2013年4月 念仏もうすところに立ち上がっていく力があたえられる 法語カレンダー解説

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「『なんまんだぶ、なんまんだぶ』とお念仏申すところに、亡くなっただんなさんはいつも一緒にいてくださいますよ」。この一言で救われた方がいらっしゃいます。本願寺の聞法(もんぽう)会館で行われる「門徒推進員中央教修」で、何年か前に出会った六十代の女性です。

 

門徒推進員の養成を目的として行われる中央教修は、現在、一年間に八回ほど開催されており、三泊四日の日程で、毎回の定員が五十名ほどです。朝早くから夜遅くまで、かなりきつい時間割ですが、それだけに終了後の懇親会の場で受講者の皆さんが見せてくれる笑顔は格別です。先はどの女性は、教修の最初に行われる班ごとの話し合いのなかで自己紹介をしながら、白身のお念仏との出遇いを、次のように教えてくださいました。

 

「私は、数年前に夫を亡くしました。辛くて切なくて、どうしようもなくて、ずっと泣いていました。夫のいない生活など考えられませんでした。そんな折り、住職さんがこう言ってくださったんです。『なんまんだぶ、なんまんだぶ』とお念仏申すところに、亡くなっただんなさんはいつも一緒にいてくださいますよ、と。住職さんのその一言が、なぜか胸にすーっとしみこんでいったんです。そして、ものすごく気持ちが楽になったんです」と、その女性は笑顔で語ってくださいました。

 

そして、そのようなことをいう浄土真宗とはどんな教えなんだろうという疑問が湧いてきて、住職さんに相談したところ、「連研」という研修会の受講を勧められたとのことでした。地元の組の連研を二年間受講して修了し、その後、中央教修にご縁をいただきました。

 

中央教修の四日間、この方は終始笑顔で受講していらっしゃいました。浄土真宗のみ教えに出遇えたことを、心の底からよろこんでおられるといった様子でした。夫との別れは、どうしようもなく辛くて哀しいことでしたが、そのことがご縁となって、阿弥陀さまの温かいお慈悲に出遇えてよかったと、背中が語っているように思えました。教修が終わり、しばらくしてお便りをいただき、そこにはみ教えに出遇えたことのよろこびと、今後もみ教えを依りどころとして生きていきたい旨がしたためてありました。なんまんだぶが大きな力になるということを、その姿でしっかりと示してくださった方でした。

 

 

安心しなさい

また、昨年、あるお葬式でこんなことがありました。連絡をいただいて、私はすぐに臨終のお勤めに向かいました。亡くなった方は八十代後半の女性で、自宅で一人暮らしをされており、近所に嫁いだ娘さんが常に顔を出して、身の回りのお世話をしておられました。私は、その女性の自宅に着いて、すぐに仏間に通されました。八畳ほどの部屋にお仏壇があり、そこにご遺体が横たわっていました。お灯明をともしお線香を焚いて、お勤めの準備をしていましたら、お仏壇の脇の柱に和紙が貼ってあり、そこに文章が書かれているのが目に入りました。

 

「安心しなさい、ひきうけた。いつでもどこでも見ているよ。知っているよ、まもっているよ」。私はパッと見て、瞬間的に「ああ、すてきな言葉だなあ」と思いました。そして、「なんまんだぶの意味そのものじゃないか」と感じました。その和紙の色あせ方や傷み具合からして、かなり前のものだろうとは思いましたが、十九年前のものだとお聞きしました。その言葉は、十九年前にその女性の夫が亡くなった時に、近所に住む、やはりこれも門徒推進員の男性が、「きっと寂しい思いをされていることだろう」ということで、持ってきてくださったものだそうです。その推進員さんが自分で作られた言葉なのか、どこかからの引用なのかはわかりませんが、励ましの言葉として届けてくださったものだということです。

 

その女性は、毎日、仏間で寝起きをされていたそうです。いただいたたった一枚の和紙も、せっかく持ってきてもらったものだから一応もらっておくといった程度のものなら、すぐにどこかに紛れてなくなってしまうと思います。しかし、お仏壇の隣の柱にきちんと貼ってあるということは、その言葉を自身の依りどころとして、毎日噛みしめておられたのではないかと思われます。

 

「安心しなさい」とはご心配するな」ということですが、ご心配するな」と言われても、心配せずにおれないのが私たちです。心配でどうしようもなく、じたばたするのが私たちの常です。しかし、同じじたばたするにしても、阿弥陀さまのはたらきをいただき、安心してじたばたできる人生が、そこに開かれてくるのではないでしょうか。

 

「いつでも、どこでもみているよ」とは、私たちが、いつ、どこにいても、阿弥陀さまと一緒であるということであり、こちらが寝ていても忘れていても、必ず阿弥陀さまは、この私にかかりきりになっていてくださるということでしょう。「知っているよ、まもっているよ」とは、私たちの本性や私たちが抱えているたくさんの荷物を阿弥陀さまはすべてお見通しで、救われる可能性が一切ないこの私だからこそ放っておけないで、また、「あなたの悲しみは私の悲しみですよ。あなたのよろこびは私のよろこびですよ」と、常に喚びかけてくださるということだと昧わっています。

