2015年表紙 智慧・慈悲のはたらき そのものが「仏」なのです 法語カレンダー解説

2015top智慧と慈悲

 

二〇一五(平成二十七)年法語カレンダーのテーマは、前年と同じ「智慧と慈悲」としています。

 

現代社会は、科学技術が急激に進歩し大変便利になっている半面、若い人たちも年配の方がたも、携帯電話やスマートフォンなどの機器を相手とするばかりで、人びとが互いに直接触れ合い語り合うとか、交流し合うという場が少なくなってきているように感じられます。そこには、自己中心的なこころから欲望や怒りをぶつけ合うという、まさに釈尊が示された煩悩に支配される迷いの中で私たちの苦悩の姿だけは相変わらず、いやなお一層際立って現れていると思われます。

 

人としてまことの生き方ができているのか、と振り返るとき、真実に目覚められた阿弥陀如来の智慧に照らされ慈悲心にいだかれてこそ、私たちのあるべき姿を見つめることができるものといえるでしょう。

 

その意味で、「智慧と慈悲」をテーマに先人のおことばをいただくことにいたしましょう。

 

 

智慧の光明

 

親鸞聖人の『浄土和讃』には

 

智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし
真実明(しんじつみょう)に帰命せよ

(『註釈版聖典』五五七頁)

 

とうたわれています。『聖典セミナー「三帖和讃I浄土和讃ヒ(黒田覚忍、本願寺出版社)では、

 

阿弥陀如来の智慧から放たれる光明は、人間の力によってはとても量り知ることができない。いつの時代も、どんな国のどのような衆生もみな、この如来の光照をこうむって、煩悩の闇をはらし明るい世界をたまわらないものはない。
真実の智慧の如来である阿弥陀如来に信順したてまつれ。

(黒田覚忍『聖典セミナー三帖和讃I浄土和讃』二二頁、本願寺出版社)

 

と現代語訳されています。すなわち如来の智慧の光明に照らされ、そのはたらきに導かれてこそ、欲望や怒りなどの煩悩の闇が晴らされて、真実に眼(まなこ)ひらかれるという、如来の智慧のはたらきが示されています。

 

 

大悲 ものうきことなく

 

また、『正信偈』には

極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)

 

極重の悪人はただ仏(ぶつ)を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。

(『註釈版聖典』二〇七頁)

 

とあります。『教行信証』には

 

《源信(げんしん)和尚は》「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明のなかに摂め取られているけれども煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」と述べられた。

(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 一五一頁)

 

とありますように、阿弥陀如来の大慈悲のはたらき(光明)に照らされてこそ、自分中心の欲望などの煩悩に支配されているこの「私」のそのままを見捨てることなく、真実の安堵の世界へと導かれるというように、大悲のはたらきが説かれています。

 

 

智慧・慈悲が「仏」そのもの

 

表紙の法語は坂東性純(ばんどうしょうじゅん)先生(一九三二~二〇〇四)のおことばをいただきました。

 

智慧・慈悲のはたらき そのものが 「仏」なのです

 

というおことばです。前述のように、悟り(正覚)を成就された「仏」の仏たるところは、そのおはたらき、すなわち智慧の光明がこの「私」を照らし慈悲の大きなはたらきがこの「私」を包み込んでくださっている、ということですから、まさに「智慧と慈悲のおはたらき」が「仏」そのものであるということを、ここに、そのままに示されています。

 

お仏壇などで、阿弥陀如来の木像や絵像の掛け軸を安置して、合掌礼拝させていただくのは、いわゆる礼拝の対象としての木像あるいは絵像の阿弥陀如来なのですが、坂東先生はこれを、

 

じっとしていらっしゃる「方便の仏さま」であり、「物体」なのです

 

といわれます。

 

私たちは時間・空間の世界に生きているので、目に見える姿かたちによらなければ受けとめられないため、姿かたちに示してくださったのが、木像の阿弥陀如来立像であり、絵像であります。すなわち、私たちが拝見し親しむことができるお姿に示された「方便の仏さま」で、絵像にはその裏に「方便法身の尊形(そんぎょう)」としるされています。この姿かたちにお示しくださった「方便の仏さまによって「本物の仏さま」へと導いてくださっている、その「本物の仏さま」は生きとし生けるものにはたらきかけてやまない、大いなる「智慧・慈悲」の光明でありおはたらきなのだといわれています。

 

 

「動仏」と「静仏」

 

坂東先生は、さらに、大谷大学学長をされていた山口益(すすむ)先生(一八九五~一九七六)が「静仏(せいぶつ)」と「動仏(どうぶつ)」というおことばで、仏さまについてお示しくださったと紹介されています。

 

〔煩悩に支配されて汚れきっている私たちを〕浄らかにしてくださるというはたらきをなす仏さま「動仏」が「本物の仏さま」であって、木像や絵像の仏さまは、その仏像そのものは動かない「静仏」、すなわち「方便の仏さま」である、といわれます。

 

一般に「嘘も方便」といわれ、「方便」というと嘘のように、あるいは偽物のように理解されがちです。しかし木像や絵像の仏さまは、姿かたちでしかとらえられない私たちに、三昧の中にある「仏」の姿を示してくださった、それによって「本物の仏さま」へといざなわれることになる、その意味で本当のはたらきをなす「方便の仏さま」ということになります。

 

このように、「本物の仏さま」は、大智慧・大慈悲の光明が「私」の上にはたらいてくださっている、そのおはたらきが「仏」そのものである、といわれるのです。

 

 

「私」のために説かれている

 

この「智慧・慈悲」のはたらきということについて拝聴していると、ご縁あって親しくさせていただいたスイスの信楽寺代表のジャン・エラクルさん(一九三〇~二〇〇五)のことを思い出します。エラクルさんについては、昨年の『平成二十六(二〇一四)年月々のことば』でも取り上げましたが、ここにも取り上げてそのこころをさらに味わいたいと思います。

 

エラクルさんは、若くして司祭になり教会でキリスト教伝道にあたっていたのですが、修道院で「黙想」に傾倒され、東洋の神秘的な文化にも惹かれ、次第に仏教を学び、ついに浄土真宗の本願力に救われる教えに転向(回心)されたのでした。

 

ジュネーブの市街地のビルの一角(日本でいうとマンションといえるでしょう)に真宗寺院「信楽寺」を開設され、朝夕のおつとめに「正信偈」を、日本と同じ作法で勤行されます。ゆっくりと落ち着いた調子で朗誦されるのですが、前述した源信和尚の句「・・・・大悲無倦常照我」になるとヽ声が詰まってしまうと言われるのです。

 

〈大悲ものうきことなく常にわれを照らしたまふ〉・・・・いつも、この句になると、感無量になってのどが詰まり涙が出てくるのです

 

と言われます。なぜかというと、

 

これは、私のためにお説きくださっているおことばなのだといただかれて、感激して慶喜のあまり、声が詰まり涙があふれてくるのです……

 

と言われるのです。

 

エラクルさんは、まさに大悲のおはたらきにつつまれているということでしょう。

 

ここに慈悲のはたらきが、今はたらいているということを知らされます。これこそ「仏」そのものであり、「本物」の阿弥陀如来さまがここにはたらいてくださっている。智慧の光明として、慈悲の光明として、本願のはたらきとして、今ここにエラクルさんの上にはたらいている、そして「私」の上に、すべてのものの上に「本物の仏さま」がはたらいてくださっている、そのようにいただかれるのです。

(佐々木恵精)

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