2011年10月 雑行を棄てて本願に帰す 法語カレンダー解説

本願に帰す

  

 九歳での得度出家から二十年間、比叡山においての日々は、この世で覚 りをひらこうとするものですから、言語に絶する厳しいものであったと推 察できますが、親鸞聖人の山での生活の詳細はわかっていません。ただ、 みずからの能力を尽くして学問にうちこみ、もろもろの修行に励んでも、 かえって苦悩は深まるばかりでした。親鸞聖人において、最大の課題は、 妻の恵信尼さまの消息(手紙)に、「生死(しょうじ)出づべき道をば、 ただ一(ひと)すぢに仰せられ候(そうら)ひしを」(『恵信尼消息』『 註釈版聖典』八一一頁)とあるように、生死の迷いから越え出る道を究め ることにあったのです。ところが、比叡山においては、かえって「いづれ の行にても生死をはなるることあるべからざる」(『歎異抄』第三条 『 註釈版聖典』八三四頁)ということを、知らされることになりました。

  

 解決の糸口すら見いだせない苦悶を胸に、訪ねた法然聖人の言葉が、ま さに乾ききった大地に恵みの雨がしみこむようであったことでしょう。こ のことに触れて『御伝鈔』第二段では、

  

真宗紹隆(しんしゅうしょうりゅう)の大祖聖人(たいそしょうにん)( 源空)、ことに宗の淵源(えんげん)を尽し、教の理致(りち)をきはめ て、これをのべたまふに、たちどころに他力摂生(たりきせっしょう)の 旨趣(しいしゅ)を受得(じゅとく)し、あくまで凡夫直入(ぼんぶじき にゅう)の真心を決定(けつじょう)しましましけり。

(『註釈版聖典』 一〇四四頁)

   

と、法然聖人に出会うことによって、ただちに他力本願の世界に入られた ようにうかがえます。ところが一方、『恵信尼消息』第一通によりますと 、

法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日龍らせたまひて候ひけるや うに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてあ りしに、ただ後世(ごせ)のことは、よき人にもあしきにも、おなじやう に、生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはり さだめで候ひしかば

(『註釈版聖典』八一一頁)

と書かれています。かつて深い苦悩をもって六角堂に百日間龍られたよう に、また同じ日数を区切って、一途に生死の迷いから越え出る道を求めて 通い続けられたというのですが、このご消息から親鸞聖人の心境がより強 く伝わってきます。

   

 私たちは日々の暮らしのなかで、愛を求め、財を求め、地位を求め続け ています。そして、それらを得るために手段を選ばず、人の心を傷つける ことにもなっています。さらに欲望はとどまることなく拡がっていきます 。もしかなえられないときには、人を怨み、社会をのろい自暴自棄になっ てしまいます。

   

 さて、法然聖人は当時、吉水において、阿弥陀仏のすくいを信じてただ 念仏するばかりであることを説いておられました。そこには、どのような 人をもすべて受け入れる、ちょうどあらゆる河川の水が流れ込む広大な海 にたとえられる、すくいの世界が示されていました。かつて三十年にもお よぶ長いときを比叡山で過ごされた法然聖人には、親鸞聖人の胸のうちが 容易に見通せたことでしょう。師と仰ぐ方からの心温まる説法によって、 親鸞聖人の苦悶はあざやかに解消していきました。そのことを『教行信証 』後序(ごじょ)で、

   

しかるに愚禿釈(ぐとくしゃく)の鸞(らん)、建仁辛酉(けんにんかの とのとり)の暦、雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す。

(『註釈版聖典』四七二頁)

   

と記しておられます。これは、親鸞聖人自身にとってはもちろん、私たち にとっての凡夫往生の道が明らかにされたのです。

   

 私たちは、直接に目にできない多くの人びと、さらには気付くことすら できない無数のいのちによって、護られ生かされていることを知らず、し たがって、自覚覚他(自身がめざめるとともに他をもめざめさせる)をこ ころがけるどころか、自害害他(白身が傷つき、他をも傷つけてやまない )の日暮らしを繰り返しています。親鸞聖人は、そのありかたをみずから のこととして「愚禿(ぐとく)」の表現をもって呼び、さらに「煩悩具足 のわれら」と述べておられます。

   

   

義なきを義とす

   
 今月の法語の「雑行」について考えてみましょう。中国の唐の時代にで られた善導大師は浄土への往生を願った方で、真宗七高僧の第五番目の方 として仰いでいます。
大師の主著である『観経疏』の「散善義(さんぜんぎ)」に、「正行(し ょうぎょう)」と「雑行(ぞうぎょう)」が説明されています。

   

 まず正行とは、阿弥陀仏の浄土に往生するための純正の行という意味で 、雑行は邪雑の行としています。もちろん善導大師や法然聖人がすすめら れるのは正行で、雑行は誡めておられます。雑行は本来、この世で覚りを ひらくうえでの行である諸善万行をもって、浄土に往生するための行とし て転用するものであるために、このように言うのです。私たちは、なにか 善いことを行って、それを認め讃えてもらって浄土に往生できると考えて いるのではないでしょうか。それは凡夫のはからいであり、かえって阿弥 陀如来の本願を疑うことになってしまいます。

