2011年11月 心を弘誓の仏地に樹て念を難思の法海に流す 法語カレンダー解説

慶ばしいかな

     

 今月の言葉は、『教行信証』後序で、親鸞聖人ご自身が感慨をもって述べられるところです。その前後の文を含めてみると、次のとおりです。

  

慶ばしいかな、心を弘誓(ぐぜい)の仏地に樹(た)て、念(おもい)を難思の法海に流す。深く如来の衿哀(こうあい)を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜(きょうき)いよいよ至り、至孝いよいよ重し。

 (『註釈版聖典』四七三頁)

   

 ここで注目したいことは、最初に「慶ばしいかな」とあり、後に「慶喜いよいよ至り」とあることです。私たちは、ただ一度の人生をうれしいことや楽しいことによって、喜びいっぱいにしたいと願っています。そのためには、財力も必要であるし、また出世もその条件と考えます。しかし、はたしてそれらを手中にしても本当に喜べることになるでしょうか。これについて『仏説無量寿経』には、

   

 貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変りがなく、あれこれと嘆き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。

(『浄土三部経(現代語版)』九六頁)

   

とありますように、人生にはつねに憂い、悩みがともなうことを教えています。そのような人生において、有無にとらわれずに喜べることを聖人は表明されていると、今月の言葉を受けとめたいのです。この箇所を分かりやすく言い換えると、

   

 まことによろこばしいことである。心を本願の大地にうちたて、思いを不可思議の大海に流す。深く如来の慈悲のおこころを知り、まことに師の厚いご恩を仰ぐ。よろこびの思いはいよいよ増し、敬いの思いはますます深まっていく。

(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』六四五頁)

となります。

   

 ところで、浄土真宗の教えにもとづいて生活するお互いのたしなみは、如来の本願を仰ぐ<ようこそ>の思いにあります。親鸞聖人は、この<ようこそ>の思いを「哉」をもって表現されることがあります。『教行信証』において「慶ばしいかな(慶哉)」としめされるこの箇所が、その一例です。他方、「悲しきかな(悲哉)」(信文類 『註釈版聖典』二六六頁)をも、合わせ受けとめなければなりません。端的に言えば、慶哉とは「うれしや」という歓喜のこころであり、悲哉とは「はずかしや」と口にする慚愧のこころです。ここでの「悲しきかな」とは、如来の智慧の光明に照らしだされて、煩悩に明け暮れるばかりの私であることに気づかされることです。人間の根本に我執があり、そのゆえに他の人びとの欠点はよく見えるが、自分の欠点にはなかなか気づけません。ここに自己主張ばかりに力が入り、反省さえも十分になされず、自己弁護に終始することになります。現在の世相は、このあたりに基づいているのではありませんか。親鸞聖人が示される「悲しきかな」は真実の信心をめぐまれたうえでのことですから、単に悲しいのではなくて、そこにはあふれでる喜びがあるのです。したがって、「慶ばしいかな」と別にすることはできないのです。

   

 これまでは、まず今月の言葉の前後に記述される部分に目をかけてきましたが、文章としての構成からすると、『教行信証』制作にいたる心持ちを明らかにされる一段で、そのなかで、「心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」の言葉は『大唐西域記』の「心を仏地に樹て、情を法海に流す」(『大正新修大蔵経』史伝部三・八八七頁・原漢文)に依っていると思われます。この書は、中国・明代にできた小説『西遊記』に登場する三蔵法師のモデルとみられる、唐代の僧玄奘(げんじょう)が著わしたインド旅行記で、それには七世紀前半のインドとその周辺、そして西域の国々のようす、とりわけ仏教事情が詳しく紹介されています。そこで、親鸞聖人も強い関心をもって、この
本を手にされたことでしょう。

   

人生の浮生なる相

   

 この辺ですこし話題を変えて、思いを巡らせてみます。人生は無常であることを衝撃をともなって感じるのが、家族や親族また親しい人との死別です。何であれ、この世の区切りとなる別れの儀式をするなかで、とくに浄土真宗はそこに大切な意義があることを強調しています。それは、死をただ別離としてあきらめるのではなくて、この悲しみによって、私か阿弥陀如来の願いとそのはたらきに遇うことのできる機会を与えられた、と受けとめることです。しかし、現実は葬儀という形式によって進行し、弔問者の対応に追われて、じっくり法話に耳を傾けることができません。しかし、そのような状況のもとでも、拝読される蓮如上人の『御文章』のなかの「白骨の章」は、圧倒的な影響力をもち続けてきました。それには相応の理由があります。まず文章が練れていて平易であるので、聴きやすく頭に入ります。さらに、全文の大半が仏教の
基本となる、無常の理の一色で埋め尽くされています。宗教の有無、また宗派を超えて、葬儀においては適切な伝道の教材として大切にされてきました。ところが、環境の急激な変化が、私たちの無常感をも徐々に薄めてきているように思えます。

