2012年10月 信心よろこぶそのひとを如来とひとしとときたもう 法語カレンダー解説

 

底ぬけに人を信じる

 

六十を超える仏教教団の協力のもと、青少年の豊かな生活と未来を願って、一九六二(昭和三七)年に結成された、全国青少年教化協議会という財団法人があります。

 

主に、仏教子ども会や日曜学校の推進を目的としています。

 

その全国青少年教化協議会の定めた青少年が実践すべき徳目として、「わたしたちのねがい」という名で六つの項目が掲げられています。その第一番目に、「底ぬけに人を信ずる人間となろう」というものがあります。私がこの言葉に出会ったのは四十五年ほど前です。龍谷大学に入学して宗教教育部というサークルに所属し、京都市内の本願寺派寺院の日曜学校のお手伝いを始めた頃です。

 

底ぬけに人を信じることなどできるだろうか。それが、この言葉を聞いて感じた率直な思いでした。そのような自分ではできないことを、日曜学校の子どもたちへ伝えることができるだろうか。深く考えれば考えるほど難しくなっていきました。この場合の人とは、自分以外の人間のことだろうか。それとも自分を含めてのことだろうか。いったい、人間の何を信じるのだろうか。そして思い出しだのが、太宰治の『走れメロス』という小説でした。この小説では、人間を信じられない王に人を信じることの大切さを知らしめた青年、メロスという名の主人公の行動と心情がテーマとなっていました。

 

メロスは、王を批判して処刑されることになりますが、かねて念願であった妹の結婚式を済ませてからという許しを、王からもらいます。ただし、それは三日間の猶予であり、それを過ぎると、彼の身代わりに親友が処刑されるという恐ろしい約束でありました。そして、故郷で妹を結婚させ、刻限ぎりぎりに困難を乗り越えて処刑場へ到着し、友の命を救うのです。その間、メロスはたびたび友を裏切る心を抱き、友もまた、メロスを疑う心を抱くのでした。

 

小説では、幸いなことにメロスは友を救えますが、現実ではどうなるかわかりません。人間の心ほど変わりやすくもろいものはなく、また約束を果たそうとしても、周りの状況が許さない、そのようなものです。それでも「底ぬけに人を信じる人間となろう」ということが、先の徳目です。この疑問を抱きつつ、私はその後、龍谷大学で仏教を学んでまいりました。

 

 

菩薩行としての徳目

 

そして、後年、この徳目は菩薩行のことであったと知らされたのです。この徳目が実践できるのは菩薩だけなのです。なぜならば、信じるという行いは信じられる根拠があって初めて成り立つものであり、菩薩は人間を信じることができる根拠をお持ちになっているからです。

 

菩薩は、人間の何を信じられる根拠とされるのでしょうか。

 

菩薩行の中心は利他行であります。衆生を苦しみから救うことこそが、その行の中心です。この行は、人は必ず救われるものであると信じることなくしてはなし得ません。人が救われるとは、煩悩のない仏となることであります。煩悩がなくなれば苦しみもなくなる。それが仏になるということであって、人間であれば誰にでも可能なことです。これこそが信じるに足る根拠であります。だからこそ、菩薩は私たちの想像を超えた、長い時間をご修行されるのです。「底ぬけに人を信じる人間になろう」という徳目は、菩薩を鑑にして自身を考えてみようということなのでありましょう。

 

人間は、菩薩を鑑にしてみると実に愚かなものであり、他人のみならず、自分さえも信じることのできない、まさに煩悩具足の凡夫であります。その愚かな私たちのために菩薩はご修行くだされるのです。特に、法蔵菩薩はすべての衆生を救うために五劫(ごこう)という長い時間お考えくださり、不可思議兆載永劫(ふかしぎちょうさいようごう)のご修行をなさって、阿弥陀如来となってくださいました。それは、すべての人を必ず仏にするためのご修行でした。法蔵菩薩は、私たち凡夫に底ぬけに信じる心などないことはすでにお見通しです。

