2018年9月 まことの信心のひとをば、諸仏とひとしと申すなり。

褒められて嬉しい言葉

大学の講義やお寺での法話など、人前で話す機会がありますが、「話しぶりが岡先生に似てるねえ」「黒板の使い方が似てますねえ」などと言われると、嬉しい気持ちになります。岡亮二先生は、私か学生の頃から一番大きな影響を受けた先生です。来年(二〇一九年)の二月には十三回忌を迎えます。先生の真似をしているわけではありませんが、自然と口調やものの考え方が似ているのでしょうか。
私たち仏教徒にとって言われて嬉しい言葉は何でしょうか?「仏さまのような方ですねえ」「仏さまのように穏やかな表情ですねえ」という言葉は、仏教徒にとっては最高に嬉しい言葉です。最高の褒め言葉であるともいえるでしょう。
七月に布施波羅蜜についてお話をしました。一般的には、お寺や僧侶がお布施をいただきます。その立場が逆転して、寺や僧侶が布施をすることがあります。
「エッ!?」と思われる方もいらっしやるかもしれません。
布施は、一般的には財産・金品だと考えられています。僧侶がいただくお布施の多くがそれです。では、僧侶が施す布施とは何でしょうか。法施です。法とは、仏法です。阿弥陀さまのお心を説法し、人びとの不安や畏れを取り除き、喜びを分かち合うことが、僧侶の行う布施と考えられます。
「すべての人を必ず救う」「すべての人を平等に救う」「どんな人も」「どんな自分も」「いつの自分も」常に見守り、傍に寄り添ってくれるのが、阿弥陀さまです。自分が頑張っているから救ってもらえるわけではありません。逆に、こんなに悪い自分は、さすがの阿弥陀さまも救ってくれないだろうと心配する必要もないのです。
阿弥陀さまの広いお心に触れることができるその時に、私の「浄土往生間違いなし」「成仏間違いなし」と安堵することができます。この安堵の気持ちを、一人でも多くの方と分かち合いたいと思い、阿弥陀さまのお心を語ること。これが僧侶が行うことのできる法施という布施です。

仏がたと等しい

今月のことぼけ、お手紙(御消息)にあるご文です。

まことの信心(しんじん)のひとをば、諸仏(しょぶつ)とひとしと申(もう)すなり。(『註釈版聖典』七七八頁)

七月・八月と、煩悩について話をしました。私たちは、この世に生ある限り、煩悩から逃れることはできません。煩悩具足の凡夫です。煩悩熾盛の凡夫です。私たちが煩悩から逃れることができるのは、阿弥陀さまのはたらきによって、お浄土に往生して、直ちに仏さまに成らせていただくその時です。
阿弥陀さまのお心を、その如くに受けとめることができたからといって、その人の煩悩がなくなるわけでも、減っていくわけでもありません。けれども、娑婆の縁が尽きた時に、お浄土に往生することが間違いないとわかり、仏さまに成らせていただくことも間違いないとわかる方を、「まことの信心の人」とあらわされています。この「まことの信心の人」が、「諸仏とびとし」と讃嘆されるのです。最高の言葉で褒め讃えられるのです。
けれども、私たちが注意しなければならないことがあります。「まことの信心の人が諸仏である」とはあっしゃっていません。「まことの信心」といえども、煩悩を具足している凡夫であることには変わりはありません。煩悩具足の凡夫は、けっして真実清浄な仏さまと同じではありません。煩悩のかけらもまじらない、真実で清らかな存在が仏さまです。
煩悩具足・煩悩熾盛の凡夫は、仏さまとは真逆の存在と言わねばなりません。けれどもその凡夫を「まことの信心の人」と讃え、「まことの信心の人」は「諸仏とひとし」(仏がたと等しい)と讃えられるのです。
一見、矛盾するようなことです。どのように考えればよいでしょうか。

