2012年7月 生死のうみにうかみつつ有情をよぼうてのせたもう 法語カレンダー解説

観音・勢至の二菩薩

 

この法語は、親鸞聖人が『正像末和讃』に

弥陀(みだ)・観音(かんのん)・大勢至(だいせいし)
大願(だいがん)のふねに乗(じょう)じてぞ
生死(しょうじ)のうみにうかみつつ
有情(うじょう)をよばうてのせたまふ

(『註釈版聖典』六〇九頁)

 

阿弥陀仏・観音菩薩・勢至菩薩の三尊は、大悲の船(本願の船)に乗り込んで、生死の海に浮かびながら、有情(衆生)を喚びつづけ救い取ってくださいます。

 

と詠まれたなかに出てくる言葉です。和讃のなかには、この一首のように、観音・勢至の両菩薩が登場するものがいくつかあります。その一つが、『浄土和讃』のなかの次の一首です。

観音(かんのん)・勢至(せいし)もろともに
慈光世界(じこうせかい)を照曜(しょうよう)し
有縁(うえん)を度(ど)してしばらくも
休息(くそく)あることなかりけり

(『同』五五万頁)

 

観音・勢至二菩薩は、そろって慈悲の光明によって世界を照らし、縁のある衆生を救済して、しかもしばらくも休むことがありません。

 

阿弥陀如来と観音勢至の二菩薩は、古来「弥陀三尊」と呼ばれ、三尊形式では阿弥陀如来を中心に脇侍(きょうじ)として左側に観音菩薩、右側に勢至菩薩が立っておられて、それぞれ阿弥陀如来の慈悲と智慧のはたらきを象徴しています。

 

説明が相前後しますが、「智慧」とは、自己中心的な思いを交えず、すべてのものを分けへだてなく照らし見るという心を、「慈悲」とは、すべてのものを慈しみあわれんで救おうとする心のことをいいます。両者は別々のものではなく「覚り」の内実・二側面であって、真の智慧は自ずから慈悲としてはたらき、真の慈悲のはたらきは智慧を根拠として行われます。それはまた、「智慧の光明」「慈光」といったように、ともに光明と譬喩されます。『浄土和讃』では、二菩薩がともに慈悲の光明によって娑婆世界を照らされて、衆生を救済されることが示されています。

 

また、この和讃の前二首には、浄土に生まれた無数の菩薩たちが功徳を修め、穢国に戻って衆生を教化し、「弥陀の本願」に帰依せしめられることが詠われています。

 

観音・勢至の二菩薩は、特に菩薩からの上首とされ、阿弥陀さまの救済活動の手伝いを休むことなく行われているのです。親鸞聖人が、聖徳太子の上に観音菩薩のはたらきを、法然聖人の上に勢至菩薩のはたらきの具現相を見ておられたことは、よく知られているところです。

 

 

観音菩薩の御利益

 

このうち、観音菩薩は、阿弥陀如来の一脇侍という立場とは趣を異にする、独白の側面を持ち合わせています。日本では、『観音経』に基づき平安時代に成立したとい われる西国三十三力所の観音霊場巡りや、病気治し・災難の身代わり・厄除けなど、各地に伝わるいわゆる「御利益信仰・民間信仰」の対象となっている、単独での「観音信仰」が有名です。こうした独白の信仰が生まれ広まったのも、観音菩薩の慈悲的性格によるものと思われます。しかしながら、少々むずかしいことを申すようで恐縮ですが、そうした信仰と浄土教思想における阿弥陀如来の脇侍としての観音菩薩とは一線を引き、交通整理をしておくことが大切であろうと思います。

 

すべての人の覚りの実現を目指す大乗仏教(浄土真宗もその一つです)には、膨大な数の経典があり、そこに説かれる表現法や実践法などもバラエテイに富んでいます。

 

そのため同じ仏・菩薩であっても、経論釈によって意義付けが異なり、人びとの受け入れ方や関わり方(信仰形態)も、時代性や地域色を帯びています。

 

