2013年10月 世の中が便利になって一番困っているのが実は人間なんです 法語カレンダー解説

hougo2013-10『仏説無量寿経』に、世の人のあり方を「薄俗(はくぞく)」という言葉で示してあることを思いおこします。

 

しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍(あらそ)ふ。(中略)〔欲〕心のために走り使はれて、安き時あることなし。

(『註釈版聖典』五四頁)

 

私たちは、せっかく人という深いいのちをいただいたのに、うわべだけの薄っぺらな生き方に終始しているのではないでしょうか。真なるものに触れることがないと、そうでないものを真であるかのように思い込んでしまいます。本当に出遇うべきものを見失って、目先のことにとらわれて、血眼になって争って過ぎていきます。欲張りの心のために、この身が走り回らされて、安らかな時のないままに終わっていくのです。

 

まさに現代は、「欲心のために走り回らされて」いる時代と言っていいでしょう。

 

そして、この肥大化した欲望、飽くなき利益の追求が引き起こしたものが、原子力発電所の事故だったのではないでしょうか。取り返しのつかないことになってしまいました。私たち人間の愚かさ、傲慢さを思わずにおれません。

 

確かに、電気がないと、現代の生活は成りたたなくなってしまいました。便利で快適な生活を象徴するものが電気と言えるでしょう。夜の地球を衛星から撮った写真を見て驚きました。小さな日本列島が、どこよりも明るく光っているのです。こんなにも電気を使わなければならないのだろうか。日本に住んでいると、いつの間にかそれが当たり前になってしまいます。

 

普段何気なく使っている電気が、いのちを脅かす危険きわまりないものの上に成り立っていたことに気づきませんでした。目に見えない放射能の脅威と、最終的に処理することのできない核廃棄物を、何世代も先の子孫にまで押し付けてしまう無責任さを思うと、このまま、このような生活を続けていいのだろうかと考えざるをえません。

 

この大震災を機に考え直さなければならないのは、あまりにも経済優先で突っ走ってきたこの社会にあって、一人ひとりのいのちを何よりも優先し大事にするとはどういうことだったのか、ということではなかったでしょうか。

 

 

人智と仏智

 

今月の言葉は、浅田正作さんの念仏詩集『骨道を行く』のなかの「人智(じんち)」と題されているものです。仏さまの智慧、仏智に対して、人間の智恵ということでしょうか。仏智は、とらわれを離れ、すべてをありのままに知り徹(とお)した智慧です。それは、いかなるものも分けることがありません。分けることがありませんから、対立も争いも生まれません。すべてがひとつであると、如実に見抜く智慧です。人間の智は、自分にとって都合の良いもの悪いもの、好きなもの嫌いなものとを分けて、執着します。そこに対立が生まれ、けんかもします。智恵の限りをつくして人を非難し、戦争までするのです。仏智は、すべてがひとつに融け合う智ですから、そのままが、本来のあるべき有りように背き、私という小さな殻のなかに閉じこもって生きる者を気づかしめ、本来のあり方へ導き救いとらずにおかないという、はたらきそのものです。

 

便利な世の中が困ったことと思えないのが、人間の智恵なのでしょう。便利になって良かったとよろこぶばかりで、それが将来どのようなことになっていくのかさえわかりません。現に、人間の智恵を尽くして過去に作り出した化学物質が、人間も含めた地球環境に及ぼす悪影響は、はかり知れません。それが困ったことという認識さえないというのが、人智の愚かさでしょう。また便利という言葉は、どこまでもいまを生きる人間にとって都合が良いように見えるということでしかなかったのです。現代の私たちは便利で快適な生活を追求するあまり、自分たち人間の都合のみを優先して、後の世代の人びとや、あらゆる生きもの、地球のことを省みなかったのではないでしょうか。

 

いのちの本来のあり方を見失わせ、困ったことであったと気づかせてくださるものこそ仏智であり、南無阿弥陀仏のはたらきそのものなのです。人間はどこまでも自己肯定(自分か間違っているとは思わない)するものです。それを打ち破るものに出遇わないと、気が付かないまま一生を過ごし、破滅するまで突き進む世の中になってしまいます。それを打ち破ろうとするのが、仏の智慧(真実そのもののはたらき)と言えるでしょう。

