2018年11月「聞」といふは如来のちかひの御なを信ずと申すなり。

浄土真宗は「聞の宗教」

今月は、『尊号真像銘文』の次の言葉を味わってみたいと思います。

「聞」といふは如来のちかひの御(み)なを信(しん)ずと申(もう)すなり。(『註釈版聖典』六四五頁)

浄土真宗については、「聞の宗教」あるいは「聞名の宗教」という言葉であらわされる場合があります。教えの内容をそのままあらわした言い方であります。どの宗教でも聞くということを語りますが、聞の宗教とまではいいません。したがって、この「聞の宗教」という言い方には、浄土真宗の立場、その特色がそのまま出ていますから、もっと用い、さまざまな場面で出していってもいいのではないかと思われます。
では、「何を聞くのか」ということになりますが、申しあげるまでもなく、阿弥陀如来の本願を聞かさせていただくのです。それは、浄土真宗とは本願そのものであるといえるからです。
その聞くといくことについて、親鸞聖人は『尊号真像銘文』では、冒頭に掲げられている法語のように説明されますが、『教行信証』「信文類」では、

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。   (『註釈版聖典』二五一頁)

と釈されています。ここに「聞」というのは、『仏説無量寿経』(『大経』)という経典に説かれるものであることが示されています。ですから親鸞聖人が、聞ということ、聞名を特に強調される背景には、『仏説無量寿経』という経典があったということです。いうまでもなく親鸞聖人の教えが『仏説無量寿経』、特にその本願によって構成されていることを考えれば、当然のことであります。今『仏説無量寿経』をみますと、多く本順に「我が名字を聞く」ということが誓われています。また、本願成就文には、次のように説き示されています。

あらゆる衆生、その名号を聞きて俗心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に馬連と願すれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹鳳正法とをば除く       (「註釈版聖典」四一項)

さらに、経典の最後にも、仏の名弓を聞くことを得て大利を得ることがが明かされています。
このように、名を重んずるという思想は、インドでも古くからあったといわれますが、おそらく『仏説公量寿経』もそう流れを受けていることがが想像されます。古代インドの名に対する観念と浄土経典のそれでは違いがあることも学者によっていわれていることですが、そういうことはは専門家にお任せすることににしましょう。
とにかく、『仏説無量寿経』には、阿弥陀仏の名を聞くことの大きな意味が説かれているのです。そして、「聞其名号」(その名号を聞きて)の語に続いて「信心歓喜」とありますように、聞くことと信ずることとは一つであることが示されていることも大事な点であるといえます。私たちは、聞くことと信ずることとは一つだとは思っていません。日常生活の中ではまず一緒に考えることもありませんし、聞いたら信ずる気持ちになったとはいいません。

法蔵菩薩の成仏と名号の成就

では、阿弥陀仏・本願・名号は、経典にどのように説かれているのでしょうか。少しく『仏説無量寿経』の内容を辿ってみることにします。燃灯仏にはじまる過去仏の系譜の中で、最後に世自在王仏が現れた時、一人の国王(後の法蔵菩薩)がその教説を聞いて、無上の菩提心を抱き、「願はくは仏、わがために広く経法を宣べたまへ」(『註釈版聖典』 一四頁)と請われ、世自在王仏との問答が始まります。そして、世自在王仏によって二百十億の諸仏の国に住む人天の善悪、国の優劣を説き示された法蔵菩薩は、それを目の当たりにされ、殊勝の願を起こし、五劫の間思惟され、真実の浄土とそこに生まれるための行を選ばれました。そして世自在王仏に促され、殊勝の願である四十八願を明らかにされました。この四十八願の中で他力救済の根拠が見出される第十八願こそが、根本の願となります。経典では、さらに法蔵菩薩の修行について語り、本願を成就して阿弥陀仏となり、それ以来十劫を経て、今極楽浄土にまします、と説かれています。
この阿弥陀仏は、光明無量・寿命無量の仏です。煩悩に覆われた私の眼には見ることのできない仏です。そこで願いのとおりの仏として言葉になって、すなわち名号となって、私のところに到り届いておられるのです。その名号には仏の徳のすべてが込められています。ですから、お念仏申すということは、仏が私と一緒におられるということです。また名号とは、仏の名前であるとともに、仏の名のりであるといわれます。こうして、声となって喚んでいてくださるのが名号であります。 本願成就の名号と呼ばれ、本願によってできあかっか名号ですから、名号のいわれを聞くということは、本願のいわれを聞くといっても同じことであります。冒頭に掲げられている「如来のちかいの御な」とある文によっても、誓いと御名(名号)のその意が理解されるところです。

