2013年2月 人間とはその智恵ゆえにまことに深い闇を生きている 法語カレンダー解説

hougo2013-2十二歳の息子の死

 

二月の法語は、高史明(コサミョン)さんの言葉をいただきました。

人間とは、その知恵ゆえにまことに深い闇を生きている

(『悲の海は深く』七七頁)

 

私ども人間の知恵がいかに深い闇のなかのものであるかを語られるものですが、ここには、高さんの深い人生観が窺われます。

高さんの独り子の息子さんは、十二歳の春を迎えた時、自らこの世を去られます。

高さんは、この最愛の子の突然の自死に出遭って、目の前が真っ暗になられました。

息子さんが鋭い視線で多くの詩を書き残していたことを知って、それまで息子のことを何も知らずにいたことにがっくりされました。中学生となった息子さんに、「これからは、何事も自分で責任をもって歩んでゆくことだ」と、激励のつもりで語りかけた、その直後の自死でした。

 

ご白身が、何も本当のことをわかっていない「無明」のなかにある、わが子も「無明」のなかにある、ともに深い暗黒の淵に落ち込んでいるという思いでおられました。そのような時に、『歎異抄』と真剣に対面するようになり、『歎異抄』の声が聞こえてきたと言われます。

 

初めのうちは、『歎異抄』を読んでも、頭のなかに何ら入ってくることはありませんでしたと言われます。小学校を出て以来初めて墨をすり、「南無阿弥陀仏」という文字を、毎日毎日書いていたが、それにどういう意味があるのか説明できないけれども、そうせずにおれなかったと、当時のことを語られます。

 

そして、連れ合いの岡百合子(ゆりこ)さんが「仏さまの顔を見に行きたい」と言うので、一緒に奈良を訪ね、田んぼのなかの道を歩いていた時のことだそうです。周囲が黄金色に輝く光景に出遇ったその時に、夕日の輝きのなかで、「生きているんだ」と気づかされたと言われます。『歎異抄』第五条の「まづ有縁(うえん)を度(ど)すべきなり」(『註釈版聖典』八三五頁)という言葉がどういう教えであるか、言葉としても整理して考えられるようになったとのことです。

 

浅はかな人間の知恵

息子さんの自死によって『歎異抄』に向き合うようになった高さんは、人生の絶望、暗黒の淵を体験されて、人間の知恵がいかにたよりないか、浅はかなものであるかを思い知らされたということでしょう。

『歎異抄』の結びの部分(後序)に、

 

煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常(かたくむじょう)の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

(『注釈版聖典』八五三~八五四頁)

 

とあります。すなわち、「私どもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、この世は燃えさかる家のようにたちまち移り変わる世界であって、すべては虚しく偽りで、真実と言えるものは何一つない。そのなかにあって、ただ念仏だけが真実なのである」とあるとおりである、と実感されたのです。

 

私ども人間の世界は、いまや科学技術の急速な発達のおかげで、たいへん便利な生活ができるようになっています。そして、私たち人間は有能で、世界を支配しつつあるというような驕(おご)りの思いすら、持ち始めていると言えるでしょう。しかし、それは人間中心の思考の上に乗っての営みであり、さらには自己中心の思考に支配されている驕慢(きょうまん)の姿と言わざるを得ません。

 

人間中心の科学的な知識にしても、人間の欲望を満足させようとする思考にしても、根本的に「無明」(真実が見えていない無知)の世界のことであるという深い洞察が、高さんの言葉に窺われます。

 

『正像末和讃』には

 

末法五濁(まっぽうごじょく)の有情(うじょう)の

行証(ぎょうしょう)かなはぬときなれば

釈迦(しゃか)の遺法(ゆいほう)ことごとく

竜宮(りゅうぐ)にいりたまひにき

(『註釈版聖典』六〇一頁)

 

と詠われています。すなわち、親鸞聖人は「末法の五濁の闇にある私ども人間には、修行も覚りもかなわない時(時代)であるから、釈尊が遺された教法もみなこの世から隠れて、竜王の宮に入ってしまわれた」と言われるのです。この和讃を拝読されて高さんは、人間の自己中心の知恵は、その根っこに「五濁」の深い闇が横たわっているが、そこでは修行も覚り(証)もかなわぬといわれている、と受け止められたのです。

 

ただ念仏のみぞまこと

 

『仏説阿弥陀経』には、

 

釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、よく甚難希有(じんなんけう)の事(じ)をなして、よく娑婆国土(しゃばこくど)の五濁悪世(ごじょくあくせ)、劫濁(こうじょく)・見濁(けんじょく)・煩悩濁(ぼんのうじょく)・衆生濁(しゅじょうじょく)・命濁(みょうじょく)のなかにおいて、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得て、もろもろの衆生のために、この一切世間難信(いっさいせけんなんしん)の法を説きたまふ

(『註釈版聖典』一二八頁)

 

と、すなわち「釈迦牟尼仏は、世にもまれな、きわめてなしがたい尊いことを成し遂げられた。この娑婆世界は濁りきり、悪に満ちていて、時代は汚れ、思想は乱れ、欲望をはじめ、さまざまの煩悩は激しく、人びとは堕落し、生命を損ない、大切にしていない。そのなかにありながら、この上ない覚りを得て、人びとのために、この世のすべてのものたちには信じがたい尊い教えをお説きになった」と説かれています。このように、『仏説阿弥陀経』に、諸仏がたが釈尊の不可思議の功徳をほめ讃えておられることが説かれていることを、高さんは深く受け止められます。

 

そして、法然聖人、親鸞聖人が、人類史の地殻に潜む暗黒を露わにされていることを、さらには、その地獄のただ中を生き抜いて真実のみ教えを捉え返され、「ただ念仏のみぞまことにておはします」(『歎異抄』後序 『註釈版聖典』八五四頁)の道を、さらに深くお示しくださったと言われています。

 

まさに、高さんがいただかれたように、私たちは、人間中心の営み、自分中心の知恵の「深い闇」のなかにあって、如来の大悲のおはたらきに出遇わせていただいているのであると言えるでしょう。

(佐々木恵精)

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