2011年4月 仏号はなはだ持ち易し 浄土はなはだ往き易し 法語カレンダー解説

易往易行の道

 この言葉は、『教行信証』行文類(『註釈版聖典』177項)に引かれている『楽邦文類(らくほうもんるい)』のものです。
 仏号とは如来の名号のことですから、仏号を保つということは、お念仏の相続、つまり、私たちがお念仏していくということです。それはとても易しいことであり、またお浄土に往生していくこともとても易しい、ということです。『一念多念文意』には、このことを端的に「易往易行のみち(いおういぎょうのみち)」((『註釈版聖典』686項)と示されています。

 たしかに、口に「南無阿弥陀仏」と称えることは、仏道における行として、これほど簡単なものはないと言えるでしょう。しかし、そんなに簡単な行でありながら、如来のさとりの世界であるお浄土に間違いなく生まれていくことができる、お浄土に往生していくことは簡単だといわれているのですが、少し不思議な感じがします。ふつうに考えれば、お浄土はこの上ないさとりの世界なのですから、とてつもない行を修め、これ以上ないというほどの功徳を積まなければ往生できないのではないでしょうか。

無問自説の経

 ご法事などのときによくお勤めされる『仏説阿弥陀経』というお経がありますが、ここにも不思議な話が示されています。もとより『仏説阿弥陀経』には他のお経にはない特徴があります。ふつうであれば、お釈迦様に対して誰かが質問をして、それに対してお釈迦さまがお答えになるという形で、お経は始まります。しかしこのお経は、誰も問いかけるものがいないのに、長老である舎利弗(しゃりほつ)に対して、いきなりお釈迦さまが話を始められます。それで、このお経のことを親鸞聖人は「無問自説の経(むもんじせつのきょう)」と言われているのですが、舎利弗はこのお経の最後まで一言も声を発しないのです。つまり、じっと黙ったままお釈迦さまが言われることを聞いているのです。

 舎利弗はお釈迦さまの十大弟子の一人です。お釈迦さまより年上であったと言われ、友人である目連尊者とともに、お釈迦さまの後継者とも目されていた人物であり、智慧第一と称されたすぐれたお弟子なのです。ですから、黙って聞いているのは、お釈迦さまの言われることがわからなかったということではありません。それどころか、最後には歓喜し信受してその場を後にするのですから、舎利弗はお釈迦さまのお話の内容をしっかりと受け止め、十分に理解しながら聞いていたのです。

ただ念仏して往生する

 さて、舎利弗に対してお釈迦さまが説かれたのは、次のような内容です。まず、私たちの住む世界より西の方角、十万億の仏の世界を過ぎたところに、阿弥陀如来の世界があり、そこにはさまざまな功徳に満ちたさとりの世界であって、その仏の世界に生まれる者も多くの功徳を得ることができる、と説かれます。注目すべきはその後です。
お釈迦さまは舎利弗に対して、

 舎利弗、少善根福徳(しょうぜんごんふくとく)の因縁をもつてかの国に生ずることを得(う)べからず。
(註釈版聖典』1114項)

と言われるのです。つまり、ちょっとぐらいの善いことを行ったり功徳を積んだからといって、その仏の世界に生まれることはできないのだと言われるのです。智慧第一と言われる舎利弗ですから、おそらくあらゆる行に通じているに違いありません。一体、どのような行をもってその国には生まれることができるのだろうかと、舎利弗は一心に耳を傾けたことでしょう。
 しかし、舎利弗が聞いたのは次のような内容でした。

 舎利弗、もし善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持(しゅうじ)すること、もしは一日、もしは二日、(中略)この人終わらん時、心顛倒(しんてんどう)せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。

(註釈版聖典』124~125項)

 「善男子・善女人」とは、出家していない在家の人びとのことです。その在家の人びとがお釈迦さまが阿弥陀仏の教えを説かれるのを聞いて、ただ念仏するというのです。「名号を執持する」というのは、今月の言葉にある「仏号を持つ」ということと同じで、お念仏するということです。そのように、ただお念仏している在家の人びとは、命を終えると同時に、そのまま阿弥陀如来のお浄土に往生することができると言われたのでした。
 舎利弗にとって、お釈迦さまの説かれた内容は信じがたいものであったでしょう。舎利弗が考えていたような難しい行ではなく、阿弥陀如来のお名前をただ口に称えるという誰でもできる簡単な行で、在家の人びとがこの上ないさとりの世界へ生まれることができるというのですから。

