「仏説阿弥陀経」の中に、極楽浄土にいる鳥として「共命(ぐみょう)の鳥」の名が見えます。「共命の鳥」とは、胴体は一つなのに、頭が二つあるので「共命」といいますが、この共命の鳥については、次のようなエピソードがあります。
鳥は木の実を餌としていますが、ある共命の鳥は、一方の頭のほうだけが、いつもおいしい木の実を先に食べ、もう一方の頭の方は、いつも残りものの木の実を食べていました。いつも残りものばかりになっている方が、そのことを不満に思っていたために、ある時、毒の木の実を見つけた時、「おいしそうな木の実がある」と言いました。こう言えば、必ずもう一方の方が、横取りして、毒の入った実を食べ、苦しむだろうと思ったのです。予想通り、さっさと横取りして、毒の実を食べ、苦しみ始めました。「やった。ざまあ見ろ」と喜んでいたところが、胴体はつながっているので、もう一方の方にも毒が回って苦しんだという話です。
私たちは、この鳥を「愚かだ」といえるでしょうか。私と他人とのつながりを忘れ、「自分が」、「自分が」と我を張っています。私と他者とのつながりを忘れて、自分ばかりを主張するから、互いにぶつかり合うことになります。それを、仏教の言葉で「我他彼此(がたぴし)」というのです。
自分のことだけ主張すれば「ガタピシ」と不快な音を立てます。かといって、自己中心的なあり方から離れることが簡単にできるわけではありません。自己主張してガタピシと音を立てるのが私たちのありのままの姿であり、互いに主張し、話し合い、論争し、そうやってつくられていくのが私たちの社会です。
しかし、「ご縁」という見方があれば、共命の鳥のように、いのちを共にしているものであると知らされて、ただぶつかり合うだけの愚かさを知り、互いの意見を尊重し、許し合い支え合う「共に」の社会を作っていく思いが生まれてくるのではないでしょうか。
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毎年お正月になると、年賀状を送ります。しかし、せっかく送った年賀状が、「宛先不明」で返ってくることがあります。どこかへ引っ越しされたのか、お亡くなりになったのか・・・・・・。原因はわかりませんが、返ってきた年賀状を見て、寂しい気持ちになった経験を持つ方も、多いのではないでしょうか。大切なご縁であっても、ふとしたことで失われてしまうのが、私たちが生きている人間世界の関係です。
それは、親子や夫婦といったかけがえのない大切な縁であっても、変わることはありません。なぜなら、「死別」を免れることはできないからです。『仏説無量寿経』には、独りで生まれ、独りで死んでいくとあります。人間は、生まれるときも死ぬときも独りであるというこの言葉には、生死のもたらす別離の悲しみが示されています。
親鸞聖人は「人間の八つの苦しみ(※1)の中で、愛別離苦が、もっとも痛切なものである」と仰ったと『口伝鈔(くでんしょう)』に伝えられています。八つの苦しみの中には、自分が老いること、死んでいくことの苦しみも含まれますが、そうした苦しみよりも、慈しみ合っているもの同士が別れていくことほど、悲しく切ないものはないと仰っているのです。この言葉からも、大切な縁が切れてしまうことの痛みの大きさが、あらためて実感されます。
そのような私たちに対して、阿弥陀さまの救いは、決して断ち切れることがない縁として届いています。はるか昔から、そして今も、未来も、「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」(掬い取って決して捨てない)として、すべてのいのちあるものの元に、阿弥陀さまの光は届いています。この誰もがつながっていける、途切れることのない阿弥陀さまからのご縁をいただいていくことを、「信心」というのです。
そして、信心をいただいた私たちは、お浄土に生まれ、仏となって、ご縁のあった人々との間に、永遠のつながりを結ぶことができるのです。
※1 「八つの苦しみ」は「八苦」といい、生・老・病・死の四苦に愛別離苦、怨憎会苦(怨み憎むものと合う苦しみ)、求不得苦(求めて得られない苦しみ)、五蘊盛苦(私たちの生存そのものの苦しみ)の四つを加えたものです。
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私たちは食前に何も意識せずに「いただきます」という言葉を発します。しかし、近ごろは「いただきます」、「ごちそうさま」の一声さえ出なくなっていると嘆く声も聞かれます。
浄土真宗本願寺派は2009年11月に新しい「食前のことば」を定めました。
【食前のことば】
● 多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
