2019年4月のことば 真実の信心はかならず名号を具す。

学生さんからの質問

親鸞聖人を宗祖と仰ぐ浄土真宗本願寺派と関係する大学として、京都には龍谷大学などがあります。また、同じく本願寺派の僧侶を養成するための学校として、中央仏教学院があります。龍谷大学、中央仏教学院で講義をしていますと、数年に一度、「どうすれば信心を獲られるのでしょうか?」という質問を受けることがありま
す。私の経験からいいますと、真面目な学生さんほど、このような質問をする傾向があるようです。それだけ真剣に道を求めてのことなのでしょう。よくわかります。

阿弥陀さまの願い

四月のことばは、親鸞聖人の主著である『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』のなかからいただいています。

真実の信心はかならず名号を具す。        (『註釈版聖典』二四五頁)

 

親鸞聖人は、ただひとすじに阿弥陀さまのはたらきによって、この私か仏と成らせていただく道を聞いていかれ、その道を明らかに示してくださいました。阿弥陀さまのはたらきは、このようにして人々を救うぞ、という願いにもとづいています。
その願いこそが本願です。
本願は、私たちが依りどころとする「無量寿経」に「第十八願」として、

  設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国乃至二十念
若不生者、不取正覚。唯除五逆誹膀正法
(『浄土真宗聖典全書』三経七祖扁、二五頁)

と示されます。このご文を書き下すと、

とひわれ仏(ぶつ)を得(え)たらんに、十方(じっぽう)の衆生(しゅじょう)、至心信楽(ししんしんぎょう)してわが国(くに)に生(しょう)ぜんと欲(おも)ひて、乃(ない)至十念(しじゅうねん)せん。もし生(しょう)ぜずは、正覚(しょうがく)を取(と)らじ。ただ五逆(ごぎゃく)と誹謗正法(ひほうしょうぼう)とをば除く。                       (『註釈版聖典』 一八頁)

となり、現代語訳すると、

わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。        (「浄土三部経(現代語版)』二九頁)

となります。これは簡単にいうならば、「われを信じ、わが名を称える者は、かならず救う」という意になります。
本願は、「われにまかせよ、かならず救う」という阿弥陀さまの根本の願いであり、その願いが願いのとおりに完成され、南無阿弥陀仏の喚び声として私のところへ至り届けられているのです。

本願の三つの心

親鸞聖人の主著であり、浄土真宗の根本聖典である『教行信証』は、「教文類(きょうもんるい)」「行文類(ぎょうもんるい)」「信文類(しんもんるい)」「証文類(しょうもんるい)」「真仏土文類(しんぶっどもんるい)」「化身土文類(けしんどもんるい)」という六巻から成っています。

今月の法語は、この『教行信証』の「信文類」からいただいていますが、「信文類」の前半では、先はどの本願に誓われている「至心・信楽・欲生」の三つの心について、多くの紙数を費やし、ご指南が示されています。

阿弥陀さまのお浄土に生まれ仏と成らせていただく、この正しき因は阿弥陀さまからふり向けられる信心一つであると、親鸞聖人は聞いていかれました。七高僧のお一人である天親菩薩が、

世尊我一心 帰命尽十方 無尋光如来 (「浄土真宗聖典全書」」」三経七祖篇、四三三頁)
(世尊、われ一心に尽(じん)十方無擬光如来(ぽうむげこうにょうらい)に帰命(きみょう)したてまつりて『註釈版聖典(七祖篇)』二九頁)

と「一心」と示され、親鸞聖人も、

涅槃(ねはん)の真因(しんいん)はただ信心(しんじん)をもつてす
(『教行信証』信文類、「註釈版聖典」二二九頁)

と、一心、信心こそが、往生成仏の正しき因であると示されています。
そうであるにも関わらず、先はどのご本願には「至心・信楽・欲生」という三つの心が誓われています。なぜ三心の願いが発されているのか、親鸞聖人はこのことについて真剣に問い求められるのです。そして、

仏意(ぶつい)測(はか)りがたし。しかりといへども、ひそかにその心(しん)を推(すい)するに(「同」、『註釈版聖典』二三一頁)

と、阿弥陀さまのお心は、はかり知ることができないとしながらも、如来回向の一心(信楽)のところに、阿弥陀さまの真実の智慧(至心)も慈悲(欲生)も具わっていることを顕すために、三つの心として誓われているのだと受け止められるのです。
そして、

  まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実ので心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。                    (「同」、『註釈版聖典』二四五頁)

と結ばれます。三心とて心の関係性は大切なところですので、このほかにもさまざまな角度から、三つの心は一つの心におさまり、一つの心に三つの心が具わっていることが示されます。
しかし、いま重く受け止めたいのは、本願の三心をいかに受け止めるかを問い詰められた、親鸞聖人の姿勢です。

ありのままのはたらき

信心こそが往生成仏の正しき因であるという道を聞いていくとき、ややもすると、ご本願に三つの心が誓われているということを軽視してしまいがちです。信心こそが正因であり、信心ひとつで往生成仏させていただくという教えは、そこに深いおいわれがあり、それこそが大切でありますが、一面では、わかりやすく、わかりやすいがゆえに、考えることを止めてしまいそうになります。結果、ご本願に三つの心が誓われているけれども、それはそれで置いておいてともなりかねません。
しかし、そこで忘れてはならないことがあります。それは、『無量寿経』は釈尊が説かれたまさに仏説であり、ご本願は阿弥陀さまの誓いであるということです。釈尊、阿弥陀如来は仏さまです。仏さまは、真理をさとられた方であり、そのお言葉はさとりの世界からのお言葉です。それは、われわれの思議を超えた世界からのお言葉です。私は、そのお言葉をいただき、ありのままの仏さまのおはたらきを受け取っていくのです。親鸞聖人がご本願の三心を問い求められたことから、仏語を大切にする、ありのままの仏さまのおはたらきを受け取っていく姿勢を見つめなおしたいものです。
親鸞聖人は、先ほど引かせていただいた「これを真実の信心と名づく」に続いて、今月の法語である「真実の信心はかならず名号を具す」と示されます。これは、真実の信心には、必ず名号を称えるというはたらきがそなわっている。
(「顕浄土真実教行証文類(現代語版)』ニニー頁)

という意です。このお言葉も、やはり先ほどの本願の三心のように、ありのままの阿弥陀さまのおはたらきとして受け取らせていただきたいところです。
本願には、「至心・信楽・欲生」の三心に続いて、「乃至十念」(わずか十回でも念仏して)と念仏を称えることが誓われています。「乃至」と回数を限らないとお示しくださっていますが、信心と称名が誓われている本願です。その願いが願いの通りに完成され、私にはたらいてくださっているのです。

まあそうであろう

親鸞聖人晩年のお言葉に、

弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしがらんともおもはぬを、自然とは申すとぞとききて候ふ。
(『正像末和讃』、「註釈版聖典」六ニー頁)

とあります。むずかしいお言葉ではありますが、行者のはからい、私自身の良い、悪いといったはからいを雑えるのではなく、ただただありのままの如来さまのおはたらきにおまかせしていくことが示されています。ありのままの私か救われていくのではなく、ありのままのはたらきによって、この私か救われていくのです。
中央仏教学院には通信制教育があります。通信教育ですので、平素はテキストや書簡による学びとなりますが、講義をする機会もあります。通信教育の受講生にはさまざまな方がおられますが、龍谷大学や中央仏教学院の通学生と比べると、ご年配の方、また、これまで聴聞を重ねてこられた方が多くおられます。そのような方に、冒頭に書いたように、「どうすれば信心を獲られるのでしょうかという質問を受けることがあります」という話をすると、これまた私の経験からすると、なにもおっしゃらず、にこっと微笑まれる方が多いように思われます。少なくとも「私は信心を獲ていますよ」とは言われません。
親鸞聖人は、五十九歳のとき、風邪をひかれて床に伏しながら、高熱の夢うつつのなかで、昔、衆生利益のために「浄土三部経」の千部読誦を志したことを思い出されました。そして自力のはからいが、いまだ経験としてご自身の内面に影響を与えていることを反省されて、「まはさてあらん(まあそうであろう)」(『恵信尼消息』、『註釈版聖典』八二(頁)とおっしゃっています。
「こうすれば信心が獲られますよ」とは、軽々しく答えられることではありません。ただ、「真実の信心はかならず名号を具す」と、ありのままのおはたらきをともどもに聞き、自らの過去を振り返りつつ、「まはさてあらん」と肯いてまいりたいものです。                                 (長岡 岳澄)

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