2019年表紙のことば 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり

浄土真宗特別の法義

表紙のことばは、もともとは「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」(『日常勤行聖典』 )とい
う漢文を書き下したものです。
「あっ、それなら聞いたことがある」と思われた方も多いでしょう。それもそのはず、日頃、毎日の勤行(ごんぎょう)(お勤め)として親しんでいる「正信褐(しょうしんげ)」のなかの一句です。
毎日の勤行ですから、経本がなくても、スイスイと読める人も多いでしょうね。それはそれで、ありかたいことではありますが、逆に、つい無意識に読み進めてしまい、一句一句に込められた、尊く深いみ教えを充分に味わわずにいるとしたら、とても、もったいないことです。
「正信褐」の一句一句は、どの句にも浄土真宗のみ教えが凝縮されています。そのなかでも、この「不断煩悩得涅槃」は、字数においてたった七文字ですが、それまでの仏教の常識を根底から覆すほどの圧倒的インパクトがあるように思っています。

蓮如上人の「御文章」(信心獲得章(しんじんぎゃくとくしょう))の後半に、いまの「煩悩を断ぜずして涅槃を得」の文を、

  この義(ぎ)は当流一途(とうりゅういちず)の所談(しょだん)なるものなり。     (『註釈版聖典』 一一九項)

と述べられていて、浄土真宗ならではの特別な法義と評されています。

断ち切れない煩悩

その大きな意義を理解していただくために、まずは言葉の意味から見ていきましょう。
もともと「涅槃」という言葉は、サンスクリット語の「ニルヴァーナ」の音写と考えられています。その「ニルヴァーナ」には「吹き消す」という意味があり、煩悩の火が「吹き消された」状態を「涅槃」といいますから、煩悩を断たなければ「涅槃」とはいえないはずです。
そうすると、この標題の一文は間違っているのかというと、決してそうではありません。「煩悩を断ぜずして涅槃を得」とは、先に見たような「状態」についての定義を述べたものではありません。「誰が断つのか」という「王語」を問題とした文章なのです。
私たち凡夫は「煩悩具足」の身であって、自分自身の力で煩悩を断じ滅することはできません。親鸞聖人が、

  「凡夫(ぼんぶ)」といふは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたかこころおほくひまなくして、臨終(りんじゅう)の一念(いちねん)にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず  『二念多念文意』、『註釈版聖典』六九三頁)

と示されるとおりです。
阿弥陀さまは、私たちがそのような身であることを、すでに、よくよくご存じの上で、この凡夫を「必ず救う」と立ち上がられ、無上の誓願をおこしてくださったのです。そして私たちは、この仏力・他力によって、さとりを得ることができるのです。
したがって、私たちの煩悩が迷いの果を引くという力を断ち切ってくださるのは、仏力・他力によるほかはありません。これを衆生の側では、「不断」であると示されているわけです。
つまり、煩悩を断ぜずして「涅槃」はありえませんが、仏力によって断たれ、私たちが断つのではないということを、衆生の側では「不断煩悩」といわれるのです。

不回向のこころ

このことは、「不回向(ふえこう)」の場合と同じです。
念仏が「不回向」の行であることについては、まず法然聖人が明示されておられます。

不回向回向対(ふえこうえこうたい)といふは、正助二行(しょうじょにぎょう)を修(しゅ)するものは、たとひ別に回向(えこう)を用(もち)ゐざれども自然(じねん)に往生(おうじょう)の業(ごう)となる。      (『註釈版聖典(七祖篇)』 一一九七頁)

と『選択集(せんじゃくしゅう)』で述べられるように、諸行は回向によって仏に功徳を振り向ける必要がありますが、念仏は阿弥陀仏が選定された行であるから、その必要がないということです。
親鸞聖人も、もちろん、この義を受けられますが、さらに、

  凡夫回向(ぼんぶえこう)の行にあらず、これ大悲回向(だいひえこう)の行なるがゆゑに不回向(ふえこう)と名づく。
(『註釈版聖典』四七九頁)

