2012年12月 いよいよ 大悲大願はたのもしく 往生は 決定と存知候え 法語カレンダー解説

親鸞聖人の説諭

 

今月の法語は、『歎異抄』のなかに記された親鸞聖人のお言葉より頂戴しています。

『歎異抄』は、親鸞聖人のお弟子である唯円房(ゆいえんぼう)が書かれたものとするのが一般的な説ですので、「いよいよ大悲大願(だいひだいがん)はたのもしく、往生は決定(けつじょう)と存じ候へ」(第九条『註釈版聖典』八三七頁)と説諭された相手ば唯円房であろうと思われます。『歎異抄(現代語版)』では、

 

大いなる慈悲の心でおこされた本願はますますたのもしく、往生は間違いないと思います。

(一六頁)

と意訳されています。

いったい、唯円房は聖人にどのようなことを言われたのでしょうか。同じ意訳を読んでみましょう。

 

念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、また少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってこないのは、どのように考えたらよいのでしょうか

(『同』一四頁)

 

この問いに対し、親鸞聖人はお答えなさいます。

 

おどりあがるほど大喜びするはずのことが喜べないから、ますます往生は間違いないと思うのです。喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは、煩悩のしわざなのです。そうしたわたしどもであることを、阿弥陀仏ははじめから知っておられて、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫であると仰せになっているのですから、本願はこのようなわたしどものために、大いなる慈悲の心をおこされたのだなあと気づかされ、ますますたのもしく思われるのです。

(『同』一五頁)

 

このように、浄土に往生することが決まっているのに喜べないのは煩悩のせいであると、聖人はおっしゃいます。

 

 

慶喜と歓喜

 
そもそも、親鸞聖人ほど喜びについてお考えだった方はあまりおられないように思います。時に、喜びを「慶喜」と「歓喜」とに分けておられます。

まず、『唯信鈔文意』に、

信心をうるを慶喜(きょうき)といふなり。(中略)慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり。喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ。うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。

(『註釈版聖典』七二一頁)

と「慶喜」をご説明になり、そして、『一念多念文意』には、

 

「歓喜」(かんぎ)といふは、「歓」(かん)は身をよろこばしむるなり、「喜」(き)はこころによろこばしむるなり。うべきことをえてんずとかねてさきよりよろこぶこころなり。

(『同』六七八頁)

 

と「歓喜」をご説明されます。

 

整理してみますと、「慶喜」は必ず往生できる身に定まったことを喜ぶのであり、「歓喜」は必ず往生できることを待っている喜びであります。

卑近な例で申し訳ないのですが、たとえば、私か学校や会社に入るために受験をしたとします。それで念願の合格をしますと、私の心には、入学や入社できることに対する喜びが湧くことでしょう。先の「慶喜」は、入られることが決まった喜びであります。そして、「歓喜」は、入って学生や社員になることを待っている喜びであります。

さて、このような喜びの説明は卑近な例ですからイメージが湧きますが、浄土の仏になるということは凡夫の身ではイメージが湧きません。なぜかといえば、学生も社員も私たちの世界で目の当たりにすることができるからです。なりたいと思っている人がそばにいるのです。なれると決まったら喜びもひとしおでありましょう。また、はやくなりたいと待っている喜びもありましょう。しかし、仏になることは…、どうもイメージが湧きません。それは自身が煩悩のある身ですから、煩悩のない身をイメージすることができないのです。

 

 

清浄の身と煩悩の身

 

煩悩のない身とはどのような身なのでしょうか。もちろん、煩悩がないのですから智慧の身ということができます。

しかし、智慧の身といわれても智慧のない身にはわかるはずもありません。そこで、親鸞聖人が他にどのように示してくださったのかを考えてみたいと思います。

このたびの親鸞聖人七百五十回大遠忌法要のために、「宗祖讃仰作法」という作法が制定されました。この作法は、親鸞聖人の和讃を十八首用いて作られています。その最後、回向文に相当する箇所の和讃に、次の一首が選ばれています。

 

南無阿弥陀仏をとけるには
衆善海水(しゅぜんかいすい)のごとくなり
かの清浄(しょうじょう)の善身(ぜんみ)にえたり
ひとしく衆生(しゅじょう)に回向(えこう)せん

(『註釈版聖典』五九九頁)

南無阿弥陀仏のみ教えが説かれるところには、すべての善が海水のように満ちています。念仏の清浄の善を身に得たならば、同じようにその功徳を他の衆生にも施しましょう。

 

『高僧和讃』の結びの和讃ですが、ここに仏になるとは清浄の善を身に得ることであると示されています。考えてみますと、阿弥陀さまには多くの別名があります。そのなかで清浄と付くお名前の多いことは、七高僧のお一人、曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』にも「清浄光(しょうじょうこう)・清浄大摂受(しょうじょうだいしょうじゅ)・清浄楽(しょうじょうがく)・清浄薫(しょうじょうくん)・清浄人(しょうじょうにん)」(『浄土和讃』『註釈版聖典』五五六頁、参照)と多く挙げられることから、知ることができます。

 