 

 

当たり前という闇

 

便利で快適な生活を求め続けてきたのが、人間の歴史と言えるのかも知れません。

 

夢でしかなかったことが一つひとつ現実のものとなり、あくなき追求の果てに、現代の生活があります。リモコン一つで、テレビ、エアコンから明かりの調節まで簡単にできます。また以前は、身体を動かして時間をかけなければできなかったことが、スイッチ一つでできるようになりました。ある意味、怠惰な時代と言えるのではないでしょうか。それこそ、忙しい忙しいと働きまわっていて、怠けているという認識はないでしょう。でも、私たちが身を置いているこの時代そのものが、怠惰なのです。身体は使わないで、結果だけは良いものを手に入れたい。汗水流すことなく、楽で快適な生活をしたい。こんな思いが蔓延している時代ではないでしょうか。本当は時間をかけ、手間ひまかけて初めてできるようなことなのに、それができていることがいつの間にか当たり前になってしまいました。

 

浅田さんの念仏詩集には、お念仏とともにあふれ出る多くの詩が収められています。

 

そのなかから、「当たり前が」と題されたものを紹介してみます。

 

当たり前が拝める
当たり前が
当たり前でなかったと当たり前が拝めるとき
どうにも始末のつかん
わが身から
ひまもらえる

(『骨道を行く』四七頁)

 

いままで当たり前とも何とも思わずに過ごしてきたことが、何かをきっかけに、これは当たり前ではなかったのではないかと、気づかされることがあります。本当はよろこぶべきことであり、感動すべきこと、感謝すべきことではなかったのか。でも、ありがたいとも何とも思わないまま過ごしてきた。そういうなかで、「始末のつかん」ことに悩まされ苦しんでいるのです。実際、始末がつかないことばかりです。思うようにならないことばかりのなかで、思うようになることを当たり前としているのではないでしょうか。こうなることが当たり前なのに、どうしてそうならないのかと苦しんでいるのです。

 

いつの間にか、みんなそうだから、いままでそうだったからと、そのことを前提にして、そうならないことに腹を立てたり、愚痴をこぼしたり、あるいは人を恨んだり憎んだりしているのではなかったでしょうか。自分の思いで、自分をがんじがらめに縛り上げているのです。自分で自分を不自由なものにしてしまっているのです。しかも、このことになかなか気づきません。人から束縛されることや周りから抑圧されることには、すぐ反発するのに、自分を自分で縛り上げることについては、本当に鈍感としか言いようがありません。気づかないまま身動きがとれなくなってしまいます。でも、そのことが当たり前でなかったと頭が下がる時、自分中心の欲に振り回されていたことに気づかされ、いつの間にか自分で自分を縛り上げてしまう、不自由な生き方から解放されるのです。

 

 

 

束縛からの自由

 

「ひまもらえる」とは、自由になる、解放されるということでしょう。自分の思いにがんじがらめに縛り上げられていた者が、その思いを打ち破ってくれるものに出遇い、思うようにならないままを引き受けていくことのできるところに立たされるのです。打ち破ってくれるものが仏の智慧で、すべてをありのままに照らし出すはたらきそのものです。その仏智に照らされて、自分勝手な小さな思いに縛られて自由を失い、せっかくいただいたいのちをいつの間にか過ごしてしまっている、わが身に気づかされるのでしょう。

 

仏の智慧に照らし出されて初めて、人間の智恵の暗さに気づかせてもらいます。現代の私たちは、便利で豊かな生活に慣れきってしまい、当たり前という深い闇のなかに、闇を闇とも気づかないまま過ごしているのではないでしょうか。人間の智恵の限りを尽くしたこの世の中の便利さが、実はその人間本来のあり方を見失わせ、人間性をも奪い取ってしまう困ったものだったのです。そのことを常に教えてくれるものに出遇っていかないと、その深い闇に飲み込まれてしまいます。

 

(後藤明信)

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