にも、法然聖人は、

浄土宗の人は愚者になりて往生す    (『親鸞聖人御消息』、『同』七七一頁)

とおっしゃっておられたという記述が見られます。この「愚者になりて往生する道」を
法然聖人から親鸞聖人はいただかれ、人々にも説いていかれたのです。
(佐々木 大悟)

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