切り離せない身と心
今月のことぼは、『唯信鈔文意』の中から選ばれたものです。
煩(ぼん)は身(み)をわづらはす、悩(のう)はこころをなやますといふ。(『註釈版聖典』七〇八頁)
親鸞聖人は、よく文字を使い分け分析して、それぞれの意味を示されることがあります。分釈(ぶんしゃく)といいます。今は、煩悩を「煩」と「悩」に離して解釈されていますが、このような例は、ほかにもいくつかあります。歓喜・自然・名号などに行われています。聖人は、このような釈の仕方がお好きたったと思われます。
たとえば、『一念多念文意』には、次のような文が見られます。
「歓喜(かんぎ)」といふは、「歓(かん)」は身をよろこばしむるなり、「喜(き)」はこころによろこばしむるなり。 (『註釈版聖典』六七八頁)
この文意は、身と心は切り離して考えることはできないということでしょう。ここでは身と心ですが、これをフ心と形」と置き換えて味わうこともできます。
あるお寺の掲示板に、こんな言葉を見たことがあります。
こころは、形にあわわれ
形は、こころをつたえる
私たちは、心が大切だ、いや形式から入っていかねばだめだと、心と形を分けて考える傾向があります。しかし、この言葉をじっと眺めていますと、心と形はけっして別物だといってしまうことはできないように思えてきます。
三毒の煩悩
ところで、親鸞聖人の著述をみていきますと、煩悩という文字、そしてそれを冠しか、煩悩成就・煩悩具足・煩悩熾盛といった四字熟語が、眼に入ってきます。そしてこれらの語は、凡夫・衆生を説明する文脈の中で出てきますので、私か今どのような生き方をしているかということと関わって、深く昧わっていくべき言葉であります。その文を、二、三挙げておきましょう。
煩悩成就(ぽんのうじょうじゅ)の凡夫(ぼんぶ)、生死罪濁(しょうじざいじょく)の群萌(ぐんもう)
(『教行信証』「証文類」、『註釈版聖典』三〇七頁)
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常(かたくむじょう)の世界(せかい)
(『歎異抄』後序、『註釈版聖典』八五ご丁八五四頁)
煩悩熾盛(ぽんのうしじょう)の衆生(しゅじょう)をたすけんがための
(『歎異抄』第一条、『註釈版聖典』八三一~八三二頁)
などです。
私たちは、この三つの文から、この私か煩悩によってできあがり、煩悩を抱え、そしてその煩悩の勢いが強いこと、そんな煩悩と私の関係があらわされているとうかがうことができましょう。
さて、煩悩という言葉ですが、日常生活でも、ちょっとした会話の中で出てくることがあります。あの人は子煩悩だと。もちろん悪い意味ではありません。子どもへの愛情が、そういう言葉に置き換えられているからです。また、大晦日に撞かれる百八つの除夜の鐘は、それだけの煩悩を一撞きごとに一ずつなくしていくんだ、という説明を聞くことがあります。といたしますと、煩悩という言葉もまったく日常生活から姿を消しているわけではありません。ともかく、煩悩ということについて少し考えてみることにしましょう。
たくさんある煩悩の中で代表的なものが三つあります。三毒の煩悩」という言
い方をします。それは、貪欲・瞋恚・愚痴をいいます。
貪欲とは、貪(むさぼ)り、執着することであります。自分のものにしたいという心です。
あるいは、自分の都合のいいものをほしがる我欲ということです。しかし、自分のものにしましても、いつかは手放したり、別れたりしていかねばなりません。だから、そこで苦しみが生じてくるのです。愛別離苦(あいべつりく)とはそのことをいいます。したがって、その苦しみから逃れるには、愛欲の心を捨てる以外にない、仏教にはこのように煩悩を断つという立場もありますが、はたしてそれができるでしょうか。
また、怒りについても同じです。瞋恚といわれる私たちの心、これは貪欲と対極にあるものと考えられます。そして、怒りはしばしば火に讐えられます。貪欲を自分の枠の中へ引き入れようとする心だとすれば、瞋恚は憎しみの心を起こすわけですから、枠の外へ追い出すことに讐えられるからです。小さな火でも放っておきますと、次第に激しく燃えあかっていきます。そして、すべてを焼き尽くしていきます。
この貪欲と瞋恚が心情的なものといたしますと、愚痴の「痴」は、知的な煩悩だといわれます。真実に暗いということ、それは無知ということだからです。諸行無常という仏教の道理に暗いということ、だから迷い苦しんでいるということです。
二河白道の讐えと凡夫
今、貪欲・瞋恚の話をいたしましたが、頭に浮かぶのは、やはり善導大師の二河白道(にがびゃくどう)」の讐えです。その書き出しは、
人(ひと)ありて西(にし)に向(むか)かけて百千(ひゃくせん)の里(り)を行(ゆ)かんと欲(ほっ)するがごとし。忽然(こつねん)として中路(ちゅうろ)に二の河(かわ)あるを見る。一にはこれ火(ひ)の河(かわ)、南(みなみ)にあり。二にはこれ水(みず)の河(かわ)、北(きた)にあり。二河おのおの閥(ひろ)さ百歩(ひゃくぶ)、おのおの深くして底なし。
(『註釈版聖典(七祖篇)』四六六頁)
