2012年8月 信心のひとは その心 すでにつねに 浄土に居す 法語カレンダー解説

信心の人

 

今月の言葉は、『親鸞聖人御消息』第十一通の終わりに出てきます。親鸞聖人は「信心の人」を「真の仏弟子」と称されますが、それは、その身は娑婆世界・穢土(えど)にありながらも、「浄土(の教え)」を根拠・畢竟依(ひっきょうえ)として人生を歩んでいる人だからとお考えだからです。この消息では、その「真の仏弟子」が、仏教の修道上、どのような境位を得ているかについて簡明に説明されています。

まず、前半から後半にかけては、次のように述べられています。

 

信心をえたるひとは、かならず正定聚(しょうじょうじゅ)の位に住するがゆゑに等正覚(とうしょうがく)の位と申すなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には等正覚と説きたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は、補処(ふしょ)の弥勒とおなじ位なり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆゑに、弥勒とおなじと説きたまへり。

 

さて『大経』(下)には、「次如弥勒」とは申すなり。弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならひは申すなり。しかれば、弥勒におなじ位なれば、正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。弥勒はすでに無上覚にその心定まりてあるべきにならせたまふによりて、三会(さんね)のあかつきと申すなり。浄土真実のひとも、このこころをこころうべきなり。

(『註釈版聖典』七五八~七五九頁)

 

信心の人が現生において「正定聚」「等正覚」の位に入り、「弥勒とおなじ位」に至っていることを示され、「如来とひとし」とも表現されています。正定聚・等正覚とは、「仏に成るべき身となる」(『弥陀如来名号徳』『註釈版聖典』七二九頁)ことをいいます。阿弥陀さまの真実のはたらきに目覚めた人は、この世界で仏そのものに成ることができたわけではないが、如来のはたらきによって間違いなく仏に成ることが決定せしめられるというのです。それを、親鸞聖人はお釈迦さまの意を承けて、その位を「弥勒菩薩と同じ」「如来と等しい」といわれるのです。

 

『御消息』は、帰洛された親鸞聖人が関東の門弟宛てに認(したた)められたもので、四十三通残されています。その第十二、十三通においても「如来とひとし」ということについて言及されています。おそらくは、さまざまな念仏の受け止め方が存在した関東において、真宗念仏に生きる人びとの尊厳性に関わる何らかの問題が生じ、それに対して聖人がお答えになる必要があったものと考えられています。すなわち、信心を得て生活を送る人は如来と等しい徳を身に得ていることを明らかにして、真宗念仏を相続することの意義深さを強調されたのだと思います。

 

 

「おなじ」と「ひとし」

 

しかしながら、親鸞聖人はこれを即身成仏義と誤解されないよう、慎重に言葉を使っておられます。辞書では、「おなじ」と「ひとし」はほぼ同義で扱われています。しかし、聖人の著述の上では、原則的に意味を区別して使われています。お釈迦さまは、信心の人を「如来(仏)とひとし」と説かれていますが、聖人はそれを、「仏のような人」であると解釈されています。菩薩は次の生で仏に成る位にあるけれども、仏そのものではありません。聖人は、信心の人は「娑婆(しゃば)の縁尽きて・・かの土(浄土)へはまゐる」(『歎異抄』第九条『註釈版聖典』八三七頁)ことは間違いなく、「臨終一念の夕、大般涅槃(だいはつねはん)を超証(ちょうしょう)す」(『教行信証』「信文類」『同』二六四頁)るけれども、今は仏そのものではないと示されます。その区別をつけるために、信心の人は、立場上、菩薩とは同一であるといえるけれども、如来・仏と比べる時は、決して「おなじ」ではなく、未だ仏には成っていない(「ひとし」)という言い方をされています。二つの言葉に、そのような意味の違いを見ておられるのです。

 

