1996(平成8)年2月23日 サンデー下関掲載

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ご存知ですか

広井良図顕彰碑

光明寺(細江町)境内、石段を登ったすぐ左手に一基の碑があります。風化で碑文が読みずらくなっていますが、明治初期の下関教育界に大きい足跡を残した広井良図の顕彰碑です。

良図は、文政十年(1827)に清末藩士広井良弼の子として上小月に生まれ、名は初め少吉、字が子重、硯湾・赤水・進修斎などと写しました。

清末藩の儒者で私塾「柳渓精舎」の主宰者広井良徳の孫に当たり、父の早逝で祖父に薫陶を受けて育ちますが、幼児より明敏で、十歳のとき萩に出て藩校明倫館に学び、十四歳で早くも明倫館舎長となります。

修学を終え、小月村の柳渓精舎で子弟教育に当たりますが、二十歳のときから十数年、美濃・安芸などを巡って遊学。元治元年(1864)藩命により江戸に出て国事周旋に務めますが、政変の渦中に巻き込まれて幕府方に拘囚され、二年後ようやくに放免されて帰藩します。以後、清末藩校育英館の舎頭を務め、維新後は藩の権大参事として藩政にも参画。明治五年(1872)新しい学制施工で小月小学校開校に際し初代校長に迎えられました。

校長在任一年。その後、光明寺の地に私塾「硯湾学舎」を開設。さらに明治十年(1877)から二年間は赤間関市庁に出仕し教育行政に尽しました。

そして明治十七年(1880)から十七年間は私塾のかたわら赤間関商業学校(現下商)や豊浦・山口・徳山の各県立中学校(現高校)で教鞭をとり、晩年は田中町に漢学の塾を開いて余生を送り、明治三十六年(1903)八月、七十七歳で没しますが、「業を翠うもの前後三千」と言われています。

光明寺境内の碑は、明治三十八年(1905)十月、教え子や関係者によって建立されたものです。

文・写真 清永 唯夫

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