2016年1月 十二のひかり放ちては あまたの国を照らします 法語カレンダー解説

hougo201601

一月の法語は「和訳正信偈」の第四首前半の二句です。

 

「正信偈」は、親鸞聖人がその結びに「六十行すでに畢(おわ)りぬ。 一百二十句なり」(『註釈版聖典』二〇七頁)といわれているように、二句一行で一詩頌となっていますが、「和訳正信偈」では、インドの讃歌の形式に従って四句で一詩頌となっていて、全三十詩頌、一百二十句と数えられます。一月の法語は、その数え方によって第四首の前半二句ということになり、次の二月の法語にその後半二句が選ばれています。

 

その法語は、標題の通り、

 

十二のひかり放ちては あまたの国を照らします

 

と詠われます。

 

 

十二のひかり

 

「十二のひかり」とは、「正信偈」に阿弥陀さまのはたらきが十二の光で示され、その大いなるはたらきを称讃するとともに、すべての生きとし生けるものがこの光に照らされる……と、阿弥陀さまのおはたらきに出遇っている慶びが詠われます。

 

「正信偈」では、次のように詠われる一節です。

 

普放無量無辺光(ふほうむりょうむへんこう)
無碍無対光炎王(むげむたいこうえんのう)
清浄歓喜智慧光(しょうじょうかんぎちえこう)
不断難思無称光(ふだんなんじむしょうこう)
超日月光照塵刹(ちょうにちがっこうしょうじんせつ)

 

あまねく無量(むりょう)〔光〕・無辺光(むへんこう)、無礙(むげ)〔光〕・無対(むたい)〔光〕・光炎王(こうえんのう)、清浄(しょうじょう)〔光〕・歓喜(かんぎ)〔光〕・智慧光(ちえこう)・不断(ふだん)〔光〕・難思(なんじ)〔光〕・無称光(むしょうこう)、超日月光(ちょうにちがっこう)を放ちて塵刹(じんせつ)を照(て)らす。

(『註釈版聖典』二〇三頁)

 

現代語版では、

 

本願を成就された仏は、無量光・無辺光・無 光・無対光・光炎王・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光とたたえられる光明を放って、広くすべての国々を照らし、・・・・・

 

とあり、「阿弥陀さまは十二の光を放っておられる」と詠って、そのはたらきを讃えられるのです。

 

さらにそのもとをたどりますと、『無量寿経』阿弥陀さまの別名として「十二光」が説かれ、阿弥陀さまの大いなるおはたらきを「十二光仏」の仏名によって讃えられています。すなわち、釈尊が阿難尊者に向かって「無量寿仏の威神光明」はほかの仏・如来たちのいかなる光明も及びえない、絶大なものであるということを説かれる場面で、

 

無量寿仏(むりょうじゅぶつ)をば、無量光仏(むりょうこうぶつ)・無辺光物(むへんこうぶつ)・無礙光仏(むげこうぶつ)・無対光仏(むたいこうぶつ)・・・・超日月光仏(ちょうにちがっこうぶつ)と号す。それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅(さんくしょうめつ)し、身意柔軟(しんいにゅうなん)なり。歓喜踊躍(かんぎゆやく)して善心(ぜんしん)生ず。……

(『註釈版聖典』二九頁)

 

現代語版では、

 

無量寿仏を無量光仏・無辺光物・無礙光仏・無対光仏・・・・超日月光仏と名づけるのである。この光明に照らされるものは、煩悩が消え去っても身も心  も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生れる。……

(『浄土三部経(現代語版)』五〇頁)

 

とあります。親鸞聖人は、これをお受けになって、阿弥陀仏の十二の別名「十二光仏」として受け止めるのでなく、阿弥陀さまはどういうはたらきの仏さまであるかということを、十二の光の機能で示されました。それが、「正信偈」の「〈十二の〉光明を放って、広くすべての国々を照らし…」と詠われる句です。

 

 

十二のひかりの内容

 

阿弥陀さまは、その原語からしても「無量寿仏」「無量光仏」と呼ばれているように、もろもろの仏・如来に比べても特別に照り輝く、ひかりのはたらきが絶大である仏さまであるとされ、このように、十二光を放ってあらゆるものを照らしておられると詠われます。それでは、この「十二のひかり」とは、何を意味しているのでしょうか。先哲のご指南をもいただきながら、概略的にその内容をうかがいましょう。

 

まず「無量光」とは、量ることのできない光で、竪(たて)に(=時間軸で過去・現在・未来にわたる)三世を貫き照らすことに限極がないといわれます。

 

「無辺光」とは、際限のない光で、横に(=空間的に)十方にわたって照らすことに辺際がないといわれます。

 

