2012年3月 念仏のひとを摂取して浄土に帰せしむるなり 法語カレンダー解説

勢至菩薩の勧め

   

今月は、『浄土和讃』の一節から、親鸞聖人のお心を味わってみたいと思います。

   

まず、その言葉を掲げてみます。

   

念仏のひとを摂取して
浄土に帰せしむるなり
大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)の
大恩(だいおん)ふかく報ずべし

(『註釈版聖典』五七七頁)

   

(勢至菩薩は、今、この娑婆世界で、)念仏を称える人を浄土に往生させようと、護りはたらいてくださっています。阿弥陀さまに救われることによって、このような勢至菩薩の恩に深く感謝し報いなければなりません。

   

という和讃の前半部が、今月のご文になっています。

   

この和讃は、一つ前の和讃と一連のものになっています。ですから、二つの和讃を一緒に読みますと、よく理解されてきます。また第一句は、龍谷大学蔵の蓮如上人による文明五(一四七三)年の開版本、いわゆる文明本では、「念仏のひとを摂取して」とありますが、もともと国宝本(真筆本)では、「念仏のひとを摂してこそ」というご文になっています。

   

では、まず摂取についてでありますが、ここでは阿弥陀さまが摂取するという意味とは異なります。それは、摂取の主語が大勢至菩薩であるからです。この和讃は、「勢至讃」八首のなかの一首ですが、その冒頭には「『首楞厳経(しゅりょうごんぎょう)』によりて大勢至菩薩和讃したてまつる」(『註釈版聖典』五七六頁)とあり、文末には「源空聖人御本地(げんくうしょうにんごほんじ)なり」(『同』五七七頁)とあります。勢至菩薩の智慧の念仏が源空聖人という念仏者となって現れるという意味ですから、その言葉によっても、ここでは勢至菩薩の摂取をいわれているということがわかります。

   

さて、今、阿弥陀仏の摂取とは違うということを申しました。そこで、ここでの摂取とはといいますと、念仏を勧め、往生浄土の道をはずれないように護ることを意味しています。それは、

   

弥陀(みだ)・観音(かんのん)・大勢至(だいせいし)
大願(だいがん)のふねに乗じてぞ
生死(しょうじ)のうみにうかみつつ
有情(うじょう)をよばうてのせたまふ

(『正像末和讃』『同』六〇九頁)

   

阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の方がたは、本願の船に乗船して、生死の迷いの海に浮かびながら有情を呼び続け、本願の船に乗せてくださるのです。

   

と、讃詠されている和讃にも示されています。大願の船によって生死の海を渡るのが弥陀の摂取であり、有情に船に乗るように勧められるのが大勢至菩薩であります。それは言い換えると、大勢至菩薩が本願の信を勧めておられるということなのです。

   

   

影と形

   

勢至菩薩の摂取は、影の形に添うように随逐影護して浄土に帰せしめるはたらきであるといわれます。また、浄土に往生させるはからかであるといわれます。立ち上がっても、勝手に私は影と離れることはできません。私が行くところに影はついてきます。どこまでも影と一緒です。影の方からは形に寄り添って護っているようにみえます。そのようなはたらきを、「浄土に帰せしむるなり」といわれているのです。

   

また、影という文字は影現という熟語として用いられることがあります。

   

無礙光仏(むげこうぶつ)としめしてぞ
安養界(あんにょうかい)に影現(ようげん)する

(『浄土和讃』『註釈版聖典』五七二頁)

無礙光仏という姿となって、安養浄土に現れてくださいました。

   

釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)としめしてぞ
迦耶城(がやじょう)には応現(おうげん)する

(『浄土和讃』『同』)

お釈迦さまという人間界に応じた姿となって、迦(伽)耶城に現れてくださいました。

   

というように、安養界には影現といい、伽耶城には応現と使い分けておられるのも、興味深いものがあります。

   

『唯信鈔文意』には、

観音・勢至はかならずかげのかたちにそへるがごとくなり。

(『註釈版聖典』七〇一頁)

   

などと、影が形に添っていることを、仏法を護ることに喩えたり、阿弥陀仏の名を信受する者を護るということに喩えられています。

   

   

親鸞聖人の譬喩

   

親鸞聖人は、譬喩を多く用いて、教えを分かり易く示されているように思います。たとえば、如来の世界も衆生の世界も、海で表されています。「正信偈」に、

唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)
五濁悪時群生海(ごじょくあくじぐんじょうかい)
応信如来如実言(おうしんにょらいにょじつごん)

(『日常勤行聖典』一一頁)

   

(ただ弥陀(みだ)の本願海(ほんがんかい)を説かんとなり。

五濁悪時(ごじょくあくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、

如来如実(にょらいにょじつ)の言(みこと)を信ずべし。

  『註釈版聖典』二〇三頁)

   

と詠われているのがそれです。仏の世界も凡夫の世界も海だということは、何を示されているのでしょうか。それは、阿弥陀さまのはたらき場所が、この娑婆世界にあるということをいっておられるのだと思われます。この私を離れて阿弥陀さまはないということを明らかにしようとされているのだといえます。

   

また、『教行信証』行文類末の「一乗海釈」では、弘誓の一乗海を表すのに、二十八の喩えが示されています。その一つの例に磁石の喩えがあります。

   

なほ磁石のごとし、本願の因(いん)を吸ふがゆゑに

(『註釈版聖典』二〇一頁)

