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本堂

延徳年中(1489~92)に、京都本願寺の8代目 蓮如上人の弟子となった常陸の国の釈正善が、長門国に下って、大永年(1521~28)に豊浦郡西市に堂を建て、その後、内日、幡生へと移転して、安永3年(1774)に現在地の本堂が建てられました。


書院

客間。お寺で法事をする時の控え室またはおとき(食事)の場所としても活用されています。おときをされる場合の収容人数の目安:20~30人。


庫裡( くり )

寺の事務を扱う寺務所でもあり、住職の居住区でもあります。1階は住宅(寺務所)・ロビー、2階は15畳二間の大広間としても活用されています。


ひかりホール

門信徒会館(旧ひかり保育園園舎)。仏事(法要等)をフローリング・椅子席で出来ます。冷暖房完備。50人収容可。


廣井良図顕彰碑

明治初期の初等教育に大きな影響を与えた廣井良図が明治初年に“硯湾学舎”という私塾を光明寺に開いたことから明治38年(1905)10月に彼の教え子や関係者によって建てられました。


慰霊塔

昭和7年(1932)、大洋漁業の関係者によって建てられたもので、大洋漁業関係者千余人を合祀したものです。『慰霊塔』の字は大洋漁業初代社長で創始者の中部幾次郎が書いたものです。以前は春と秋の彼岸には毎年供養祭が行われていました。


奇兵隊士の墓


墓地の一角に『奇兵隊士伊東・・・墓』と書かれた墓が佇んでいます。


増富竹応居士記念碑

明治3年(1870)に入江湾の埋め立てが行われた際、大きな功績を残した増富竹応の記念碑。明治38年(1905)8月に有志の人々により光明寺墓地の右奥の一段と高い所に建てられました。碑に刻まれた文章は文学博士の前田彗雪、字は野積馬渓。


光明寺党の刀痕

維新志士久坂玄端は各地の浪人を引き連れ、奇兵隊の母体となった光明寺党をこの地で結成しました。本堂の柱に付けられた刀痕はその意気盛んな浪士によってつけられたものです。

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合同墓地

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