煩悩のない身とは、阿弥陀さま同様の清浄な身なのであります。ただし、私たち凡夫の世界で清浄というと、健康に害のない清潔なことの意味で用いられることが多いのですが、そのような意味ではありません。具体的には自己中心的な欲望がまったくないことであります。

 

昨年、日本は未曾有の災害に襲われました。東日本大震災であります。多くの方がたがお亡くなりになられ、また、避難を余儀なくさせられました。復興にどれほどの時間と経費が必要になるのかと世界中の人びとが心配をし、日本各地はもちろんのこと、外国からも多くの義損金が寄せられました。本当にありかたく尊いことであります。

 

しかし、その寄付をなさった方すべてが、自身の立場を忘れてまったくの無私の心から寄付をされていた、と言い切れるでしょうか。「誰それがいくら寄付をしたが、足りないのではないか」とか、「寄付の仕方が悪いのではないのか」とか、善意からの行為にもかかわらず、批判や意見が寄せられることがありました。

 

それらの批判的な報道に接する時、私も内心複雑な思いをいだきました。なぜならば、わずかばかりしか寄付をしていない私が、どのように使われるのだろうか、本当に被災者に届くのであろうか、と余計な心配をしていました。

いや何よりも、自分の生活に影響の及ばない範囲での浅ましい心での寄付でありました。誠にお恥ずかしいことです。煩悩具足の私のすることであります。

 

この自己中心的な欲望に支配される私のような心を、仏教では貪欲といい、瞋恚・愚痴とともに、三毒の煩悩の一つに数えます。この貪欲があるかぎり、人間には苦しみがついてまわるのです。そこで、阿弥陀さまはこの浅ましい心を取り除き幸せな心にさせてやろうと、凡夫を浄土で仏にしてくださるのです。その仏の身を清浄な身と申すのです。

 

大悲大願の心

 

汚穢不浄(おえふじょう)な身を清浄な身にさせようというのが、阿弥陀さまの本願のお心であります。これこそが大きなお慈悲の心であります。この心より「南無阿弥陀仏」の名号が私にはたらいてくださるのであります。

親鸞聖人は『弥陀如来名号徳』に、このはたらきを次のようにお示しくださいます。

 

つぎに清浄光(しょうじょうこう)と申すは、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)、貪欲(とんよく)のこころなくして得たまへるひかりなり。貪欲といふに二つあり。一つには婬貪(いんとん)、二つには財貪(ざいとん)なり。この二つの貪欲のこころなくして得たまへるひかりなり。よろづの有情(うじょう)の汚機不浄を除かんための御ひかりなり。婬欲・財欲の罪を除きはらはんがためなり。このゆゑに清浄光と申すなり。

(『註釈版聖典』七二八~七二九頁)

 

自己中心的な欲望を除くことのできない私であります。また、その欲望を本心から否定もできない私であります。そのような愚かな、浅ましい私をかねてご存知であるからこそ本願をお建てになったのが、阿弥陀さまです。法語に、「いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ」と親鸞聖人のお言葉が掲げられていますが、ますますありかたく、このお言葉を頂戴させていただくようなことであります。

まことに頼もしく、ありかたい聖人の仰せでありました。

(北塔光昇)

あとがき

親鸞聖人ご誕生八百年・立教開宗七百五十年のご法要を迎えた一九七三(昭和四十八)年に、真宗教団連合の伝道活動の一つとして「法語カレンダー」は誕生しました。門信徒の方がたが浄土真宗のご法義をよろこび、お念仏を申す日々を送っていただく縁となるようにという願いのもとに、ご住職方をはじめ各寺院のみなさまに頒布普及のご尽力をいただいたお陰で、現在では国内で発行されるカレンダーの代表的な位置を占めるようになりました。その結果、門信徒の方がたの生活の糧となる「こころのカレンダー」として、ご愛用いただいております。

それとともに、法語カレンダーの法語のこころを詳しく知りたい、法語について深く味わう手引き書が欲しいという、ご要望をたくさんお寄せいただきました。本願寺出版社ではそのご要望にお応えして、一九八〇(昭和五十五)年版から、このカレンダーの法語法話集『月々のことば』を刊行し、年々ご好評をいただいております。今回で第三十三集をかぞえることになりました。

真宗教団連合各派において、二〇一一(平成二十三)~二〇一二(平成二十四)年と親鸞聖人七百五十回大遠忌を迎えますことから、聖人のいただかれた聖典のお言葉を中心に法語が取りあげられることになり、特に二〇一二(平成二十四)年には、親鸞聖人が書かれた「正信偈」や和語のご聖教を中心に、ご門徒にとっても身近な法語が選定されました。この法語をテーマにして、四人の方に法話を分担執筆していただき、本書を編集いたしました。繰り返し読んでいただき、み教えを味わっていただく法味愛楽の書としてお届けいたします。

本書を縁として、カレンダーの法語を味わい、ご家族や周りの方がたにお念仏のよろこびを伝える機縁としていただき、また、研修会などのテキストとしても幅広くご活用ください。

二〇一一 (平成二十三)年八月

本願寺出版社

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