2016年表紙 ひかりといのちきわみなき 阿弥陀ほとけを仰がなん 法語カレンダー解説

hougo2016top 二〇一六(平成二十八)年法語カレンダーは、宗祖親鸞聖人のおことばを味読させていただくことになりました。そこで、現代の私たちにもわかりやすいおことばとして、「和訳正信偈」から珠玉のおことばを味わっていくことにいたします。門信徒の方にとっては、日ごろから親しんでおられる「正信念仏偈(正信偈)」のおことばであり、このカレンダーによってなおいっそうご法義の味わいを深めていただけるよう願われます。

 

 

「和訳正信偈」

 

「正信偈」は、親鸞聖人が開かれた浄土真宗のみ教えに帰依している者にとって、最も親しみ深い偈文(げもん)ですが、聖人のライフワークともいうべき大著『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』と略称)の第二巻「行文類」の末尾に置かれた七言の六十行百二十句から成る讃歌です。聖人はその前書きに、

 

しかれば、大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく

(『註釈版聖典』二〇二頁)

 

と述べられて、「正信偈」の偈文がつづられています。すなわち、〈釈尊のまことの教えに従い、浄土の道を開かれた祖師がたのご著述を拝読して、仏さまのご恩の深いことを信じ喜んで、この「正信念仏偈」を製作する〉と表明されているところに、聖人が自らのうちにいただかれ、如来への御恩報謝の念からほとばしり出た、「信心のよろこびヽお念仏のよろこびの歌」であることがうかがわれます。

 

この「和訳正信偈」は、親鸞聖人のみ教えに帰依する真宗十派が共同して伝道活動を進める真宗教団連合が、一九七三(昭和四十八)年の親鸞聖人御誕生八百年・立教開宗七百五十年に際して定めた共通勤行です。一九四八(昭和二十三)年、蓮如上人四百五十回忌の記念事業として本願寺派が制作した「正信偈」の和訳(「意訳勤行」)に、念仏、和讃、回向をつけたものです。

 

本願寺派の「意訳勤行」には、前半が「しんじんのうた(一)、後半が「しんじんのうた(二)」としておさめられ、日頃から唱和され親しまれています。

 

「和訳正信偈」の制定にあたっては、

 

 正信偈・和讃は親鸞教徒にとっては、いわば揺籃(ようらん)のうたである。人生の生涯をかけてうれしい時も、悲しい時も親しまれてきた心の故郷でもある。

おもえば、昭和四十八年は聖人ご誕生八百年をお迎えすることであるが、聖人の芳躅を慕いて法雨に浴する流れは、真宗十派を数えて歴史の歩みが続けられてきたのである。なればこそ、この時に当って同じ流れに浴(ゆあ)みしている人々が、揺籃のうた正信謁・和讃を唱和し、一層深く広く心の琴線に触れ合うことは、八百年のご誕生を迎うるに当たって最も意義深いことであろう。

 

と、その意義がうたわれています。それ以来、真宗十派では門信徒の方々の家庭で、またお寺の本堂で、現代の私たちにもわかりやすい現代語版の「和訳正信偈」を愛唱し、「正信偈」が、より親しく味わわれることとなりました。

 

 

表紙の法語

 

カレンダーの表紙には、その冒頭の句があげられます。

 

ひかりといのちきわみなき 阿弥陀ほとけを仰がなん

 

「正信偈」では、同じく第一行の、

 

帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)
南無不可思議光(なもふかしぎこう)

 

無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる(『註釈版聖典』二〇三頁)

 

とある偈文が対応します。『教行信証(現代語版)』では

 

限りない命の如来に帰命し、思いはかることのできない光の如来に帰依したてまつる。 (一四三頁)

 

と訳されています。

 

「正信偈」の中の「帰敬序(ききょうじょ)」とよばれ、阿弥陀如来の大いなるおはたらきに帰依される親鸞聖人が、ご自身の信仰を仏前に表明されたおことばといえるでしょう。

 

阿弥陀如来、あるいは阿弥陀仏といわれる仏さまは、インドの言葉で「無量」「限りない」を意味する「アミタ」(amita)に、「光明」(ひかり)を意味する「アーブハー」(abha)と「寿命」(いのち)を意味する「アーユス」(ayus)が続いて、「限りないひかりの如来」(amitabha-tathagata)、「限りないいのちの如来」(amtayus-tathagata)を意味します。そこから、その略称の形で、「阿弥陀如来」「阿弥陀仏」というお名前で呼ばれます。『無量寿経』に説かれるように、「あらゆる生きとし生けるものが悟り(正覚)の世界に救われる道を完成(成就)させます」、すなわち「あらゆる生きとし生けるものを必ず救う、さもなければ仏にならない」という大誓願を発されて、その道を完成(成就)され、「限りないひかりと限りないいのちの仏」となり、いま現に私どもに手を差し伸べて、はたらいてくださっている、その仏さまが、「阿弥陀如来」「阿弥陀仏」であり、「無量寿如来」(無量寿仏)、「無量光如来」(無量光仏)であります。「正信偈」の第二句では「不可思議光〔如来〕に南無したてまつる」(思いはかることのできない光の如来に帰依したてまつる)とありますが、これはまさに「無量光如来」を意味しています。

 

そこで、この冒頭の句は、

 