そこで、自力の信心がいかに不確かなものであるかを知らせてくださり、如来となって南無阿弥陀仏の他力金剛の信心を施してくださるのであります。この信心は、煩悩具足の私が必ず浄土へ往生し仏とならせていただけることが間違いないと、知らされたことであります。その心は、私にとって何ものにも比べることのできない大きな喜びであります。それを「信心よろこぶ」(『註釈版聖典』五七三頁)と、親鸞聖人は『浄土和讃』に詠われました。「そのひと」(『同』)を「如来とひとし」(『同』)とお釈迦さまは教えてくださいます。これが法語の内容ですが、お釈迦さまは、他力の信心を賜った人をなぜ如来と等しいと仰せになったのでしょうか。

 

如来とひとし

 

親鸞聖人は、『御消息』第三十二通でお弟子の浄信房に宛てて、次のように記されました。

 

まことの信心をえたる人は、すでに仏に成らせたまふべき御身となりておはしますゆゑに、「如来とひとしき人」と『経』(華厳経・人法界品)に説かれ候ふなり。

(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七九四頁)

 

このように、「如来とひとし」ということは『華厳経』という経典に説かれているとお教えくださいます。『華厳経』は、今の私たちにはあまり馴染みがないようです。しかし、親鸞聖人ご在世の頃は、『華厳経』を根本経典とする華厳宗の東大寺が大きな力をもっていました。その有力寺院の華厳宗の根本経典に、この言葉が説かれているのです。それがどれほどの確証になることでしょうか。改めて申すまでもないことでありましょう。

 

続けて、親鸞聖人は記されます。

 

 弥勒はいまだ仏に成りたまはねども、このたびかならずかならず仏に成りたまふべきによりて、弥勒をばすでに弥勒仏と申し候ふなり。その定に、真実信心をえたる人をば、如来とひとしと仰せられて候ふなり。

(『同』七九四頁)

 

かつて、私は台湾で布袋(ほてい)さまの大仏を見ました。日本で布袋さまといえば、七福神のお一人に数えられますが、七福神のなかでは唯一実在した人物です。十世紀に中国で弥勒菩薩の化身として尊ばれた禅僧です。名を契此(かいし)といい、大きな体でいつも財貨の入った袋を担いでいたと伝えられますが、弥勒の化身という信仰から中国では弥勒仏として安置されることが多く、台湾の大仏も弥勒仏として作られたものでした。この弥勒仏は、今はまだ仏ではなく菩薩なのですが、五十六億七千万年の後に仏として私たちの世界に誕生し、お釈迦さまの救いに漏れた人びとを済度してくださるというのです。つまり、未来に必ず如来になることが決まっていますから、今は菩薩であっても弥勒仏と呼ばれるのだということです。それと同様に、私たちも必ず浄土で如来になることが決まっているので、お釈迦さまが「如来とひとし」と仰せになったということであります。

 

思えば、私たちの世界に必ず成ることなどありましょうか。明日のことさえ不確かです。そもそも、自身の命さえどうなるかわからないのです。必ず成ることをあげてみると、私も世界も刻々と変化するということがありましょう。いわば、諸行無常という道理こそが必ず成るということです。加えて、私の行いを考えてみますと、行くべき道は苦しみの世界です。これも必ず成ることであります。

 

それに対し、如来・仏は常住であり、浄土は変わることがないのです。その常住の如来が私たちを必ず浄土へ迎えてくだざるのが、他力念仏の教えです。無常な人間が必ずと言ったのではなく、常往な如来が必ずとおっしゃったのであります。だからこそ、私が如来に成ることが確実なのです。そこで、「如来とひとし」という頼もしいお言葉を頂戴することができたのです。本願他力、南無阿弥陀仏のお救いがなければ苦しみの世界しか行きようがない私です。その私が必ず仏にさせていただけるのです。今の世界で、私にとってのこれ以上の喜びはありません。

 

 

真実の喜び

 

親鸞聖人は、この喜びを『教行信証』「総序」に、次のようにお記しになられました。ともに深く味わいたいと思います。

ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。如来の本願の何とまことであることか。摂(おさ)め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。世に超えてたぐいまれな正しい法である。この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。

(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』五頁)

(北塔光昇)

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