2019年5月のことば 十方の如来は衆生を 一子のごとく憐念す

おつとめのうた

三歳になった娘が本願寺関係の幼稚園に入園したての頃です。一日の仕事が終わり家に帰って、娘に「今日は幼稚園で何をしたの?」と尋ねても、「わからない」となかなか教えてくれません。そこで「今日はどんなお歌を歌ったの?」と改めて尋ねると、少しためらいながらも、うれしそうに笑顔で、

きーみょーむーりょーじゅーにょーらーい
なーもーふーかーしーぎーこー
なもあみだぶー なもあみだぶー
なもあみだぶつー

と、かわいらしい声で歌ってくれるようになりました。「正信偈」の最初の二句「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい) 南無不可思議光(なもふかしぎこう)」(「日常勤行聖典」六頁)と「南無阿弥陀仏」に旋律
が付けられている歌です。そして、この歌を歌うときには、両手を合わせて合掌をしています。
娘本人がどのように感じているかはわかりませんが、親としてこのすがたを見ると感慨深いものがあります。なにもわからずこの世に生まれ産声をあげた我が子が、手を合わせ、仏さまの歌を歌ってくれるまでになってくれたすがたを見ると、十分とは言えないかもしれませんが、お念仏を伝えることができたのではないかと、ホッと安堵し嬉しく感じました。

それとともに我が身を振り返り、今ではすっかり中年のおじさんになっていますが、私にもこのような時期があり、何もわからない私にお念仏を伝えてくれた両親をはじめ、まわりの方々のお育てがあったのであろうと思い返されます。

『浄土和讃』勢至讃の文

五月のことばは、親鸞聖人の『浄土和讃』のなか、「勢至讃」のご文からいただいています。

超日月光(ちょうにちがっこう)この身には
念仏三昧(ねんぶつざんまい)をしへしむ
十方(じっぽう)の如来(にょらい)は衆生(しゅじょう)を
一子のごとく憐念す               (『註釈版聖典』五七七頁)

親鸞聖人の時代、仏教の教えは漢語・漢文をもって示されることが基本でした。親鸞聖人も、主著である『教行信証』など、漢語で多くの書物を著されています。しかしながら、当時の多くの人々にとって、漢語で書かれた書物を読み理解するということはむずかしいことでした。これは、現代でもそうかもしれません。
そこで、親鸞聖人は、多くの人々が心得やすいように、わかりやすいようにと、「唯信秒文意」や『一念多念文意』などの和語・仮名交じりの書物も著されています。
さらに、聖人は、七五調の和歌の形式で仏さまや高僧方の徳をわかりやすく讃えた歌を数多く作られました。これがご和讃です。

このご和讃のなかで、阿弥陀仏とそのお浄土について讃えられているのが、『浄土和讃』百十八首となります。『浄土和讃』では、親鸞聖人が大切にされた高僧である曇鸞大師(どんらんだいし)の『讃阿弥陀仏渇』、私たちが依りどころとする「浄土三部経」の「無量寿経(大経)』、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょうかんぎょう)(観経)』、『阿弥陀経(あみだきょうしょうきょう)(小経)』などによって、阿弥陀仏およびその浄土について讃嘆されています。

この『浄土和讃』の結びにあるのが「勢至讃」八首で、冒頭には、

  『首楊厳経(しゅりょうごんぎょう)』によりて大勢至菩薩和讃(だいせいしぼさつわさん)したてまつる (『註釈版聖典』五七六頁)

とあります。どうして、「浄土三部経」や『讃阿弥陀仏偶』などに比べるとあまり馴染みがない『首楊厳経』という経典によって、阿弥陀仏ではなく勢至菩薩を、『浄土和讃』の結びで褒め讃えておられるのでしょうか。
『首楊厳経』は、詳しくは『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首拐厳経(だいぶっちょうにょらいみっいんしゅしょうりょうぎしょぽさっまんぎょうしゅりょうごんきょう)』という経典名で、唐の般刺蜜帝訳と伝えられます。この経では、二十五人の聖者がそれぞれ釈尊の前で、どのように円通の理、真如をさとられたのかを説き述べられます。その二十四人目が勢至菩薩で、念仏によってさとられたことが説かれます。
この「勢至讃」が示される理由として、ひとつには、勢至菩薩が釈尊の前で、

教主世尊(きょうしゅせそん)にまうさしむ
往昔恒河沙劫(おうじゃくごうがしゃこう)に
仏世(ぶつよ)にいでたまへりき
無量光(むこうりょう)とまうしけり               (「註釈版聖典」五七六頁)