と説かれています。一人の旅人加西に向かって行くと、途中に火の河と水の河の二つの河が広がっています。その火の河が瞋恚に、水の河が貪欲に讐えられているのです。そして河は底がないほど深いというのです。これは、私たちの煩悩、貪りの心、怒りの心が限りなく深く、いつまでも体にまとわりついているということです。
人間を三種類に分けて、それぞれ怒り、すなわち煩悩の違いがどのように説明できるかという話があります。最初の人の場合は岩に刻んだ文字のような人、二番目の人は砂に書いた文字のような人、三番目の人は水に書いた文字のような人と、分けています。さて、私の抱く怒りの心は何番目になるでしょうか。おそらく一番目と答えられるでしょう。それは、岩に書いた煩悩という文字は何十年、何百年経っても消えることがないからです。砂に書いた文字は雨や風にあいますとすぐに消え、本には書くことさえできません。このことからも、煩悩はなかなか断っことができ
ないことが知られてまいります。
親鸞聖人は、『一念多念文意』の中で、次のように説き示されています。
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いがり、はらだち、そねみ、ねたかこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
(『註釈版聖典』六九三頁)
これは凡夫の説明ですが、「人間とは」と語る時には必ずといってよいほど取り上げられる文です。ただ、凡夫という語をその原意号哭してみますと、「個々別々に生を営む」ということになります。別々ということは距離を置くということでしょう。どんなに私のことを思ってくれている人とても、距離がゼロになって、自らが他であり、他が自らであるという関係にはなりません。どこまでも距離がなくならないから、さますまな問題が起こっているということでしょう。ともかく、凡夫という言葉を、このような意味からも味わうことができます。
愛憎違順の背景
先の『一念多念文意』には「無明煩悩われらが身にみちみちて」と、無明煩悩とありました。その無明ということですが、これは愚痴ともいい、無知のことをさします。ただ智慧がないということではなくて、真実を知らないということです。苦しみの起こる一番根本に位置づけられています。親鸞聖人は『正像末和讃』に、
無明煩悩(むみょうぼんのう)しげくして
塵数(じんじゅ)のごとく遍満(へんまん)す
愛憎違順(あいぞういじゅん)することは
高峯岳山(こうぶがくさん)にことならず (『註釈版聖典』六〇一頁)
と詠われています。この中で、愛憎違順という言葉に心動かされていく、そんな気持ちがいたします。私たちは、愛するということと憎むということとは大きくかけ離れ、相容れないものだと思っています。ところがどうでしょう? 愛し合っているところに憎しみが起こっている現実を見ることがあります。王舎城の悲劇もそうだと思います。みんな事件が起きた後の家庭に眼を向けていますが、事件が起きるまではおそらく阿闍世も愛情に包まれ、和やかな家庭生活が営まれていたと思います。そういう愛があるところに、家庭を崩壊に追い込む憎しみというものがあるということです。
このように考えてみますと、愛と憎はけっして切り離すべきものではないことに思い到ります。憎しみを引きずり、憎しみが絡み合った愛、その全体が愛というべきものといえましょう。
先の「愛憎違順」という言葉は、ある時は愛しある時は憎む、その振り幅の大きいことは、高い峰や山に讐えられるというのです。この語によっても、けっして愛と憎が別物と考えることはできません。
一味の世界
煩悩は、勢いよく流れ出る蛇口の水に讐えられます。ものと私を結びつけるということから、結使という言葉によってあらわされています。また、蓋という文字によっても示されます。お湯をコップに注ごうとしても、蓋をされていては入れることができません。
『高僧和讃』には、
煩悩(ぼんのう)にまなこさへられて
摂取(せっしゅ)の光明(こうみょう)みざれども
大悲(だいひ)ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり (『註釈版聖典』五九五頁)
と詠われていますが、「煩悩にまなこさえられて」とは、このことをいうのです。しかし、「摂取の光明見ざれども」と続きますが、「大悲ものうきことなくて常にわが身を照らすなり」と、歓喜の思いに支えられているのです。
煩悩の流れの中に生き、おのおのの孤独の思いを抱きつつ、迷いの世界に沈んでいるのです。そういう私たちを哀れみ悲しんでくださったのが、阿弥陀さまの大悲大願でありました。なんとしても仏に育てあげてやりたい、浄土に生まれて救われることがないようなら私も仏になりません、と誓っておられるのです。そういう世界に帰ってこそ、
煩悩(ぼんのう)の衆流(しゅりゅう)帰(き)しぬれば
智慧(ちえ)のうしほに一昧(いちみ)なり (『高僧和讃』、『註釈版聖典』五八五頁)
と、智慧のうしお(潮)に溶かされて、自他一如の世界が開けていくのです。
自分も他人もみな凡夫です。そういう姿が知らされていく時、互いに、許し合い、いたわり合い、そして、みんな尊いものを持っているのだという思いが広がっていくように思うことです。
(大田利生)