往生・成仏は間違いない

本願寺第三代宗主の覚如(かくにょ)上人の『執持()(しゅうじしょう)』というお書物には、「死の縁無量」(『註釈版聖典』八六五頁)という言葉があります。
ご門徒が亡くなられる最期の場面に立ち会うことができればいいのですが、亡くなられてからお電話をいただき、急いで駆け付けると、こちらから尋ねることなく、ご門徒(ご遺族)の方から、最期のご様子を細かく教えていただきます。
長年患っておられた病気で亡くなられた方。その病気とは異なる死因を診察された方。さまざまです。病気以外にも、事故で亡くなる、事件に巻き込まれて亡くなる、天災…、私たちの死因にはさますまな理由が考えられます。まさに、「死の縁無量一だといえます。
また、本願寺第八代宗主の蓮如上人の「白骨の御文章」などには、「老少不定」(『註釈版聖典』 二○四頁)と示されています。
平均寿命を聞くと、まだまだ生きられると思ってしまいますが、けっしてそんなことはありませんね。年の若い者はまだまだ長生きをし、年老いた方が先に亡くなるとはけっして定まっていないということです。
いつ亡くなるのかわかりません。またどんな原因で亡くなるのかもわかりません。けれども、いつか必ず亡くなります。では、私たちは亡くなるとどうなるのでしよ
今月のことばにある「まことの信心の人」は、阿弥陀仏の大いなるお心に出遇うことができた方です。亡くなると、必ず阿弥陀さまのお浄土に往生して、必ず仏と成らせていただけることが間違いないと知ることができている方です。
この方を、臨終を待たずに、仏に等しいという最大級の讃辞をもって讃えるのです。今月のお手紙とは別のお手紙には、「我善親友」(『註釈版聖典』七五九頁)という言葉もあります。親鸞聖人が最も大切になさった『仏説無量寿経』という経典にあるお言葉です。お釈迦さまが、「我が善き親友」(私のまことの善き友)とおっしゃるのです。
この世に生きる限り煩悩真っ盛りに違いはありませんが、この世の縁が尽きる時、浄土に往生し、すぐさま仏に成らせていただけるとわかるのですから、仏と等しいと讃えられるということは、矛盾はしないことだとわかります。
けれども、本当にお釈迦さまから「あなたは私のまことの善き友ですよ」と言われたならば、恥ずかしくなって、「滅相もない」と丁重に断りたくなるかもしれませんね。それはどの讃辞なのですね。

念仏をともに称える仲間

テレビのコマーシャルで、いろいろな商品・食品が宣伝されています。商品の素晴らしさや、食品のおいしさなどが、高らかに宣伝されます。心から、その商品の素晴らしさを実感し、その素晴らしさを一人でも多くの方に知ってもらいたいという思いから、宣伝をするのです。素晴らしさを知らずに勧めているとすればどうでしょうか?
たとえば大嫌いな食べ物があるとします。見るだけでもいやな、苦手な食べ物です。プロの役者であれば、苦手で嫌いな食べ物であることを見抜かれずに、上手に芝居を演じることができるかもしれません。けれども、素人にはそのような芸当はできません。どことなく、苦手である雰囲気が出てしまうのではないでしょうか。
逆に、大好きなものであれば、思い浮かべるだけで、顔がはころんでくるかもしれませんね。大好きな人や物事について話している時には、満面に笑みを浮かべながら話しているのではないでしょうか。
「まことの信心」の方は、肩肘張らずに、阿弥陀さまの素晴らしさを語ることができるのでしょう。
はじめに、法施という布施について話しました。僧侶が阿弥陀さまについて語ることが法施であると紹介しました。けれども、法施はなにも僧侶のみができることではありません。
日々、お仏壇の前に座って合掌礼拝をする生活を、身内やご近所のどなたかが見ておられると思います。もちろん、どなたかに見せるために合掌をするのではありません。けれども、合掌をする姿を見る人が、いつか何かのきっかけで、「手を合わせてどうなるの?」「なんのために手を合わせているの?」「お仏壇って何?」「ご本尊って?」「阿弥陀さまって?」という会話になれば、自然と阿弥陀さまや親鸞聖人・浄土真宗とのつながりを紡ぐことができそうです。これも立派な法施ということができると思います。立派な法施でなくても、法施の真似事でも良いと思います。
阿弥陀さまの素晴らしさ・有り難さ・尊さなどを知っているのは、僧侶だけではありません。ご門徒も、僧侶と同様に、阿弥陀さまとともに日々を暮らしています。葬場勤行として、善導大師の『観経四帖疏(かんぎょうしぎょうしょ)』のはじめにある「帰三宝偈(きさんぽうげ)」を読誦します。その最初に「道俗の時衆等(どうぞくのじしゅとう)(『註釈版聖典(七祖鎬)』二九七百)とあります。また日常勤行として読誦する「正信偶」の最後には、「道俗時衆(どうぞくじしゅ)ともに同心(どうしん)に」(『註釈版聖典』二〇七頁)とあります。道俗とは、出家の者と在家の者です。出家の者も、在家の者も、皆区別せずに、阿弥陀さまのお心とともにあります。
ご門徒の方々が、連れ合いや七千さまやお孫さまを連れて、お寺に参る。
家族だけではなく、気の合う仲間とともにお寺に参る。
念仏をともに称える仲間を増やすことが、阿弥陀さまのもっとも喜んでくださることだと思います。また、親鸞聖人も心から喜んでくださることではないでしょうか。
そのような仲間を一人でも二人でもつくることが、仏さまのはたらきに関わるということです。
大きなお心の阿弥陀さまに、ともに「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えさせていただだきましょう。(玉木興慈)

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