と、数えきれないくらいのはるか昔に阿弥陀仏がお出になられたと述べられていることから、阿弥陀如来が永遠の昔からの仏さまであることを示すためであるとされます。これは、同じ『浄土和讃』の「大経讃」で、

弥陀成仏(みだじょうぶつ)のこのかたは
いまに十劫(じっこう)とときたれど
塵点久遠劫(じんでんくおんごう)よりも
ひさしき仏(ぶつ)とみえたまふ                 (『同』五六六頁)

と示される意を承けたものです。

法然聖人の本地

そして、「勢至讃」が作られたもう一つの理由として、勢至菩薩こそが親鸞聖人の師である法然(源空)聖人のもともとのおすがたであると、受け止められていたことが挙げられます。
親鸞聖人は、二十九歳のときに、京都にある六角堂で救世観音菩薩のお告げを受け、比叡山を下りられました。そして、法然聖人のもとで阿弥陀仏の喚び声である名号(南無阿弥陀仏)のはたらきによって自身が仏と成っていく道を、ひとすじに聞いていかれました。
その後、朝廷や旧仏教による法然教団への弾圧によって、三十五歳のときに離ればなれとなってしまわれますが、親鸞聖人は生涯にわたって法然聖人を慕い敬われていました。親鸞聖人のお弟子である唯円房が著したとされる『歎異抄』には、晩年の親鸞聖人のもとへお弟子方が尋ねて来られた際に、

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。(『註釈版聖典』八三二頁)

と語られたと示されます。ただただ師・法然聖人の教えを受けとり続けられたことが窺えます。
『浄土和讃』勢至讃の末には「源空聖人御本地なり」(『註釈版聖典』五七七頁)と示され、親鸞聖人は、この師・法然聖人を勢至菩薩がこの世に生まれ出でられた方であると受け止められておられたのです。法然聖人の教えをただただ聞いていかれた親鸞聖人。だからこそ、法然聖人のもともとのおすがたである勢至菩薩を、『浄土和讃』の結びで褒め讃えられておられるのでしょう。

手を合わせるすがたに

勢至菩薩に念仏を教えられたのが阿弥陀さまでした。今月のことばにある「浄土和讃」の後半部にも、

超日月光この身には
念仏三昧をしへしむ

と、阿弥陀如来(超日月光)が勢至菩薩(この身)にお念仏(念仏三昧)を教えられたと、『首楊厳経』にもとづいて示されています。阿弥陀さまから勢至菩薩へ、勢至菩薩が源空聖人として生まれ出でられ、親鸞聖人へと念仏の教えは伝えられたのです。
親鸞聖人は、法然聖人からお念仏の教えをひとすじに聞いていかれ、その教えを生涯大切に受け止めていかれました。そして、法然聖人から受け取られたお念仏は、よくよく案じてみるならば、阿弥陀さまのおはたらきによっているのだと受け止め
られました。それは、すべての衆生を照らす日光・月光を超えるような智慧の光であるとともに、衆生一人ひとりを「一子のごとく憐念」し、ひとり子を哀れ慈しむような仏さまの大いなる慈悲のはたらきとして受け止められるのです。
最初に、わが子が幼稚園に入園し、仏さまに手を合わせ、お念仏するすがたを見て、親として安堵し、それとともにわが身を振り返ってみると、という話を書きました。まだまだ形ばかりかもしれませんが、子にお念仏が伝わったことは、父親である私だけではなく、妻である母親や、父母の親である祖父母、また、幼稚園の先生方など、まわりの多くの方々との繋がりがあってのことでしょう。その繋がりはたいへんにありかたいものです。
ただ私自身を省みてみますと、法然聖人が親鸞聖人に、阿弥陀さまが勢至菩薩に念仏を教えられたように、私か子に念仏を伝えたのだとは到底考えられません。
確かに、わが子と同じクラスのお友達が手を合わせるすがたにもホツとしますが、わが子ほどにはホツとしないというのが、親としての直截な思いです。また、ホツとしながらも、日頃の無邪気な言動に振り回され、内心穏やかではない私かいます。
親としての時を過ごすほどに、親さま(阿弥陀さま)とほど遠い自分に気づかされます。
そのような私、そしてわが子を、一子のごとく哀れ慈しんでくださっている阿弥を合わせるすがたを見守ってまいりたいものです。
(長岡 岳澄)

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