難信の法

 舎利弗は戸惑った様子だったのかもしれません。お釈迦さまは、そんな舎利弗のために、自分だけがこの教えを説いているのではないと教えます。東の方角の仏がたも、そして南・西・北・下・上のすべての方角の仏がたも、「この教えを信じよ」と説かれているのだというのです。さらに、この教えは一切の仏がたが護られている教えであって、この仏たちが説く阿弥陀如来の名やあるいはその教えの名を聞くものは、みなこの上ないさとりから退転することなく、必ず阿弥陀如来の国、すなわち浄土に生まれていくのであると説かれたのです。
 最後に舎利弗に向かって、お釈迦さまは次のようにお述べになります。「舎利弗よ、私がいま、あらゆる方角の仏がたが阿弥陀如来の教えを説かれたことを讃えたのと同じように、仏がたもまた私がこの煩悩に満ちた世界においてさとりを開き、すべてのもののために阿弥陀如来の教えを説いたことをほめ讃えておられるのである。世間の常識的な道理では信じがたい教えであるが、私はさとりを得てこの教えを説いた。これより難しいことは他にないのである」と。このお釈迦さまのお話が終わると、舎利弗をはじめとする多くの出家の者だけではなく、神々や人びとなど、世界のすべてのものが喜びにあふれ、その教えを信受したことが説かれて、この経は終わります。

私を往生させるのは如来のはたらき

舎利弗にとって、この阿弥陀如来の教えは信じがたいものでした。しかし最後には、この教えが説かれたことを喜び、そして自ら信受していきます。それはどうしてなのでしょう。智慧第一と言われた舎利弗は、出家の者が修める行であれば、それがどのような功徳を持つのかということを理解するのは難しいことではないでしょう。しかし、在家の者がただ念仏するという簡単な行でこの上ないさとりの世界へ往生していくという教えには、さぞ衝撃を受けたに違いありません。その舎利仏が信受していったのは、おそらくお釈迦さまのこの言葉によってではなかったかと思います。

 われいま阿弥陀仏の不可思議の功徳を讃歎(さんだん)するがごとく、・・・
(註釈版聖典』125項)

 お釈迦さまがこれまでお説きになっていたのは、すべて阿弥陀如来のはたらきの徳であったというのです。この上ないさとりの世界が建立されていることも、その世界には在家の者がただ念仏して往生していくことができることも、すべては阿弥陀如来の不可思議の功徳として説かれていたのでした。お釈迦さまだけではなく、東・南・西・北・下・上の仏がたもまた、「この不可思議の功徳を称讃し」ておられるのです。私が口に念仏を称えることに功徳があるわけではなく、あるいは、智慧第一と言われる舎利弗であったからこそ、このことを信受できたのではないでしょうか。
 私が浄土というさとりの世界へと生まれることができるのは、如来のはたらきによるものでした。お釈迦さまは舎利弗に対して、ちょっとぐらいの善いことを行ったり功徳を積んだからといって、阿弥陀如来のさとりの世界へ生まれることはできないと説かれましたが、この私はちょっとぐらいの善いことすらできない煩悩具足の凡夫なのです。それどころか、「歎異抄」に示されるように、浄土に往生することすら素直にありがたいと思うことができず、むしろ苦悩に満ちたこの迷いの世界を捨てることができないでいるのが、私の姿なのです。それなのに、「浄土はなはだ往き易し」と示されるのは、浄土に往生していく力が私の方にあるからではありません。私が迷いの世界にあることを知らせ、さとりの世界へと生まれてこいと願われて、私を浄土へと往生させる、そのはたらきのすべては、如来の側にあったのです。如来の不可思議のはたらきによって私が浄土に往生させていただく、だから浄土は「はなはだ往き易」い世界なのでした。

わが名よ、広く聞こえよ

 私を浄土に往生させようという如来の願いは、『仏説無量寿経』に説かれています。
すなわち、ご本願である第十八願を含め、四十八の願いが示されているのですが、続いて、その仏の願いをもう一度重ねて誓われる「重誓偈(じゅうせいげ)」と言われる偈文(仏の教えや仏・菩薩の徳を韻文の形式で述べ讃えたもの)が置かれています。ご本願では「ただ念仏して浄土に生まれてこい」と願われているのに対して、この「重誓偈」では「わが名よ、広く聞こえよ」とだけ言われているのですが、ご本願に誓われている念仏が出てこないのは不思議な感じもします。しかし考えてみれば、私が浄土へ往生する全てのはたらきは如来の側にありました。「わが名よ、広く聞こえよ」という誓いは、そのことが私に届いてしっかりと受け止められるように、と願われているのです。私がお念仏するのは、それがしっかりと受け止められているということなのです。あたかも生まれたばかりの赤ちゃんに対して、お母さんが「私がお母さんですよ」と繰り返し呼びかけるのと同じように、「わが名よ、届け」と如来の方が願われているのです。私が念仏するその前に、如来が私に喚びかけておられるのでした。
 「仏号はなはだ持ち易し」と示されているのは、ただ念仏が簡単な行だというだけではなく、如来の方が先に喚びかけてくださっているからこそ、私の口に仏の名が称えられるのでしょう。仏号はなはだ持ち易し、浄土はなはだ往き易し・・・。私たちがお念仏していくこともお浄土に往生していくことも、それが易しいと言えるのは、私が浄土に往生しようと願うよりも前に、私を浄土に往生させずにはおかない如来さまの願いがあったからなのです。

(安藤光慈)

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