2012年11月  弥陀の誓願は 無明長夜の おおきなる ともしびなり 法語カレンダー解説

「灯炬」という言葉

 

 

今月の法語は、親鸞聖人が法然聖人のもとで学ばれた際、兄弟子として他力念仏を勧めてくださった、聖覚法印(せいかくほういん)の残された言葉によるものです。親鸞聖人は、聖覚法印の書かれたものを非常に大切にされ、法印の『唯信鈔』に註釈をされました。『唯信鈔文意』がそれですが、今のお言葉は『唯信鈔文意』ではなく、『尊号真像銘文』にあるものです。この言葉を用いて和讃も作られています。

 

無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり
智眼(ちげん)くらしとかなしむな
生死大海(しょうじたいかい)の船筏(せんばつ)なり
罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ

(『註釈版聖典』六〇六頁)

 

本願は無明の良い夜を照らし出寸灯ですから、私たちは、智慧がないと悲しむことはいりません。本願は迷いの大海を乗り切る救いの船ですから、罪が重いと嘆かなくてもよいのです。

 

 

親鸞聖人は『正像末和讃』にこのように詠われますが、聖人ご真筆のこの和讃の「灯炬」の文字の左側には、

 

常のともしびを灯といふ。大きなるともしびを炬といふ

(『註釈版聖典』六〇七頁)

 

と説明があります。「ともしび」とは、灯された火ということです。誰かが点火しなければ、けっしてありえない明かりのことです。

 

 

闇を歩く

 

数年前のことです。珍しい経験をしました。

 

たまたま、九州・福岡市の市内を歩いていたのですが、日本に真言宗を初めて伝えられた弘法大師ゆかりのご寺院の前を通りかかったのです。東長寺といいます。

一九九二(平成四)年に完成した、釈迦如来の日本一大きな檜造りの坐像が、安置されていました。そこで、そのお釈迦さまのお像にお礼をし、すぐに帰ろうとしたとゝころ、坐像前で参拝者のお世話をなさっていた女性が、「大仏さまの下には地獄・極楽巡りがありますから、ぜひご覧になってください」と、私に勧めるのです。せっかく勧められるのですから無視もできず、拝観してからと思い入り口を尋ねますと、「大仏さまに向かって左側に階段がありますから、降りて行ってください。やがて、地獄が見えてきます。その地獄を抜けると暗闇になりますが、そのまま進んで行くと出口になります」と教えてくださいました。

細い階段でしたのでゆっくり降りてまいりますと、七高僧のお一人である源信和尚の『往生要集』に基づいて作られたと思われる地獄絵図が、左側の壁面にちょうど水族館の水槽のような状態で展示されていました。地獄の亡者が獄卒(ごくそつ)からさまざまな責め苦を受けているのです。非常にリアルにできています。見ていて、けっして気持ちのよいものではありません。

それらの地獄絵図が終わると、突然通路が真っ暗闇になったのです。平らな通路から入ったのであればあまり心配もしなかったのですが、階段を降りてきたのです。また突然、階段があるかもしれません。それがどこから始まるのか…。下へ行くのか、上に行くのか…。漆黒の闇とはこのようにまったく何も見えないものかと、改めて思ったことです。とにかく前へ進むしかありません。それまでは薄暗くとも明かりがありましたので、ゆっくりではありましたが前を確かめる必要がありませんでした。しかし、まったく光がないと、足を出すにも一センチずつ一センチずつ…。壁に手を添えて危険がないかを確かめつつ、進まなければならないのです。だんだんと時間の感覚がなくなってきました。

そのように進んで、やがてどれくらい時間が経ったのでしょうか。右足の爪先が階段にぶつかりました。徐々に足を持ち上げ、階段のあることを確かめました。この階段も何段あるかわからない階段です。一段ごとに爪先で探りながら上っていきます。

段数など数える余裕もありませんでしたが、曲がりくねった階段が終わりに近づいたころでしょうか、少しずつ明るくなってまいりました。上りきったフロアーの壁面に小さな阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊像のレリーフが奉懸(ほうけん)され、その近くが出口になっていました。ほっとして外に出ましたが、出口はちょうどお釈迦さまに向かって右側下で、案内してくださった女性のそばでした。心配して腕時計を見ると、十五分も経っていないようでした。

真っ暗闇でまったく先がわからない状態では、わずかの距離を進むのに時間がかかるのはもちろんですが、不安ばかりであると時間がどれほど経ったのかもわからなくなるものだということを、初めて経験したようなことです。

 

 

闇を導く灯

 

