2023年4月のことば 仏法の鏡の前に立たないと 自分が自分になれない

考え方のリセット

今月は、二階堂行邦師のことばです。二階堂師は、一九三〇(昭和五)年、真宗大谷派専福寺(東京都)に生まれ、当寺の住職を務められました。二〇一三(平成二十万年にご往生されています。
今月のことぼは、曽我量深師の

  仏は人を鏡として仏となる。人は仏を鏡として人となる。

という言葉をもとにされています。曽我師の言葉のうち「仏は人を鏡として仏となる」とは、修行時代の阿弥陀如来が人間を完全に見抜き、その人間を救うために必要なものを完璧に準備して阿弥陀如来という仏に成られたのだ、という意味です。鏡が過不足なく忠実に私たちのすがたを映すように、阿弥陀如来も、ご自身が救いたいと願われた、私たちのありさまを忠実に見抜き、それを救う準備をされたといえます。
そうであるならば、阿弥陀如来が見抜かれた私たち自身のすがたを聞く、つまり仏法の鏡の前に立てば、私たちは私たちのすがたを忠実に知ることができる、といえます。曽我師は、これを「人は仏を鏡として人となる」と表現されました。今月のことばも、同じ趣旨であろうと思われます。
さて、今月のことばをごI読になって、まずどのように感じられたでしょうか。
一つひとつの単語は、いずれも難しい言葉ではありません。強いていえば、「仏法号こでは、阿弥陀如来という仏さまの教えを意味」」という語が仏教用語ですが、それ以外は、私たちの日常の言葉で示された内容です。ところが、全体として容易に意味がわかるかと問われたならば、なかなか難しく感じます。
浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が尊敬されたお坊さんに、中国の曇鸞大師がおられます。曇鸞大師は、「非常の言は常人の耳に入らず」(『往生論註』、『註釈版聖典(七祖篇)』 一三五頁)という言葉を遺されました。ここでいう「常人」とは、「常識的な普通の人」という意味で、「非常の言」とは「世間の常識を超えた話」を意味します。
私たちは、驚くようなことを聞くと、「信じられない」と思います。言葉を補うと、これは「(自分の持つ経験や常識からはまったく考えることができなくて)信じられない」という意味ではないでしょうか。阿弥陀如来とその国土(世界)である浄土のはたらきは、私たちの経験や常識を超えたものです。私たちは、にわかに受けとめることができません。曇鸞大師は、そのことをおっしゃっているのです。
つまり、阿弥陀如来の教えに向き合おうとするとき、私たちは、これまでに積み上げてきた経験や常識を、一度脇に置いて考えなければならない、ということです。
自分の物事の考え方をリセットする、あるいはマインドセット(無意識の思考パターン)を変更する必要があるのです。

確かな鏡との出あい

さて、今月のことばに戻りましょう。
今、このことばを考えていく上でリセットしなければならない常識は、「自分のことは自分がわかっている」という考え方です。
今月のことぼけ、まず「仏法の鏡の前に立だないと」と、仏法を鏡に讐えています。鏡は私たち自身の外見を映し出すものです。そして鏡は、私たち自身の内にあるものではなく、外にあるという点が大切です。
私たちは、自分のことは誰よりも自分こそがよく知っていると考えがちではないでしょうか。けれども、よくよく考えてみると、必ずしもそうではありません。たとえば、私たちは自分の顔を直接に見たことがありません。鏡やカメラのように、自分の顔を映してくれるものを通して見ているに過ぎません。顔は個人を見分ける上で必要ですし、表情には感情が現れます。けれどもその顔を、自分で直接見ることはできないのです。
あるいは、私たちはさまざまな癖を持っています。自分の癖について、自分自身で気がつく場合と他者に指摘されて気づくことと、どちらが多いでしょうか。多くの癖は、家族や友人等に指摘されて気づくように思います。この場合、家族や友人がいわば鏡となって、自分の癖を映し出してくれているといえます。
そもそも、自分について自分で考えようとするとき、そこには検討対象となる自分と、それを検討する自分(自分A)とがいることになります。このとき、自分Aが確かなものでなければ、自分を適切に考えることはできません。つまり、自分Aの確かさを、チェックする必要があります。それが必要だとすると、今度は自分Aをチェックする自分Bがいることになります。では、その自分Bが確かなものといえるか、確認しなくてよいのでしょうか。そうすれば、自分Bをチェックする自分Cが必要になります。では、自分Cが確かなものと……。結局のところ、自分だけで自分を考えようとすることには、限界があります。
他者の助言によって、それまで自分では気がっくことができていなかった、自分の長所や短所に気づいた経験は、多くの方がお持ちであると思います。ここで確かめたいことは、自分をよく知るためには、外から自分を映し出してくれる、俯かな鏡との出あいが必要である、ということです。
阿弥陀如来の教えは、私たちの心を映し出す鏡です。お釈迦さま以来、二十五百年にわたり、時代・地域を超えて、人々の心を映し出し、その課題を私たちに示し続けてきた鏡です。まず、この鏡に正面から向き合うことの必要性が示されているといえます。

