2018年12月 自然というはもとよりしからしむるといふことばなり。

「自然法爾」法語とは


今月のことばは、『末灯紗』(『親鸞聖人御消息』)から取り上げられたご文です。

「自然(じねん)」といふはヽもとよりしからしむるといふことばなり。
(『註釈版聖典』七六八頁)

親鸞聖人は多くの著述を残しておられますが、その中には明らかに法語という形で門弟に伝えられているものがあります。「自然法爾(じねんほうに)」もその一つです。現在、披見できるものとしては、真宗高田派顕智上人(けんちしょうにん)書写本、蓮如上人(じゅうかくしょうにん)文明版『正像末和讃』末尾に置かれるいわゆる和讃本、そして従覚上人篇の『末灯紗』本、の三本があります。
三本を比較すると、『末灯紗』には「獲得名号」の文字及びその説明が欠けているということがありますので、まずその文を示しておきます。

 「獲(ぎゃく)」の字(じ)は、因位(いんに)のときうるを獲といふ。「得(とく)」の字は、果位(かい)のときにいた
りてうることを得といふなり。
「名(みょう)」の字は、因位のときのなを名といふ。「号(ごう)」の字は、果位のときのなを
号といふ。              (『正像末和讃』、『註釈版聖典』六ニー頁)

ここでは、有名な「獲得名号」の意味を、一字ずつ使い分けて説明されます。また、和讃本には二つの和讃が添えられています。なお、この「自然法爾」法語が著された時の聖人の年齢につきましては、三本間で八十六歳、八十八歳と一定していないため、断定することは難しいのですが、ともかく最晩年のものとして、親鸞聖人の生涯の結論が示されているとうかがうことができるわけです。 ところで、今月のことぼは、その法語「自然法爾」の中の言葉ですが、この一行だけではなく前後の文章も合わせみていくことによって、その深い心を味わうことができるように思われます。そこで、最初に掲げた文に続く文章を添えて、今一度書き出しますと、

「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
弥陀仏(みだぶつ)の御(おん)ちかひの、もとより行者(ぎょうじゃ)のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)とだのませたまひて、迎(むか)へんとはからはせたまひたるによりて、行者のよがらんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候(そうろ)ふ。
(『註釈版聖典』七六八~七六九頁)

とあります。はじめに自然ということを短く説明し、後に少し詳しく説き示される形になっています。

はからいの否定

このわずかな文章の中に、「行者のはからいにあらずして」、「(弥陀仏の)はからわせたまいたる」と、「はからい」という言葉が二度も出てくることも、注意されることです。親鸞聖人は、私がはからうということを一番嫌われました。ですから、「御消息」全体の中には何度もはからいという語が出てきますが、それらははからいを否定されるためでありました。「自然法爾」法語の最初では、「自然」の「自」を解釈されて、

  「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。
(『註釈版聖典』七六八頁)

と、「行者のはからいにあらず」といわれ、また「然」についても、

「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず                 (『註釈版聖典』七六八頁)

と、「行者のはからいにあらず」と同じようにおっしゃっています。
ともかく、はからうということ、往生のために善行を積んでいかなければならない、悪行の身では往生できないであろうと思うこと、このことが一番問題であったということです。そして、阿弥陀さまのはからいにおまかせしていくこと以外に、往生の道はないということであります。
阿弥陀さまのはからいとは本願のことで、阿弥陀さまの本願がそうさせるということです。阿弥陀さまの本願は、私の思慮分別を当てにされず、先だって南無阿弥陀仏と帰依させて、浄土に迎えようとお考えくださったのです。それは、阿弥陀さまの方から私を本願に遇わせるように仕向けてくださったということです。私の方からはたまたまですが、阿弥陀さまの方からは遇わせるようにはたらいてくださっているということです。
こんな讐えでお話しになる方もおられました。向こうから照らす無傷光によって闇が破られるならば、闇の方から「どうしたら晴れるだろうか」という心配をする必要はないのです、と。また、無傷光の暖かさで氷が溶かされていくならば、氷の方からどうして溶けようかと心配する必要はない。ただ、あるがままに照らされれば、闇はおのずから晴れ、氷はおのずから溶かされるとも。

絶対他力をあらわす言葉

さて、今月のことばの中から、「もとより」という言葉に注意してみたいと思います。
この語を辞書でみますと、「前から、古くから、いうまでもなく」と出てきますが、ここでの意味とは少し距離があるようです。では、ここの「もとより」はどんな意味でしょうか。やはり、阿弥陀さまからの一方的なはたらきを含んだ言葉といえましょう。行者のはからいに先だってという、時間的な意味も含まれているだろうともいわれています。もともと如来の性質として持っているはたらきを説明しようとしている言葉と受け取ることができます。
また、「もとより」を私たちが生まれる前からと考えますと、阿弥陀さまはすでにちゃんと仕上がった浄土から、私たちを待っていてくださる、このようにも味わうことができます。
そして、「しからしむる」と続けて読んでいきますと、その心がいっそう伝わってくるようです。自然という言葉に寄せて、他力ということをあらわしたということができるでしょう。
ところで、従来より自然の語について、いろいろ説明がされてきました。その中の一つに、阿弥陀さまのはたらき、絶対他力をあらわす言葉であるという見方があります。