私たちの人生も似たようなことではないでしょうか。行き先がわかっているような気で生きてはいますが、一寸先は闇なのです。それを真剣に考えることなく生きています。しかし、仏の教えを聞かせていただくと、まさに一寸先が闇であることに気づかされます。これでは先行き不安でたまりません。誰か信用のおける方に導いていただくか、明かりを点けていただくか、またはその両方をしていただければ、安心して
先に進むことができます。幸いにも、東長寺の地獄・極楽巡りの通路では「出口があります」という女性の言葉がありました。

人生においてはどうでしょうか。実は、仏の教えは一寸先が闇であると知らせるのが目的ではないのです。仏の教えは、一寸先が闇であるのは白身の煩悩のためであることを知らせてくださり、安楽清浄な真実の世界に導いてくださるためのものなのです。それこそが、他力念仏の教えであり、「南無阿弥陀仏」の弥陀の喚び声であり、先を照らし導いてくださる大きな灯となってくださるものなのであります。だからこそ、私たち他力信心をいただくものは、煩悩具足であろうとも、しっかりと人の世を歩んでいけるのです。

 

親鸞聖人は、

 

弥陀(みだ)の誓願(せいがん)は無明長夜(むみょうじょうや)のおほきなるともしびなり。

(『註釈版聖典』六七〇頁)

 

のお言葉に続けて、次に聖覚法印の銘文を説明なさいます。

 

「生死大海之大船筏也豊煩業障重(しょうじだいしだいせんばつやきぼんごつしょうじゅう)」といふは、弥陀(みだ)の願力(がんりき)は生死大海(しょうじだいかい)のおほきなる船・筏(いかだ)なり。極悪深重(ごくあくじんじゅう)の身なりとなげくべがらずとのたまへるなり。

(『註釈版聖典』六七〇頁)

 

こうして、本願他力を船に喩えられます。また、龍樹菩薩を讃嘆なさった和讃にも、

 

生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ
のせてかならずわたしける

(『高僧和讃』『註釈版聖典』五七九頁)

 

迷いの世界には限りがなく海のようなものです。その海に長く沈んでいる私たちを、阿弥陀さまの本願の船だけが、救いあげて必ず対岸であるお浄土まで渡してくだざるのです。

 

と、同じ喩えをもって阿弥陀さまのお救いを示してくださいます。

 

 

本願の船

 

 

現代は、親鸞聖人の頃に比べてずいぶんと便利になりました。私は北海道に住んでいますが、家を出てから五、六時間もあれば、京都のご本山へお参りすることができます。ただし、私の場合は近くに飛行場があり、航空機を利用するから可能なのです。ところが、飛行機は一度搭乗しますと、降りたいと思っても途中で降りることができません。そして、航空法がありますから勝手なこともできません。乗ったが最期、着陸するまで機長任せです。便利ではありますが、まったく貴方任せの状態です。一応、目的地に到着するだろうとは思っていよすが、確実ではありません。ところが、「弥陀弘誓の船」は、一度乗ると「必ず渡す」と示されているのです。ここが大切なところです。一度乗ると降りたいという心も起こらず、安心の内に浄土へと往生させていただけるのです。誠にありかたいことです。

この本願力の船に乗せていただいた私たちの歩みを、本願寺第二十四代即如(そくにょ)ご門主が、「浄土真宗の教章(私の歩む道)」で次のようにお示しくださいました。

 

阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化(きょうけ)する。

本願の船に乗せていただくというのは、あくまでも喩えであります。阿弥陀さまの本願他力によって真実信心をめぐまれることを乗船に喩えたのです。真実信心は、教えを聞かせていただくことによって、賜るのであります。この賜った信心が往生浄土の正因であり、私はお陰さまと念仏申して力強く人生を歩ませていただくばかりなのであります。

 

加えて、ご門主さまは浄土で仏になることがどのようなことであるのかということを、お示しになられました。それが、「迷いの世に還って人びとを教化する」というお言葉です。迷いの世とは、この世のことです。浄土へ往生された方は、仏となるや煩悩具足の私たちのためにこの世に還って、他力念仏を伝えてくださるのであります。仏になるということは、すべての人びとを救う方になるということであります。

親鸞聖人は、法然聖人を、浄土から粟粒が散っているような小さな日本列島に他力念仏を伝えにきてくださった方であると思し召され、次の和讃をお作りになられました。

 

粟散片州(ぞくさんへんしゅう)に誕生(たんじょう)して
念仏宗(ねんぶつしゅう)をひろめしむ
衆生化度(しゅじょうけど)のためにとて
この土にたびたびきたらしむ

(『高僧和讃』『註釈版聖典』五九八頁)

 

法然聖人は粟粒のようなアジアの端の目本にお生まれになり、念仏の教えを広められました。衆生を教化し救うために、何度となくこの地にこられました。

 

深く味わいたいと思います。

(北塔光昇)

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