ひかりといのちが極まりない仏さまである阿弥陀さまを仰ぎます

 

と詠って、「阿弥陀さまに帰依いたします」という帰敬の心を、阿弥陀さまの前に宣言するものとなっています。それは聖人ご自身の信心の表明でもありますが、こうして、「和訳正信偈」を唱和する私たちとしては、私たち自身の「信心の表明」ともなるものでもあります。すなわち、阿弥陀如来の御前に、「信心」を表明し「帰依のこころ」をもって讃嘆のことば「正信偈」を、そしてまた「和訳正信偈」を唱和するということになります。

 

 

ひかりといのち

 

ところで、この「ひかりといのちが極まりない」、すなわち「無量光」「無量寿」とは、何を意味しているのでしょうか。

 

真実の世界(正覚の世界)に到達された仏・如来には、大いなる智慧と大いなる慈悲がそなわっているのですが、それは、あらゆる生きとし生けるもの(一切衆生)を見つめられて悟りの世界「極楽浄土」に生まれる道を究められている阿弥陀さまには、すべてを見通される真実の智慧とそこからはたらき出る大慈悲がそなわっているということを意味します。その智慧がすべてを見通し照らし出すことから、「極まりないひかり」と象徴され、そこにはたらく大慈悲がすべてを包み込むはたらきであることから、「極まりないいのち」と象徴されて、「極まりないひかり(無量光)の仏さま」「極まりないいのち(無量寿)の仏さま」といわれるのです。

 

それに対して、私ども、この迷いにある者は、目先のものしか見えない、いや、目先のものさえも自分勝手な見方でしか見えない—自分の思い、自己中心的な欲望に支配された見方しかできない—–、と釈尊が厳しく示されたとおり、まさに「無明」の中に苦悩する存在で、「煩悩具足の凡夫」(『歎異抄』後序、『註釈版聖典』八五三頁)であるといわれます。しかも、「煩悩具足の凡夫」であるということすらもわからずにいるのが私どもで、釈尊のお言葉や経典の教えによって、はじめて気づかされ、慚愧(ざんぎ)の念を持つ以外にない、まさに暗黒の中にある存在なのです。それは、あたかも暗闇の中で周囲の状況が見えない、目の前さえも見えない、そんな時に灯りがともされると、一瞬にして周囲がありありと見えて安堵する。ちょうどそのように、煩悩具足の凡夫」は、仏・如来のはたらき、阿弥陀さまの智慧に照らされてこそ、凡夫たることが知らされて、仏道を歩む身となることができます。

 

仏・如来の智慧は、まさに「極まりないひかり」なのです。また、あたかも母親が幼子をしっかりと見まもっているように、阿弥陀さまが本願のはたらきでしっかり見まもり、「そのまま来いよ」と喚びかけてくださるのが、大慈悲のはたらきであり、その大いなるはたらきが「極まりないいのち」といわれるのです。

 

この地球上での私どもを振り返りますと、太陽の光や、エネルギーの恩恵は絶大なものであることを痛感します。その光があるからこそ、すべてを見ることができ、その絶大なエネルギーによってこそ、動植物も私どもも生きることができ、生活ができます。真実の悟り(正覚)を求めることについては、地球上のこととは次元を異にしていますが、地球上にその姿を求めると、まさに太陽のはたらきに喩えられるでしょう。たとえば、「大日如来」とは、「太陽のような大いなるはたらきのとたたえる仏名となっています。

 

『無量寿経』に詠われる「讃仏謁」は、誓願を発して一切衆生を救う道を成そうとする法蔵菩薩が、師仏・世自在王仏に讃嘆のことばを述べつつ、大誓願を宣言する詩頌ですが、その冒頭には、

 

光顔巍巍(こうげんぎぎ)     威神無極(いじんむごく)

如是焔明(にょぜえんみょう)   無与等者(むよとうしゃ)

日月摩尼(にちがつまに)     珠光焔耀(しゅこうえんにょう)

皆悉隠蔽(かいしつおんぺい)   猶若聚墨(ゆにゃくじゅもく)

 

光顔巍巍(こうげんぎぎ)として威神(いじん)極(きわ)まりなし。かくのごとき焔明(えんみょう)、ともに等(ひと)しきものなし。日(にち)・月(がつ)・摩尼珠光(まにしゅこう)の焔耀(えんよう)も、みなことごとく隠蔽(おんぺい)せられて、なお聚墨(じゅもく)のごとし。

(『註釈版聖典』 一一頁)

 

と詠われています。現代語訳には、〔世自在王仏に対面して〕「世尊のお顔は気高く輝き、その神々しいお姿は何よりも尊い。その光明には何ものも及ぶことなく、太陽や月の光も宝玉の輝きも、その前にすべて失われ、まるで墨のかたまりのようである」(『浄土三部経(現代語版)』一七頁)とされます。まさに仏・如来の光明、輝きは太陽や月の光も全く及ばないほどに照り輝いていると詠われ、仏・如来のはたらきの絶大なることが示されています。

 

この「和訳正信偈」の第一句は、そのような「極まりないひかりといのち」の仏さまである阿弥陀さまに、尊崇の心をもって帰依いたします、と詠って、帰依のこころを示すものであるといただくことができるでしょう。

(佐々木恵精)

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