仏願の生起本末と二種深信

さて、先に挙げました「『経』(大経・下)に「聞」といふは」という文ですが、これによって、「聞とは仏願の生起本末を聞くことである」と示されています。
阿弥陀さまが衆生救済の本願を起こされた理由が「生起」であります。それは、ここに流転輪廻して迷い続けている私かいるからです。阿弥陀さまはそういう私を哀れんで、なんとしても仏に育てあげてやりたいという心から、本願を起こされたのであります。ですから、二種深信でいえば機の深信にあたります。
機の深信で思い出すことがあります。それは十数年前にカナダへ布教に行った時のことですが、その当時の開教総長さんからお聞きしたお話です。あるところにお参りに行かれた時のこと、前回は玄関に「犬に注意」と貼ってあった紙が、二度目には「人間に注意」と書かれてあったそうです。家の中には悪い人間が住んでいるという思いからでしょうか、そして機の深信ですね、とおっしゃっていたことが思い出されます。
次に「本末」ですが、これは本願が成就して、現に私たちを救済しつつあることをいいます。「生起」が機の深信にあたれば、「本末」は法の深信に対応させることができます。そして「疑心あることなし」といわれます。このように、信と疑を対応させながら挙げられるのは、やはり『仏説無量寿経』の説き方がそのようになっているからです。
経典の終盤では、浄土への生まれ方に二種類あることが示されています。一つには仏智を信ずる者は化生という生まれ方をし、今一つは仏智を疑う者は胎生という生まれ方をします。この胎生については、

五百歳のなかにおいてつねに仏を見たてまつらず、教法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見ず                     (『註釈版聖典』七七頁)

とあり、このような浄土への生まれ方を勧めているとは考えられませんから、やはり正しい信を勧め疑いを誠めたものと思われます。『教行信証』が真実と方便の巻に分けられていることも、この『仏説無量寿経』の説かれ方によられたものと考えられます。

許され聞き届けられた信

ところで、聞とは聞受の意味だということを聞いたことがあります。聞受とは、自分の方から聞き出すということではなく、他から受けたということをあらわす言葉である、と。聞という文字の性格をよくあらわした言い方だと思います。受け入れるということが重要になってくるからです。本願を受け入れるかどうかということが問題なのです。もちろん、受け入れる、入れないは自由です。しかし、受け入れない人には浄土が開けてこないということです。
親鸞聖人は『教行信証』「化身土文類」で、聴聞という言葉に、「ユリテキク信ジテキク」(『浄土真宗聖典全書』第二巻・宗祖篇上、二〇一頁)と左訓を施しておられます。「ユリテキク」(許されて聞く)ということは、聞き届けられてる、受け入れられているということです。
現代は、受け入れる心が次第に失われていくように思われます。受け入れている時の姿には美しいものがあります。月は自分で輝いているのではありません。太陽の光を素直に受け入れて、あのようにきれいに見えるのです。私は、その姿を妙奸人に見る思いがいたします。希有人・最勝人とほめ讃えられるのは、如来の本願を素直に受け入れているからです。また、「許されて聞く」には聞き届けられている、そういう意味もあります。私か聞くはるか以前から、阿弥陀さまは私のことを聞いてくださっているということです。そして、「信じて聞く」、ここに聞即信の意があらわれているといえましょう。

本願を聞思し変わる人生

そして、今一つ、『教行信証』総序の文に注意したいと思います。それは、

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
(『註釈版聖典』 一三二頁)

の文です。摂め取って捨てないという阿弥陀さまの本願、そのまことのみ言葉、この世を超えさせていただく正法に遇うことができたことを、「誠なるかな」と仰せになるのです。聞思してとは、間違いなく救うというご本願の心を聞いて思い取らせていただくのです。遅慮とは、「ああだ、こうだ」と思い煩ってはからうことなく聞いていきなさい、このようにうかがうことができます。
親鸞聖人の生涯は、本願を聞思する生涯であったといえます。本願に聞き名号のいわれを聞きはじめると、生き方に変化が起こるのでしょうか。あるいは、まったく変わらないのでしょうか。そこで、「御消息」の第二通に眼を向けてみたいと思
います。そこには、

まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞑恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききけじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。
(『親鸞聖人御消息』、『註釈版聖典』七三九頁)

と述べられています。
本願を知らなかった者が、教えを聞き始めると、少しずつ変わっていく様子が読み取れます。もちろん、臨終の一念ま煩悩はなくならないのです。それでも少し変わっていくところがあれば、周囲にも法が伝わっていく契機になるように思われ
ます。お互い聞法することを忘れないようにしたいものです。
(大田利生)

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