 

 

障りを乗り越えていく道

『歎異抄』という書物のなかに、私たちの宗祖親鸞聖人のお言葉として、「念仏者は無礙(むげ)の一道(いちどう)なり」(『註釈版聖典』八三六頁)とあります。「念仏者は、何ものにも妨げられない、ただ一筋の道を歩むものです」という意味になります。「無礙」という言葉が出てきますが、その「礙」という字は、「障り」とか「妨げるもの」という意味ですので、「無礙の一道」とは、「何ものにも妨げられない一筋の道」ということになります。障りのないのが「無礙」ですから、障りのあるのは「有礙(うげ)」でしょう。親鸞聖人のおっしやる「無礙」とは、「有礙」か「無礙」かという二者択一の「無礙」ではなく、「有礙」が「有礙」のまんま「無礙」となっていく世界を表してくださっているのです。「障り」のあるまんまが「障り」のない状態になっていく。つまり、「ある」か「ない」今ではなく、「障り」を乗り越えていく道を教えていてくだざるのだと思います。

 

 

死と向き合う

もう十年以上前のことですが、五十九歳でガンで亡くなっていかれた門徒推進員の男性が思い起こされます。この方は、連れ合いさんとともに、夫婦二人で飯山組(いいやまそ)の「連研」に参加して二年間研修を受け、その後、本願寺の中央教修にご縁をいただかれ、門徒推進員となられました。京都から帰ってこられたお二人は、すぐに寺に報告にみえて、「とにかく行ってきてよかった、本当によかった。ありかたいご縁だったし、多くの仲間かできてとてもうれしかった」と、笑顔でそのよろこびを伝えてくださいました。そして、お二人とも五十代半ばで門徒推進員となられ、今後の教化活動の核になってくださるものと、住職として大いに期待していました。ところが数年経ってから、この方がガンで亡くなってしまいました。

 

夫の葬儀の後、連れ合いさんは何回も寺を訪れて、さますまなことを涙とともに話してくださいました。夫のことを話し始めると、すぐに涙があふれてきます。涙をぬぐいながら、入院中のこと、夫婦の会話、告知の場面、そして、死に臨む時のことなとを話してくださいました。最初の入院は地元の総合病院でした。この時点ですでにガンであることがわかっていましたが、本人には知らされませんでした。隠しておくことの辛さ、嘘をつくことの哀しさ、そして嘘の上に嘘を重ねることの切なさを、切々と訴えてくださいました。しばらく地元の病院での入院生活か続きましたが、そのうちに病院を替わることになりました。

 

一時間ほど離れた町の病院に転院し、治療を受けることになりました。転院してから、本人は疑いを持ちます。「おれ、ガンじゃねえのか」と本人が尋ねます。「父ちゃん、何言ってんの。ガンであるわけないでしょう」と連れ合いさんが答えます。このようなやりとりも何回かあり、とても辛かったそうです。転院からしばらくして、この方が人院しているということがやっと私の耳に入り、それまでまったく知らなかった私は、慌てて坊守とともに病院に急ぎました。個室の病室には、ご夫婦でいらっしゃいました。私たちの顔を見ると、お二人ともたいへんよろこんでくださり、「よく来てくれた、よく来てくれた」と、笑顔で迎えてくださいました。すでに車いすの生活になっており、「こんなに細くなっちゃった」と言って、私に足を見せてくださいました。この時点ですでに告知がなされていました。

 

告知の場面に話が及ぶと連れ合いさんの目から、ひときわ大粒の涙がこぼれます。担当の医師の部屋に夫婦二人で呼ばれ、静かな口調ではっきりと告知がなされました。部屋を出て病室仁戻る時、病院の長い廊下を二人は無言のまま歩いて行きます。その時、連れ合いさんの頭にあったのは、「病室に入って二人きりになったら、夫はどれだけ取り乱すだろうか。その時、私はどうすればいいだろうか」ということでした。病室に戻ってから、二人はなかなか言葉が出ず、無言の時間が流れていきます。連れ合いさんが、思い切って言葉を出します。「父ちゃん、しょうがないやねえ」と。夫は特に取り乱した様子もなく、「おれ、やっぱりガンだったんか。しょうがねえやなあ」と答えたそうです。そして、二人で決めました。残された目々を精一杯生き抜いていこうと。

 

遂に臨終の場面となります。夫は医師や看護師の手を握り、絞り出すような声で「ありがとう」と言い、そして最後の力を振り絞って連れ合いさんを抱きしめて、「ありがとう」と言われて、息を引きとっていかれたそうです。

 

連れ合いさんによると、連研、中央教修を通じてみ教えと出遇えたことが、夫の大きな依りどころとなっていたそうです。葬儀から半年ほど経った頃、「やっと泣かないで、父ちゃんの話ができるようになりました」という言葉を、聞くことができました。

 

私たちの阿弥陀さまは、「いま、ここ、この私に」はたらきかけていてくださいます。「なんまんだぶ」となり、私に届いてくださっています。お念仏申す人生とは、阿弥陀さまと一緒に歩む一筋の道であるといただいています。

(井上慶真)

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