○ 深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
【食後のことば】
● 尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝(ごおんほうしゃ)につとめます。
○ おかげでごちそうさまでした。
この【食前のことば】の「多くのいのち」という表現には、多くの動植物のいのちをいただかなければ生きていけない私たちのあり方への「慚愧」の思いが込められています。
【食前のことば】は、食事が空腹を満たすだけではなく、食事というめぐみを通して、私たちの命を支えているものへの「ご縁」を知らせていただく機縁となるでしょう。
このように多くのいのちによってめぐまれた私の人生ですから、ご報謝させていただく決意が生まれます。それが【食後のことば】です。
もちろん、食事だけではありません。普段、私たちは何気なく生活していますが、その一つひとつを「ご縁」というまなざしから見れば、そこに多くの「おかげ」「ご恩」があり、私のいのちが支えられていることが見えてきます。
「ご縁」を見る習慣が身につくと、何も思わずにご飯を食べることができなくなるかもしれませんね。
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砂場で、幼い子どもが、時の経つのを忘れて、砂山を作って遊んでいるのを見かけることがあります。
大地、砂つぶ、子どもの作業、これら一つひとつが原因(縁)となり、砂山ができあがります。この中の一つの原因が欠けても、砂山はできません。そして、やがて風が吹き、雨が降り、時間が経過して、砂山は崩れていきます。色々な原因(縁)によって、形を変えていくのです。
いくつもの縁によって生まれ、また縁によって変化し続け、やがて元の形が無くなっていくありようを「無常」といいます。このように、「縁」と「無常」とは一対の言葉なのです。
多くの縁によって、この世に生を受けた幼子も、砂山が崩れて元の砂つぶに戻っていくように、やがては臨終の時を迎えなければなりません。だからこそ、急ぎ、仏とならせていただく仏縁をいただかなければならないのです。
お釈迦さまは、「縁起」こそが真理であると説かれました。この世に生まれてきた者は誰も、「縁起」と「無常」の世界を免れることができません。なぜなら、私たちの存在そのものが、「縁」でできた「無常」なものだからです。親鸞聖人は「火宅(かたく)無常の世界」と、「無常」について表現されました、私たちが生きるこの世は、燃えさかる家のように、たちまちに移り変わる世界なのです、やがては、この世での縁が尽き、終わりを迎えなければならないのが私たちのありさまなのです。
そんな無常な私たちだからこそ、いつでも、どこでも、はたらいてくださっている阿弥陀さまの慈悲によって、仏とならせていただく。その教えに今、出あい、存在の根底から阿弥陀さまの慈悲の中で生きていくことが、何よりも大切な救いとなるのです。
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「僕は誰からも必要とされていない。私なんていなくてもいいんじゃないか・・・・・」
学校や職場で、こうした思いを持つ方は、決して少なくないのではないでしょうか。最近では厳しい就職活動の中で自分の存在そのものが否定されたように感じ、自らいのちを絶つ学生がいることも報道されています。「あなたの代わりはいくらでもいる」などのように、取り換え可能な人間と言われることほど、「生きる意味」を失う体験はありません。まさに私たちは、「誰かにとって大切な存在であること」によってはじめて、「自分の大切さ」が実感できるのです。
仏教には、「インドラの網」という有名なたとえがあります。インドラとは古代インドの神様であり仏教では帝釈天(たいしゃくてん)という名で知られています。その宮殿を飾っている網の結びめの一つひとつには宝珠が結わえられており、それらがちょうど合わせ鏡のように互いに互いを映し合い、どれか一つの宝珠をとりあげれば、そこにはその他すべての宝珠の姿が映し出されているというのです。
自分の顔は、鏡に映して見ることができるように、私自身の姿についても、自分で気付くより、他者の存在を通して知らされるということがしばしばあります、同様に、他者にとってもまた、他ならない私の存在が大きな意味を持っています、このように、あらゆる存在が互いに関わりあいながら形づくられている究極的な縁起の世界こそが、私たちが生きているこの世界なのです。
今、生きているこの私こそが、実は「全ての存在にとってなくてはならない、大切な私」であることを、仏教は伝えています。
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