阿弥陀さまの浄土へ往生させていただく教えを聞信していくにあたっては、親鸞聖人が『無量寿経』等を根拠として解釈されたように、観音・勢至の二菩薩は無数の菩薩とともに、人間の欲望充足を目的とする御利益信仰を勧める聖者(しょうじゃ)ではなく、果てしない欲に振り回されて生きる衆生を、煩悩を超えた領域に生きる阿弥陀如来の本願に帰依せしめるという、いわば真の仏教的御利益を与えるために活動をされている聖者と受け止めることが大事かと思います。

 

すなわち、浄土真宗においては、二菩薩が仕えておられる弥陀一仏を念ずることが肝要で、帰するところ南無阿弥陀仏の念仏の教えをいただいて往生浄上させていただくことが、何よりもありがたい御利益といえるのです。

 

 

やわらかいこころ

 

その三尊が、遠い彼岸からではなく、大悲の船に乗って生死の海に浮かび、私たちを覚りへと導こうとされる姿が讃えられているのが、初めの和讃です。それは、さきほど触れましたように、私(たち)が日々の生活のなかで我欲から離れることができず、「智慧・慈悲」と真逆な心で自損損他(じそんそんた)して生きていることを心配されたからに違いありません。また、迷信など根拠のない言い伝えや信仰にとらわれている姿も、大きな心配事であると思います。その心は三毒の煩悩ともいかれ、存覚(ぞんかく)上人は、

 

貪欲(どんよく)を生じ瞑恚(しんに)をおこすことも、そのみなもとをいへば、みな愚痴よりいでたり。

(『顕名紗(けんみょうしょう)』『真宗聖教全書』第三巻、三二六頁)

 

と述べられています。

 

人間は、自分の都合に合わせて、無ければないで有ればあったで、際限なくものを欲し満足を得ず(貪欲)、欲が妨げられたり、自分の思うようにいかなかったりすると、怒り、ねたみ、言葉や行動で他者を排除しようとする性分を持っていて(瞋恚)、それらはすべて愚痴から生まれたものと示されます。愚痴とは、自己(自我)中心的な頑なな心で世界を捉え生きている「凡夫」の姿を指します。

 

この凡夫の姿を「セトモノ」(瀬戸物)と表現した人がいます。書家・詩人であった相田みつをさんです。

 

セトモノと
セトモノと
ぶつかりッこすると
すぐこわれちゃう
どっちか
やわらかければ
だいじょうぶ
やわらかいこころを
もちましょう
そういうわたしは
いつもセトモノ

(『生きていてよかった』五四頁、角川文庫)

「やわからかいこころ」とは、自分をセトモノと自覚する心のことだと思います。

私も何ら偉そうなことを言えたものではないのですが、日頃の人間関係でぶつかり合い感情が乱れると、ついついその原因を自分以外に求めようとしてしまいます。しかし、ご縁に導かれた結果かどうかはなはだ自信はありませんが、近頃は以前よりは少し冷静に事態を見つめ、対処できるようになった気でいます。

 

大願の船に乗らせていただいても、私の煩悩が消えるわけではありません(いつもセトモノ)。しかしながら、常にセトモノ(煩悩具足の凡夫)と自覚せしめられる世界(やわらかいこころ)をいただいていることは、凡夫の仏道にとって極めて大事なことで、そこには緊張感とともに安心感があります。

 

二菩薩は、またそうした念仏者に常に寄り添ってくださっています。

 

南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)をとなふれば
観音(かんのん)・勢至(せいし)はもろともに
恒沙塵数(ごうじゃじんじゅ)の菩薩(ぼさつ)と
かげのごとくに身にそへり

(『註釈版聖典』五七五頁)

 

「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまの御名を称えると、観音菩薩や勢至菩薩がともに、他の砂や塵ほどの無数の菩薩方と一緒になって、その称える人を添い護ってくださいます。

 

(河智義邦)

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