①信心を得ることの他力自然をあらわす。
②現生で種々の益を得ることの他力自然であることを明かす。
③浄土に到ってさとりを開くことの他力自然であることを示される。

①の例として挙げられるのが、『唯信紗文意』に、

金剛(こんごう)の信心(しんじん)をうるゆゑに憶念自然(おくねんじねん)なるなり。この信心のおこることも、釈迦の慈父・弥陀の悲母の方便によりておこるなり。これ自然の利益なりとしるべしとなり。                      (『註釈版聖典』七〇二頁)

とある言葉です。憶念の信心が起こるのは、自然の力によって起こるのであって私か起こすものではない、阿弥陀さまのはたらきによってたまわるものであります。
②の例としては、「正信渇」の、

煩悩断(ぼんのうだん)ぜずして涅槃(ねばん)を得、すなはちこれ安楽自然(あんらくじねん)の徳(とく)なり。
(『註釈版聖典』五四九頁)

安楽土(あんらくど)に到(いた)れば、かならず自然に、すなはち法性(ほっしょう)の常楽(じょうらく)を証(しょう)せしむとのたまへり。                            (『同』五五〇頁)

というご文があります。
このように、他力自然と申しましても、信心を得ることも、現実で種々の利益を得ることも、そして、浄土に到ってさとりを開くことも、自然の語を用いることによって他力によるものであることが示されているのです。

自然のはたらきとしての転成

親鸞聖人は、また自然を転ずるということと関係付けて語られています。『唯信紗文意』には、

自然といふはしからしむといふ。しからしむといふは、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去(かこ)・今生(こんじょう)・未来(みらい)の一切の罪を転ず。転ずといふは、善とかへなすをいふなり。             (『註釈版聖典』七〇一頁)

と述べられています。自然が罪を転じ善と変えていくというのであります。
親鸞聖人は、救われるということを語られる場合、「転じられる」という表現をされます。その意味をわかりやすいように、川の水が海に流れ込むと、海はすべての川水を分け隔てなく受け入れて、しかも一味に同化していくことに讐えられます。
そのことを、「智慧のうしは(潮)に一味なり」(『高僧和讃』)とか「大悲心とぞ転ずなる」(『正像末和讃』)といわれるのであります。
ともかく、自然ということが転ずるということに大きく関わっているというよりも、自然のはたらきが転成ということを促しているということでありましょう。
自然を「おのづから」「しからしむ」と読まれた親鸞聖人は、人間のはからいを超えた阿弥陀さまのはたらきによる救いをあらわす語とされたのです。

願心荘厳の浄土

ところで、この自然について『教行信証』を中心にみていきますと、まだ独自の釈ははっきりとはみられないようです。『教行信証』が漢文であるという理由も考えられるかもしれません。それに対して和文の著述では、自然について釈しか文章が散在しており、ある先生は、いきいきとした独自のリズムさえ伴っているといわれます。このことは、和語の聖教が思想円熟した時期に著されたものであることを改めて示すものといえるでしょう。今、「独自のリズムさえ」といわれる言い方が、私の心に残ります。
ご和讃にも、自然の語がみられます。

定散自力(じょうさんじりき)の称名(しょうみょう)は
果遂(かすい)のちかひに帰(き)してこそ
をしへざれども自然に
真如(しんにょ)の門(もん)に転入(てんにゅう)する         (『浄土和讃』、『註釈版聖典』五六八頁)

と詠われる中に、また、

清風宝樹(しょうふうほうじゅ)をふくときは
いつつの音声(おんにょう)いだしつつ
宮商和(きゅうしょうわ)して自然なり
清浄薫(しょうじょうくん)を礼(らい)すべし                  (『同』五六三頁)

にも自然の語が用いられています。それによって、和讃に響くものが生まれているようであります。
そして、「自然はすなはち報土なり」(『高僧和讃』)、あるいは「自然の浄土をえぞしらぬ」(『浄土和讃』)と述べて、自然とは浄土のことを示しておられるということがわかります。報土とは浄土のことをいい、阿弥陀さまの願行に報いて成就された国土という意味ですから、浄土は本願によって荘厳された世界であるということがいえます。
また、自然とは、もとは「いろもなし、かたちもましまざず」(『唯信紗文意』)といわれる形なき一如から、法蔵菩薩として形をあらわされ本願を建てられた時の、衆生の救済を願う願心をあらわす語であるともいえましょう。ですから、「自然の浄土」という時には、「願心荘厳の浄土」の語が重ねられていきます。 浄土は創造されたものではありません。願心によって荘厳されたものですから、阿弥陀さまの願心に聞いていくことが大切だといえます。壮大・華麗な荘厳を成り
立しめている、阿弥陀さまのお心を聞かせていただかねばならないと思いながら、お言葉を味わっています。
(大田利生)

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