   

 親鸞聖人の言葉が集められている『歎異抄』が、現代の苦悩する人びと に活力を与え続けていますが、そこに、

   

  しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき 善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪 なきゆゑに

(第一条 『註釈版聖典』八三二頁)

   

と述べられています。自力による諸善万行は、仏教一般において求められ ているところであり、親鸞聖人も比叡山時代を通して取り組まれた難行で ありましたが、それは究極的に覚りにいたることができないものでした。 今ここに、法然聖人との出会いによって「義なきを義とす」他力信心の世 界が開かれたのです。「義なきを義とす」とは、晩年に記された『御消息 』のなかで「自然法爾(じねんほうに)ということについて」においてし めされています。そこを現代語に訳して言えば、

   

「自然」ということについて、「自」は「おのずから」ということであり 、念仏の行者のはからいによるのではないということです。「然」は「そ のようにあらしめる」という言葉です。「そのようにあらしめる」という のは、行者のはからいによるのではなく、阿弥陀仏の本願によるのですか ら、それを「法爾」というのです。(中略)これは「法の徳」すなわち本 願のはたらきにより、そのようにあらしめるということなのです。人がこ とさらに思いはからうことはまったくないのです。ですから、「自力のは からいがまじらないことを根本の法義とする」と知らなければならないと いうのです。(『親鸞聖人御消息(現代語版)』五六~五七頁)

   

となります。ここでうかがえるように、「義なきを義とす」とは「自力の はからいがまじらないことを根本の法義とする」ということです。

   

 ところで、前の文中の「法爾」について一言しますと、「法」とはもの みなすべてということです。「爾」とはしかりという字ですから、合わせ ると、ものみなすべてがそうなっているということです。法然聖人の〈つ ねに仰られける御詞(二七条)〉のなかに、

   

 法爾の道理といふ事あり。ほのをはそらにのぼり、水はくだりさまにな がる。菓子のなかに、すき物ありあまき物あり。これらはみな法爾の道理 なり。

(『昭和新修法然上人全集』四九三頁)

   

があります。すなわち火(ほのを)は燃え上がるものであり、水は下へ下 へと流れていくものである。菓子(この時代は果実、すなわちくだものを 指している)には、酸いものもあれば、甘いものもある。どうしてそうな のかと言えば、結局はそうなっているということになります。それがまた 自然の道理というものなのです。したがって、「本願を信じ念仏を申さば 仏に成る」(『歎異抄』第十二条 『註釈版聖典』八三九頁)ことは法爾 の道理であると言われるのです。『歎異抄』では、前半の第一条から第十条に、門弟の唯円房が直接親鸞聖人から聞いて耳の底に強く残っている法 語を記していますが、とりわけ第一条は法義の要がのべられています。そ の冒頭が「弥陀(みだ)の誓願(せいがん)不思議にたすけられまゐらせ て」(『註釈版聖典』八三一頁)で、阿弥陀如来がなぜ私たちを救ってく ださるのかということは、どれほど頭をめぐらせ、論理をもって説明しよ うとしても不可能であることを力説されるところで、結局そうなっている としか言えないと、素直に受け取ることを勧めておられます。

   

  帰命の心

    

 親鸞聖人が「本願に帰す」と表明される、この「帰」についてさらに詳 細にうかがってみましょう。これについては、『教行信証』の「六字釈」 (南無阿弥陀仏の解釈)をとりあげなければなりません。そこでは、「し かれば、『南無(なも)』の言(ごん)は帰命(きみょう)なり」(行文 類 『註釈版聖典』 一七〇頁)からはじまって、まず「帰」の字と「命 」の字とを分けてしめされるところで、「帰」の字をいくつもの文字をも って解釈されます。

   

 その最初に「至」とあります。この意味は「いたりつく」ということで 、私たちみずからがはからうことをやめて、阿弥陀如来の本願力にいたり つくということです。

   

次に「帰悦(キエツ)」と表現されます。この悦は喜びを表す文字で、こ こに聖人はカタカナで「ヨリタノム」と読んでおられます。これが浄土真 宗のまことの信心を明かされる大切な言葉で、如来の本願力にまかせきっ たところにめぐまれるやすらぎのすがたが「帰悦」であります。阿弥陀如 来は、力のない者に如来が力となり、本当にあてにできるよりどころを持 たない者に如来が依りどころとなろうと、今はたらいてくださっています 。さらに、聖人は「帰税(キサイ)」と表現されます。税の字は「さい」 と読むときは、やどるという意味で、ここでもカタカナで「ヨリカカル」 と言っておられます。

   

 これらのことより、如来の本願をわが心の宿りとすることになって落ち 着くことになるのです。私たちは宿るところがあって、初めて心にやすら ぎが得られます。阿弥陀如来の本願は、罪悪深重にして煩悩の火がつねに 燃え続けているこの私を救うために、みずからのいのちをかけて誓ってく ださったのですから、如来の慈悲をわが心の宿りとして落ち着くすがたが 「帰税」であり、さきの「帰悦」とともに、私への阿弥陀如来の喚びかけ なのです。

(清岡隆文)

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