   

という言葉です。本願の因とは、煩悩にまみれたわれわれ衆生のことを指します。それで、磁石は鉄を吸い付けます。それは、磁石が鉄のなかに入っている状態です。鉄の方から動いているように見えますが、鉄が吸い付けられているのです。磁石が仏で、鉄が衆生と考えれば、磁石が遠くにあって、鉄が「こちらへこい」といっているわけではありません。磁石の方から鉄に入りこんでいるのです。このような状態は、摂取不捨とか他力ということを示していると窺えます。

   

他にも、親鸞聖人は譬喩をいくつか用いられ、教説のなかに彩りを添えておられるように思われます。

   

   

違いを認める

   

さて、勢至菩薩は念仏の人により添って浄土に帰せしむるという、その浄土について少し考えてみたいと思います。今、和讃に浄土の世界について、

   

清風宝樹(しょうふうほうじゅ)をよくときは
いつつの音声(おんじょう)いだしつつ
宮商和(きゅうしょうわ)して自然(じねん)なり
清浄薫(しょうじょうくん)を礼(らい)すべし

(『浄土和讃』『註釈版聖典』五六三頁)

   

お浄土で、宝樹の間を清風が吹く時には、宮・商・角・徴・羽の五つの音色が自然に調和して響き渡っています。このような清浄な薫りの浄土の主である阿弥陀さまを礼拝しましょう。

   

と述べられているなか、「宮商和して」という語に注目してみたいと思います。お浄土は、もともと不協和音である宮と商の音が和する世界だといわれるのです。これは、違いがあってこそ存在する意義があるという、考えにつながっているように思います。浄土の世界は、違っているまま、それぞれが輝いているのです。『阿弥陀経』のなかの、

   

青色(しょうしき)には青光(しょうこう)、黄色(おうしき)には黄光(おうこう)、赤色(しゃくしき)には赤光(しゃくこう)、白色(びゃくしき)には白光(びゃくこう)ありて

(『註釈版聖典』 一二二頁)

   

とある文は、そのことをあらわしています。

   

私たちは、なかなか違いをそのまま認めようとしないところがあります。よく対話するということを申します。対話には、お互いの違いをはっきりと認め合うということが、基本的な前提としてあります。説得になってはいけないということです。言葉でもそうです。たとえば、溢れるとこぼれるという二つの言葉がありますが、こぼれるは溢れるではありません。また、溢れるもこぼれるではないのです。美しいときれいという二つの言葉もそうです。しかし、また同時に、共通の現象を想像することができます。どちらの言葉も根底のところではひとつだということです。

   

このような立場に立って考えますと、お互いほめ合っている姿が思い浮かびます。先の『阿弥陀経』の言葉も、それぞれが輝いているという根底には、ほめ合っているということがあると思います。

   

『阿弥陀経』には、浄土には共命(ぐみょう)の鳥がいるとあります。頭が二つで、胴体が一つの鳥です。一身に両頭を有するというものです。このような鳥が生存するためには、互いの頭がけんかしたり嫉妬していては生きていけません。こういう話があります。

   

それは、どちらもきれいな声で鳴くのですが、いずれも自分の方が勝っていると言ってゆずらない。ある時、一方の鳥がもう一羽の方がいなければということを考えました。寝ている時に、毒を飲ませます。死んでいく様子を見ていたその鳥も、やがて毒が回って死んでしまったということです。だから、こういう鳥が存在するということは、お互いきれいな声だとほめ合っているということでしょう。

   

   

覚りの世界

   

ところで、親鸞聖人の浄土観はどのようなものでしょうか。よく知られた『御消息』のなかの文が浮かんでまいります。

   

この身は、いまは、としきはまりで候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。

(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七八五頁)

   

とありますように、親鸞聖人がお弟子の有阿弥陀仏(ゆうあみだぶつ)という方に、「お浄土でかならずお待ちしています。お会いできることを楽しみにしていますよ」とおっしゃっておられます。私たちは、この世で親子や夫婦と会っていると思っています。しかし、それは仮の出会いといえるようです。本当に出会うのは、お浄土においてであえるといえましょう。

   

また、親鸞聖人は、浄土の世界を覚りの世界として説明されています。覚りの世界だから救うということが成り立つのです。帰って行く世界を持たせていただくことは、誠に尊い、これこそ本当の幸せということであります。

   

そういう浄土への道をはずれないように念仏を勧めてくたさるのが、大勢至菩薩であり、念仏を申して生きていくということは、生きる方向性がはっきりしていくということです。先哲の歌に、

   

一輪の花を飾りて今日もまた
浄土へ帰る旅を続けん

   

というものがあります。一輪の花とは、お念仏のことと味わうことができます。一歩一歩がお浄土への旅だということは、歩む方向がはっきりしているということです。

   

あるお寺の掲示板に、

一泊の旅は楽しい
永遠に帰れない旅もある
油断すべからず

   

とありました。帰る家があるから一泊の旅は楽しいのであり、「水遠に帰れない」とは、迷い続けなければならないことをいっているのです。

   

「報ずべし」の「べし」は命令形でありますが、ここではそれを、自己の誓いとして受け止めておられるといえます。今、大勢至菩薩は法然聖人の本地でもありますが、大勢至菩薩が念仏する人をよく摂め護って弥陀の浄土へ帰入できるようにしてあげたいといわれた大恩に、深く感じ報わなければなりません。

(大田利生)

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