として、「大悲回向」だから衆生にとっては「不回向」なのだと、『浄土文類聚紗(じょうどもんるいじゅしょう)』に
示されています。他力が100だから、衆生は0ということです。
阿弥陀さまから回向されたものを、また、こちらが回向する必要などありません。ある年の夏に、ある人から、缶ビールか何か日持ちのいいものが、お中元として送られてきたとしましょう。日持ちがいいからと思って、しばらく物置にしまっておきました。ところが、お歳暮の時期になって「何かしなければ」と思い出し、物置を探してみると、まだ賞味期限内の缶ビールの箱がありました。「これがいい」と思って、「お中元」と書かれた紙をはがし、「お歳暮」と貼り替えてお返しをしたとしたら、先方はどう思うでしょう。「お中元」として差し上げた物がこんな形で返されてきて、気分のいいはずがありません。
私たちも、阿弥陀さまから「回向」された念仏を、もっともらしい顔をして「回向いたします」と返しているとしたら、滑稽の至りというか、阿弥陀さまに失礼な話です。だから「不回向」なのです。

生死大海の船筏

また、親鸞聖人のご和讃に、

無明長夜(むみょうじょうや)の灯俎(とうこ)なり
智眼(ちげん)くらしとかなしむな
生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり
罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ
(『正像末和讃』、『註釈版聖典』六〇六頁)

と詠まれています。
私たちは、長い長い無明の闇のなかを彷徨い続けてきました。そして、闇は闇自身の力で、闇を破ることはできません。光をもってしか、闇を破ることはできないのです。しかし、いかに千年の暗室であっても、一瞬の光で闇は破られます。衆生には智慧の眼がありません(0)から、阿弥陀さまの智慧の光(100)に遇うはかないのです。阿弥陀さまの智慧の光に出遇った者(100)は、いまさら、自らに智慧の眼がないこと(0)を悲しむ必要はありません。
また、私たちは、迷いの大海のなかにあっては、底に沈む方向性しか持ち合わせていません。そのような私たちが彼岸へと渡ることができるのは、ご本願の船に乗せられるからこそです。このときの私の仕事は(0)です。それは、大悲弘誓の船の力が100だからです。
「私は体重がひとの二倍もあるから」といって、船や飛行機が怖くて乗れないということがありますか? 事故は怖いかも知れませんが、体重には関係なく、船も飛行機も普段は安心して乗っています。それは、船や飛行機を信用しているからです。
罪障の重さも、弘誓の船の上ではまったく関係ありません。 かなり前に、北海道のある布教使さんから聞いた話です。その布教使さんが飛行機に乗っかとき、前の座席が新婚さんだったそうです。どうやら新婦は飛行機に乗るのが初めてだったらしく、小さな声ながら、「怖い、怖い」と言っていました。それが出発時刻となり、エンジンが「ゴーツ」と音を立て始めたときに、今まで何とか我慢していた新婦さんが、とうとう泣き出したのです。新郎さんは、その場を何とかしなきゃと思ったのでしょう。とっさのことながら、「僕がいるから大丈夫」と言ったそうです。その布教使さんは、「君がいようがいまいが、落ちるときは落ちるし、落ちないときは落ちない」と思ったそうです。安心の根拠は新郎さんにではなく、飛行機の側にあります。
仏力・他力にまかせることによって、大安心の毎日を送らせていただいているのが、念仏者です。念のために言いますが、阿弥陀仏の本願力には、飛行機と違って、事故や不具合の心配はまったくありません。

他力にまかせる

他力によって煩悩が断ぜられるのですから、「不断煩悩得涅槃」(煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。『註釈版聖典』二〇三頁)といいうるわけです。この法義の成立は、阿弥陀さまの大慈大悲あればこそです。およそ、浄土真宗の法義の根幹は「他力」です。すべてが「他力」のはたらき(100)ですから、私たち衆生の側の自力が入る余地はありません(0)。
最近、いろいろなお店で、ポイントカードなるサービスが行われています。ポイントが貯まったら、景品などの特典が得られる仕組みです。欲深い私は、まんまと乗せられて、いっぱいポイントカードを持つはめになっています。ポイントが満点になったカードに、新たにポイントを加算することはできませんよね。私たちの自力とは、「他力で満点」なのに、まだ何かを加算させようとする無意味な行為です。
(満井 秀城)

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