次に「無礙光」とは、何ものにもさえぎられることのない光で、三毒の煩悩(自己中心の心から起こるむさぼり・いかり・愚かさの毒のような煩悩)も障碍(障り、妨げ)となることがないといわれ、この「無礙」なるはたらきがさらに区分されて、以下の九種の光があげられるといわれます。

 

それら九種とは、対比しうるものが全くない「無対なる光」、最高の輝きをもつ「炎王なる光」、凡夫の欲望・むさぼりを除く「清浄なる光」、凡夫のいかりを除きよろこびを与える「歓喜の光」、凡夫のまどい・愚かさを除き智慧を与える「智慧の光」、常にたえず凡夫の心を照らす「不断の光」、思いはかることのできない、凡夫をそのまま往生せしめる「難思なる光」、説き尽くすことができず言葉も及ばない「無称なる光」、太陽や月など世間の光に超えすぐれた「超日月の光」―これらを含めて全十二の光で、阿弥陀さまの威徳を讃嘆(さんだん)されているわけです。

 

 

ご和讃に「十二のひかり」を味わう

 

「正信偈」も「和訳正信偈」も、日常のお勤め(勤行)で、門信徒の方々や家族とともに唱和し味わいを深めるのに最良の偈文ですが、これに続いて親鸞聖人ご製作のご和讃が唱和されています。それにより親しく法味を味わわれることでしょう。

 

ご和讃は、七五調の今様形式で詠われる、一首が四句からなる和語の仏法讃嘆の詩歌で、聖人は五百首以上ご製作くださって、私どもが仏法を深く味わい親しむ最良の手立てをいただいています。その中で、浄土往生の教え、信心の慶びなどをまとめられた『浄土和讃』の冒頭に、この「十二光」を詠われた和讃がまとめられています。「讃阿弥陀仏偈和讃」といわれるように、浄土真宗を基礎づけてくださった七高僧の第三祖・曇鸞大師ご製作の『讃阿弥陀仏偈』に基づいて詠われたご和讃で、親鸞聖人は曇鸞大師のご指南によってこの「十二光」を味読されていると、うかがうことができます。

 

その中のいくつかを拝誦して、この「十二のひかり放ちては あまたの国を照らします」を味わいたいと思います。

 

一々(いちいち)のはなのなかよりは
三十六百千億(さんじゅうろっぴゃくせんおく)の
光明(こうみょう)てらしてほがらかに
いたらぬところはさらになし

 

一々のはなのなかよりは
三十六百千億の
仏身(ぶっしん)もひかりもひとしくて
相好(そうごう)金山(こんぜん)のごとくなり

 

相好ごとに百千の
ひかりを十方(じっぽう)にはなちてぞ
つねに妙法(みょうほう)ときひろめ
衆生を仏道にいたらしむ

(『註釈版聖典』五六三頁)

 

現代語にしてみますと、

 

「お浄土にある一々のはなのなかから三十六百千億ともいう無限量の光があらゆる世界を照らし、冴えわたるように明らかでとどかないところがない」

 

「お浄土にある一々のはなのなかから、さまざまな光と同じように三十六百千億という無数の仏がたが現れ、そのお姿は黄金の山のようである」

 

「はなのなかから現れた仏がたはあらゆる方向にひかりを放ち、常にすぐれた教えを説き広め、あらゆるものを悟りへの道に至らせる」

 

となるでしょう。「三十六百千億のひかり」とは、お浄土の蓮華は百千億の花びらがあるとされ、それぞれに青・白・玄・黄・朱・紫の六光があって照らしあっていることから、このように詠われます。それは、無量の光を輝かせておられるのが阿弥陀さまであり、お浄土の姿であることが示されているとうかがわれるでしょう。

 

このように、阿弥陀さまは、「無量寿仏」「無量光仏」といわれるように、「無量の光」をもってはたらいてくださっている、それは、「妙法」すなわち阿弥陀仏の本願の教えを説き広めるためであり、無量のひかり(智慧)、無量のいのち(慈悲)が必要であるのは、目先のことにとらわれ、本願の教えも仏・如来のことも知らずに迷っている衆生、迷いの中の生きとし生けるものが、無量・無数にいるからであります。

 

仏教にいくらか目を向けながらも迷いの中にある、そのような人びとだけでなく、無宗教の者もその無量の光で照らし導いてくださっている。日本だけではありません、世界中の人びと、あらゆる一切の生きとし生けるものをひとり残らず救い取るはたらきをなされるのですから、無量の教えの姿となってはたらきかけてくださっている、そのために、「無量の光」と示され、「十二のひかり」を放たれるお姿が示されるのです。

(佐々木恵精)

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