仏であるお釈迦さまのまなざしには信心の人にはたらく仏心が観取されて、それで「仏と同じ」という意味でおっしゃったのかも知れません。それは、唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)の知見の上のお言葉といえます。しかし、如来のはたらきによって救われる側にはそう解釈しきれない事情がありました。

 

相矛盾する心

 

阿弥陀さまの本願のはたらき・仏心をいただくとは、「真如一実の功徳宝海」(『教行信証』「行文類」『註釈版聖典』 一四一頁)を、お覚りの心そのものを、いただくことであります。信心の人は「あさましき不浄造悪の身」(『親鸞聖人御消息』『同』七五八頁)でありながら、阿弥陀さまのはたらきによって真実の心で満たされ、如来と同体に成ることができるのです。それはまた、

 

しらず、もとめざるに、功徳の大宝その身にみちみつがゆゑに、大宝海とたとへたるなり。

(『一念多念文意』『註釈版聖典』六九二頁)

といわれるように、私たちの側に何か功績があってそうした境位に入るのではなく、如来のはたらきによって知らず求めずに恵まれるものなのです。阿弥陀さまは、私たちのことを真実の心で満たしてくださっています。しかしながら、親鸞聖人はその人を指して「仏と同じ人」とはいえなかったのです。さらにいうと、それは真実に出遇ったからこそ、気づかされる白身の姿への目覚めゆえにいえなかったのです。

 

浄土真宗に帰すれども

真実の心はありがたし

虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて

清浄(しょうじょう)の心もさらになし

(『正像末和讃』『註釈版聖典』六一七頁)

 

浄土真宗のみ教えに帰依しましたけれども、真実の心になることはありません。

うそ・偽りのわたしには、清浄の心などあるはずもありません。

 

鏡に照らしてわが身を見ることができるように、如来の真実のはたらきを身に受けたからこそ、わが身の不真実に目覚めざるを得なかったのです。如来の本願真実は、「この身こそあさましき不浄造悪の身」であるという苦悩の存在であるという気づきを通して出遇うことができる性質のものでありながら、その真実に出遇い信心が恵まれるがゆえに、また「虚仮不実」と吐露せざるを得ない深い自覚が生ぜしめられるのです。これが、「仏と同じ」と解釈できなかった理由だといえます。そして、その自覚は本願に出遇う前の自覚とは質的に大きな違いがあります。いわゆる「二種深信」の文には、

 

自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(中略)かの阿弥陀仏の、四十八願(しじゅうはちがん)は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。

(『註釈版聖典(七祖篇)』四五七頁)

 

とあります。ここには、本願真実に出遇ったことにより、いっそう悲愴感・絶望感が深まったというよりも、死ぬまで煩悩(罪業)から離れられない「ありのままの自己の姿・本性」に出遇うことができたという深い懺悔と、阿弥陀さまとともにありのままの自分を引き受けて生きていけるという喜びが語られています。このような一見相反する気持ちが交差し、ひとつの心の上に現れているのが浄土真宗の信心の特色ともいえます。

 

 

浄土に居す

 

親鸞聖人は、光明寺の和尚(善導大師)の『般舟讃』の文を解釈して、

 

「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と釈したまへり。「居す」といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたりといふこころなり。これ弥勒とおなじといふことを申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心のひとは如来とひとしと申すこころなり。

(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七五九頁)

 

と述べられています。

 

このように、消息の終わりに示された今月の言葉も、この身は娑婆世界にあって煩悩具足の身であることは変わらないけれども、阿弥陀さまのはたらきに満たされ、覚り(浄土)の教えを依りどころとして人生を生き抜いていく身となった、ということを述べておられるのです。

 

慶(よろこ)ばしいかな、心を弘誓(ぐせい)の仏地に樹(た)て、念(おもい)を難思(なんじ)の法海に流す。

(『教行信証』後序『同』四七三頁)

 

聖人の著述の諸所に、確かな依りどころを得て生きていくことのできる慶びが豊かな表現で表されています。

(河智義邦)

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