   

 ここで、「白骨の章」の文面に目をむけることにします。その最初に、

    

  それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそほかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳(まんざい)の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。

 (第五帖第十六通 『註釈版聖典』 一二〇三頁)

   

と、以下に続きます。この部分の意味は難しくないので、大筋は理解できることでしょう。一応文にそって言えば次の通りです。

   

   さて、人間の定まりないありさまをよくよく考えてみますと、およそはかないものとは、この世の始めから終りまでまぼろしのような一生涯であります。ですから、人が一万年生きたということを聞いたことがありません。一生は過ぎやすいものです。

  

 私も今、この文と合わせて、〈少年老い易く学成り難し〉の誠めが頭から離れません。『御文章』は本来手紙ですから、制作時にはなかったのですが、後には題名をつけて親しまれることになります。多くの人びとに知られている「聖人一流章」や「末代無智章」など、他にも『御文章』の冒頭の文を題名とする例がいくつもありますが、この「白骨の章」においては、もっとも強調されている、

ただ白骨(はっこつ)のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。

 (『註釈版聖典』 一二〇四頁)

  

から取っているようです。

 

 ここでは、「人間の浮生なる相」から始まります。私は、この表現について考えています。これは前掲の文で明らかなように、「人間の定まりないありさま」ということですが、浮生とは文字通りにみると浮いて生きているとなり、浮草を連想します。浮草のような人生とは、水上にあって、その根は水底の大地にはとどいていません。したがって、川面においては水の流れのままに漂ってながされていくのです。あるいは、水面を吹き通る風におされて止まることができません。このように浮生なる者の寄り集まるところが、浮世と言えましょう。

   

 処世術を心得た人を〈世渡りがうまい〉と言うことがありますが、信心の人とたとえられる妙好人(みょうこうにん)は、その多くが世間一般の尺度で測るところの世渡りのうまい人ではありません。いや、かえって処世術を心得た人との間に真意がくみ取れずに、誤解が生ずることもありました。しかし、それらの妙好人たちはまさに、「心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」生き方を、身をもってしめしてくれています。阿弥陀如来の本願を大地にたとえ、そこにしっかり根をはってたくましく成長してゆるぎない大樹となるように、本願を信じるままになにをもってしても砕かれることのない金剛心がめぐまれるのです。それは、つねに如来におもいをかけ、ますます本願をたのもしく仰ぐことになります。『浄土和讃』の最初に、

   

    弥陀の名号となへつつ
    信心まことにうるひとは
    憶念(おくねん)の心つねにして
    仏恩(ぶっとん)報ずるおもひあり

 (『注釈版聖典』五五五頁)
 

と詠われる心に通じています。

  

弥陀の本願海

   

 「難思の法海」の言葉には、また親鸞聖人の特別の感慨がうかがえます。それは「海」についてです。私もまた山よりも海に惹かれます。それも、夏の喧騒が過ぎ去った後の、秋から冬の海が好きです。折々に聖人の御跡を慕って旅をしますが、かつての越後へのご流罪の道中において、国境の難所を小船に乗って居多ヶ浜(こたがはま)に上陸された、と伝えられています。そして約七年間、海とともに生活されたことを考えると、それまでの三十五年間の人生が海から遠く離れた所でのものだったので、急激な環境の変化と言えます。越後での生活を通して、親鸞聖人は海に強い感動を受けられたに違いありません。低くたれこめる暗雲と荒れ狂う鉛色の海。またときとして穏やかで、優しさをたたえる鏡のような海。そして、どれほど濁った河川の水をも受け入れて澄ませるはたらきをもつ、たのもしく光りかがやく海。聖人の著述には海の表現がきわめて多いことに気づかれることでしょう。

   

 また、その使用例においても内容はさまざまです。しかし、『教行信証』行文類「一乗海釈」にでてくる海の解釈については知っておきたいところです。そこでは、

   

   海に入ればあらゆる水が同じ塩水に変わるように、弥陀の本願海には、凡夫も聖者も、五逆謗法の人でも一味の徳に転じられる。(中略)さらに海は死骸をたもたず、浮かばせ、浜辺にうちあげてしまうように〈死骸は自力の心をさす〉、本願の海には自力の心をもっては入ることができず、その心が取り除かれて、受け入れられる。

(『註釈版聖典』 一九七頁、参照)

と説かれています。よく味わいたいところです。

(清岡隆文)

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