2020年1月のことば 人も草木も虫も 同じものは一つもない おなじでなくて みな光る

   生い立ち

今月のことばは、榎本栄一さんの著『念仏のうた 光明土』(樹心社)に見られる言葉です。原文は次のようになっています。

   いのちの饗宴
―天上天下唯我独尊-
人も 草木も 虫も
同じものは一つもうまれない
いまうまれたもの
これからうまれるもの
ごらんください
同じやなくて みな光る
白色白光 青色青光                   二七九頁)

「法語カレンダー」の言葉は、一部変えられています。原文の「同じものは一つもうまれない」は「同じものは一つもない」、「同じやなくて みな光る」は「おなじでなくてみな光る」となっています。

「十人十色」という言葉があります。人は、考え・好み・性質などがそれぞれ違うことを意味します。この法語では、さらに人だけでなく、草も木も虫も、すなわち植物や昆虫、さらに動物にまで拡げて、同じものは(うまれ)ないといわれます。
現在も未来も、すべて生きとし生けるものはみな同じでなく、それぞれが光を放つのであるといわれているのです。ここでは『阿弥陀経』の、

  青色青光・黄色黄光・赤色赤光・白色白光
(『日常勤行聖典』 一〇八~一〇九頁)

(青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光あり『註釈版聖典』二三頁)

の四句のなか、上下の二句を選んでいます。極楽浄土の池のなかには、車輪のような大きな蓮華が咲いており、青い華は青い光を、黄色い華は黄色い光を、赤い華は赤い光を、白い華は白い光を放ち、いずれも美しく、その香りは気高く清らかです。
コ切衆生釆万有仏性」(すべて生あるものは、ことごとく仏となる可能性を有している。『涅槃経』)、「草木国土悉皆成仏」(心のあるもののみならず、こころのないものまで、すべてのものが成仏する。『同』)という仏教の言葉があります。人間のみならず、生きとし生けるものに共通するのは、仏性があり仏に成ることができるという意味です。そのうえで、それぞれの個性が発揮されるのです。

榎本栄一さんは、一九〇三(明治三十六)年、徳島県に生まれ、ご両親が大阪市で化粧品店を始められたので、一緒に住んでいました。しかし、一九四五(昭和二十)年三月の大阪大空襲で、家族と一緒に淡路島に逃れました。その後、一九五〇
(昭和二十五)年に、東大阪市で化粧品店を始められました。
榎本さんは、若い頃、詩を書かれていましたが、その後二十数年、詩を書くことを忘れた生活をされていました。しかし六十歳を超えて、本格的に詩を書き出されました。一九七四(昭和四十九)年に、NHKの教育テレビで作品が紹介され、真
宗大谷派難波別院から詩集『群生海』を出版されました。続いて、一九七八(昭和五十三)年に同別院から『煩悩林』を出版し、以後版を重ねられました。また、樹心社からも多数の詩集を出版されました。
そして、一九七九(昭和五十四)年に化粧品店を閉店されました。一九九四(平成六)年には仏教伝道文化賞を受賞され、一九九八(平成十)年に九十四歳で往生されました。
詩集『群生海』や『煩悩林』の難波別院輪番による序には、

   (出版されて以来、)心ある寺の掲示板に、各種の新聞や機関紙に、この詩が紹介され続けてまいりました。そして今では全国から、この詩集の問い合せが来るようになりました。
榎本さんの。詩”というよりも、自分の生活実感を、切々とつぶやいておられる率直な言葉が、人々の心底に強く響くのに違いありません。どの詩にも、さりげなく一息に詩われているのが、深く胸を打ち、汲めども尽せない味わい
を残してくれるものばかりであります。           (( )内引用者)

と絶賛されています。
また、松山市の大山澄太さんは、『群生海』の序で、

この集に納められていた百九十五編の作品は、一九六七(昭和四十二)年一月から最近までの八年間、すべて私のわがままな個人誌「大耕」にのせたものである。無駄な文字が少しもなく、一つ一つ私の心に食いこんできたものばかり。
栄一っつぁんの聞法は、お若い頃から暁高敏先生によって扉が開かれ、(中略)また松原致遠先生の風格にも敬慕し、仏の道をひそかに歓喜してきたような人である。

と述べられています。

悔いのない人生

私は、二〇一一 (平成二十三)年、親鸞聖人七百五十回大遠忌法要を前にして刊
行した拙著『仏恩を報ずる』のなかで、榎本栄一さんの詩を紹介しています。

かすかな余韻

あの人も逝き
この人も亡くなり
遠い山のお寺の鐘のような
かすかな余韻が
私のこころにしみる                  (『常照我』三五頁)

いのちの波

いのちの波は
世々生々の 親から
子へと伝わり
私も この一波となり
うねり光っている
いのちの波のゆくえはしらず              (『同』七〇~七一頁)

「亡き人を案ずる私か亡き人から案じられている」という言葉があります。先立った亡き父母のことを私か想うよりも、何倍も何十倍も、父母の方が私を思ってくれているのです。生命の連鎖(つながり)は、生まれ変わり死に変わりして、親から子へ子から孫へと、綿々と続いています。またさかのぼれば、私の生命は父母から、また父母の生命はそれぞれの祖父母から生まれたのです。二人、四人、八人と数えていくと、七代前で百二十八人、十代前で千二十四人、さらに二十代前で百四万八千百五十七人となり、かぞえられないほどの先祖の生命と私の生命がつながっています。そのなかで一人でも欠けていたならば、いまの私は存在していません。誠に有難い尊い生命です。

したがって、私の人生を無駄に過ごしたり、自分勝手に自他の生命をあやめたりすることは、ばかり知れない多くの先祖を悲しませ、失望させることになります。
また、これから生まれる子や孫、さらにまだ見ぬ子孫への生命の連鎖にも、無責任な生き方、恥すべき行為になってしまいます。先祖が私たちにいちばん望まれていることは、仏法を通して、生命の尊さ、生命の不可思議さ、生命の有難さを学び、
悔いのない人生を歩むことでしょう。

榎本栄一さんの詩

浄土真宗に関わる聖典の普及を目指して、浄土真宗本願寺派総合研究所が編集し本願寺出版社が発行している『季刊せいてん』では、二〇一七(平成二十九)年三月から、毎回、「西の空心に響くことば」と題して、榎本さんの詩を連載しています。

 大きな手

秋のひかりのような
この 大きなてのなかで
私はあそんだり
はたらいたり
お金のかんじょうをしたり
時に頭をうったり     (『群生海』二七頁、『季刊せいてん』第コー○号掲載)

底のひかり

今日まで
生きた甲斐あり

人の世の
底のひかりが
身にしみて
わかるようになった  (『群生海』 一四~一五頁、『季刊せいてん』 コー二号掲載)

未知

あさ起きたら
ここに 私のいちにちが
仄かに開いている
私は未知のいちにちへ
足ふみいれる             (『煩悩林』 一一七頁、『同』 一二三号掲載)

念念光照

私にさとりはございません
弥陀のおひかりに
自分のこのぼんのうが
照らされては
みえるだけ          (『常照我』 一四四~一四五頁、『同』 コニ(号掲載)

つの

私のあたまに
つのがあった
つきあたって

折れて
わかった               (『群生海』 コー四頁、『同』 二一七号掲載)

榎本さんの詩は、「念仏のうた」シリしスとして『難度海』『光明土』『常照我』『無辺光』『尽十方』『無上仏』の六冊が、樹心社によって発行されています。ぜひこの機会にお読みください。
(林 智康)

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