鏡に映った「自分」

続く「自分が自分になれない」の内容は、どのように考えればよいのでしょうか。
詩人である杉山平一氏に、「生」という詩があります。

ものをとりに部屋へ入って
何をとりにきたか忘れて
もどることがある
もどる途中でハ夕と
思い出すことがあるが
そのときはすばらしい

身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである
その用事は何であったか
いつの日か思い当るときのある人は
幸福である
思い出せぬまゝ
僕はすごすごあの世へもどる    (『杉山平一全詩集 上』二三六-二三七頁)

何か忘れ物をして部屋仁戻ったけれど、何を取りに戻ったのか思い出せないまま、また部屋を出る、という経験はないでしょうか。部屋を出たときに、「そうそう、あれを取り仁戻ったんだった」と思い出せたときは、うれしいものです。残念ながら、結局思い出せないままになることのほうが多い気がしますが。
私たちは物心ついたときには、既にこの世に生まれさせてもらっていました。きっと何かを取りに、この世にやってきたのです。さて、その用事は何だったでしょうか。「思い出せぬまま 僕はすごすごあの世へもどる」ことになってはいないでしょうか。
私たちは毎日、明日のことを考える余裕もないほどに、必死の思いで今日を生きています。あるいは、忍び寄ってくる老・病・死をどこかで感じつつも、それを忘れようとするかのように、目先の楽しみばかりを必死に追ってしまいます。
忘れ物が何であったか思い出せたときにうれしいように、私たちもこの世に生まれてきた用事が一体何であったのか、思い当たるならば幸せです。しかし、思い出せないままに終えていくことになりがちではないか。それが「生」の残念な現実ではないか。この詩は私たちに問いかけているのです。
私たちは多かれ少なかれ、何かしらの不満を抱えながら生きています。何かに十分満足したといっても、その満足がずっと続くわけではありません。また別の何かを望まずにはいられません。言い換えれば、いつまでもいつまでも、「自分には、何かが足りない」「何かを忘れた」と一種の自己否定を繰り返しながら生きている、といえます。それを今月のことばでは、「自分が自分になれない」とおっしゃっています。
果たして私たちは、このような自分の姿に気づくことができていたでしょうか。
私たちは、自分で思っているほど自分のことをわかってはいません。そのことを映し出すものが「仏法の鏡」、つまり阿弥陀如来なのです。

「自分が自分になる」

「仏法の鏡」を通して明らかにされる私たちの姿は厳しいものです。目先の楽しさなど自分中心の心に振り回され、「足りない、足りない」と思い続けているというものだからです。しかし、これに気づかされたのは、まさしく阿弥陀如来が私たちの心を映し出す鏡となってくださったからです。仏法の鏡を通して、自分自身のすがたを知らされるということは、言い換えれば、阿弥陀如来のはたらきが自分の所に至っている、ということです。
なぜ、阿弥陀如来は私を見抜かなければならなかったのでしょうか。それは、私を救うためです。私を救うためには、私以上に私のことを理解していないと救うことができません。
このことは、先生と子どもとの関係を例に考えることができます。勉強につまづいている子どもは、しばしば自分かどこでつまづいているのかもわからない状態に陥っています。「どこがわからないの?」と尋ねてみても、「どこがわからないのかも、わからない」という状態です。そうしたときに先生に必要なことは、その子ども以上に子どもの状況を確認し、つまづきのポイントを解消していくことです。
先生が子どもを救うためには、その子ども以上に先生が子どもを深く理解していることが必要です。そして、このような先生に救われた経験を多く持つ子どもは、未だに「わからない」が残っていても、先生かいるだけで安心することができます。
今はまだわからなくても、決して捨てられることはない、いずれ必ずわかるようになると思うことができるからです。わからなくても、わからないままの自分を認めることができるのです。
同じように、自分中心の心に振り回されて「足りない、足りない」と思い続けるよりはかない私たちも、阿弥陀如来との出遇いによって、「足りない」と思う自分のありのままを知らされ、悩みを抱えたままに阿弥陀如来に抱きとめられている自分を、素直に認めていくことができるようになります。そして、「足りない、足りない」に悩まされることのない浄土の世界へと、確かに導かれています。
(黒田 義道)

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