延徳年中(1489~92)に、京都 本願寺の八代目 蓮如上人の弟子となった、常陸の国の釈正善が、長門国に下って、大永年間(1521~28)に豊浦郡西市に堂を建てたことに始まるとされています。
その後、内日、幡生へと移転して、九代目の月印和尚まで相続し、享保17年(1732)に現在地に移転しました。
幕末には、松下村塾で高杉晋作とともに双璧と言われた、久坂玄瑞が中心となって結成した有志隊が寄宿していました。
有志隊は、長州に亡命していた公卿中山忠光を総帥に戴き、光明寺を本営としていたことから、「光明寺党」と呼ばれていました。
文久3年(1863)5月には、この光明寺党が壇之浦砲台に向い、庚申丸からアメリカの商船ペンブローク号に向けて、馬関攘夷戦の第1弾を放ちました(亀山砲台跡参照)。
後の奇兵隊の核となったのも、この光明寺党でした。
当寺の開基は釈正善。俗名吉本主税之助真増である。常陸の国の住人で結城の人、平重充の孫である。
延徳年中に上杉の兵乱の時分に、関東より泉州堺の善教寺へ趣き、滞在した。
その折り、蓮如上人の門弟となり、御真筆の名号壱幅を下附された。
その後、善教寺にて剃髪し、住職釋正意より法名釋正善を授かる。
このとき、系図一巻、太刀(延国)一腰、善教寺に収める。
善教寺の門徒、防州岩国に有りそのご縁で赴く。以後、旧豊浦郡豊田町上殿敷、菊川町吉賀、内井町音無(おとなし)に滞在する。
大永年中に幡生村にまかりこす。
大永2年(1522)
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幡生に一宇を建立
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同年 3月18日
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実如上人より、判形の本尊と文章壱帳申し請ける
二代明海、三代教祐、四代教願、五代教善と住庵す
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元和9年(1623)8月27日
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四代教願のとき、准如上人より、本仏、寺号頂戴申し請ける
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寛文年中(1661~1673)
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六代善長のとき、四幅の絵讃宝物を申し請ける
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天和元年(1615)
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七代義海のとき、官位地免許状壱通賜る
八代海雲、住庵す。
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享保14年(1729)4月9日
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九代月印のとき、豊浦藩の許可を得て細江町に享保17年(1732)4月9日、移転する
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享保19年(1734)9月2日
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十代?川のとき、瑞泉寺様御染筆の浄土観無量寿経壱幅と御奥書を授かる
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安永3年(1774)11月
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十一代義澄のとき、現在の本堂が落慶する
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文政11年(1828)7月11日
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十三代浄眼、本願寺勧学職を授かる
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文久3年(1864)4月27日
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十五代霊洞のとき、「光明寺党」結成
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昭和10年(1935)
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十七代道雄のとき、本堂屋根瓦修理、山門落慶する
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昭和20年(1945)6月29日
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十八代晃雄のとき、焼夷弾の空襲に遭う。
本堂の屋根に「大穴」が開き、しばらくトタン板で凌ぐ。
山門と鐘楼が焼失する。
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昭和43年(1968)
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十九代三朗のとき、庫裡新築。
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平成8年(1996)
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二十代哲朗のとき、60年ぶりに本堂屋根等の改修工事。
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平成10年(1998)11月3日
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二十代哲朗のとき、蓮如上人500回遠忌、本堂修復落慶、継職法要巌修。
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