2001(平成13)年11月23日 サンデー下関掲載

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ご存知ですか

崩壊寸前の顕彰碑

ここ数年、下関の街には記念碑や文学碑が次々に建てられて道行く人びとを和ませている。新しいところでは、今夏、赤間神宮前の公園で除幕した「朝鮮通信使上陸た淹留之地」碑があり、来春には『くじらさんありがとう』と刻んだ「感謝碑」も建立の予定だという。かつて私自身も、山陽本線の車窓からよく見える旧彦島上水の丘に「平家最期の砦」、下関中央病院の一郭に「大洋球団発祥地」などの碑を建てたいと幾つかの紙面に書き、細江町の石ぶみ郡は私の散策場所の一つでもある。

 

ところがその一方で「手厚い保護を」と訴える石ぶみもあちこちに点在していることを忘れてはならぬ。

 

たとえば大歳神社の「七卿烈士潜寓画碑」は、幕末の急進派公卿七人の「都落ち」で知られる画碑だが風化が激しく、このままでは何年ももたないだろう。

 

そして今、最も危険なのが下関最大の甍を持つ光明寺境内の「広井良図顕彰碑」だ。これもまたかなり風化していて碑文は読みづらいが、それよりも崩壊寸前で、いつ事故が起きてもおかしくない状態。写真に見るとおり、上部は既に欠け落ちて、その下の中ほどには三ヶ所、鉄線による補修が施されたものの完全ではなく、何かの拍子に崩れるのではないかと、寺院や境内の保育園関係者は日夜、心を痛めている。建てられっぱなしの石碑を勝手に処分するわけにいかないからだ。

 

これに関して何とかならないものかと、いろいろ当たってみたが、今のところラチがあかない。

 

小月小学校、下関商業、豊浦中学校、山口中学、徳山中学(現高校)や私塾・硯湾学舎などで学んだ人びとによって明治38年(1905)に建てられたこの顕彰碑にも、新しい石ぶみ設置と同じ温かさで手をさしのべて欲しいとの願い切である。どなたか光明寺の石ぶみを救ってください、と。

 

文・都美多ギコ 写真・富田義弘

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