2013年3月 参れると思うて 参れぬお浄土へ 本願力にて往生す 法語カレンダー解説

hougo2013-3本願力にて往生す

三月の法語は、稲垣最三(さいぞう)師(法名・瑞剱(ずいけん))のお言葉です。瑞剱師は、姫路市のご出身で、篤信のご両親のもとで幼少から学問に励まれました。漢籍や英文学、仏教、哲学などに親しまれながら、浄土真宗のみ教えに、そして教義の奥義に研讚を積まれて、仏法伝道に一生を捧げられました。そして、多くの著述、多くの信心発露する詩歌を著わされ、多くの門信徒に他力の教えを伝えられました。

 

瑞剱師は、毎月の法座などで、「本願力にて往生す」と、つねづね口癖のように語られて、本願力のおはたらきについて説き続けられました。たとえば、師の著述のなかに、次のように述べられています。

 

 弥陀如来は法蔵菩薩であらせられた時、世自在王仏(せじざいおうぶつ)のみもとで修行せられて、凡夫を助けてやりたいのであるが、凡夫は智慧も慈悲もなく、修行もようしないで、悪業ばかり造っておって、生死、生死と、はてしなく苦海に沈んでおるのをあわれみたもうて、自ら願と行とを完成して、阿弥陀仏とならせたもうた。その正覚の功徳力にて一切衆生を助けなおかぬという本願を建てたもうかのである。

 

故にわれ等は阿弥陀如来の慈悲を信じ、智慧を信じ、功徳力を念ずることによりて往生成仏することが出来るのである。功徳力を信ずることが、つまり本願を信じたことである。阿弥陀如来の無量力功徳はわれらの救済であり、われらの生命であり、われらの往生する種である。如来の功徳を念ずるところ、功徳は直にわれらのものとなる。まことに不可思議の利益である。衆生に仏の功徳を念ぜしめて助けなおかんというのが阿弥陀如来の本願である。故に本願はありかたい。本願は如来の大慈悲力であり、大智慧力である。これを願力という。

(『本願力 法雷叢書Ⅰ』二頁)

このように、瑞剱師は、阿弥陀さまは、あらゆる生きとし生けるものを助けなければおかぬという本願をたてられ、完成してくださった。その阿弥陀さまの智慧と慈悲の円満した功徳の力を私たちが信ずるところ、すなわち本願力を信ずるところに、無量の功徳が私たちのいのちとなり、往生する種となり、浄土往生の救いが実現する。

このように、阿弥陀さまの大智慧のはたらき、大慈悲のはたらきが本願力となって、この「私」にはたらいてくださっている、それゆえこの本願がありかたい、と示されています。

父母に育てられ

 ご両親の熱心な聴聞の生活のなかで育てられたこと、そして、ひたすらに仏道を求めるようにと導かれたことを深く感謝されていた瑞剱師ですが、「浄土往生」「浄土へ参る身となる」ということについて、次のような経験談を、自叙伝ともいうべき『仏母庵(ぶつもあん)物語』に述べておられます。

 最三(瑞剱)三十七歳の時父は往生の素懐(そかい)を遂げたり。物心付きし頃より食事時には必ず仏法の話を父より聞き、また、予より質疑を提出したり。然るに三十七歳まで、予は自から安心(あんじん)をねり堅めて、<これで如何〉(この私の領解でいかがでしょう、間違いないでしょうという意味)などの意を述ぶ。父はその度毎に予の安心を打ち破ること、恰(あたか)もさいの川原で子どもが石を積んだのを鬼が鉄棒にて打ち砕くが如し。数百回数千回数を知らざるほどなりき。

父曰く、「それでよいそれでよい、それで極楽へ参れる。じゃが、参れる様になって参れるお浄土か、参れぬこの私を如来様が喚んで下さるのと違うか云云」と云い、とうとう父の生前中、一度も父の印可(いんか)を受けし事なし。父が最三(瑞剱)に対する教導、まことに禅家の師家の風ありか。此の父を持ち、恩師桂利剱(りけん)先生を持った予の幸(しあわせ)は幾百万の富にもまさるものあり。

(『法雷』特集号(4)所収、一二九~一三○頁、一九八五年)

参れると思うて参れぬお浄土

 このように述べて、父上の教導のご恩を感謝されるとともに、「お浄土へ参る」「お浄土に救われる」ということを、ここに明確に示されています。

 阿弥陀さまの大慈悲のおはたらきにいだかれて、本願力に乗せていただいて、お念仏させていただく。これは「信心獲得(ぎゃくとく)」の姿であります。阿弥陀さまのお救いにあずかって安堵している「安心」の姿であるということになりましょう。

 しかし、「これで、(お浄土に)参れるのだ」という心になっていたら、「自分の思いだけのことであり、自分のはからいに過ぎぬ」と、父上に厳しく誠められたそのことを、瑞剱師は感謝の心をもって述懐されているのです。

 すなわち、「参れるようになった」とか「参れると思うている」とかには、私の思いがはたらき、「私」の勝手な判断がはたらいている。すなわち「自力」のはからいのなかにあるのであって、それでは「他力信心」、すなわち阿弥陀さまの本願力のまま、大慈悲のおはたらきのままにはなっていない、ということになります。

 父上に「参れるようになって参れるお浄土か」と問い質され、「参れぬこの私を如来さまが喚んでくだざるのと違うか」と言われるところに、他力の他力たるところが示されているといただくところです。

他力信心のかなめ

  そこで、瑞剱師は、その他力信心のかなめを、

 

参れると思うて参れぬ お浄土へ
本願力にて往生す

参れると思うて参れぬ お浄土へ
参れぬものが 参る不可思議

参れると思うて参れぬ お浄土へ
仏智不思議に 引かれ引かれて

どうしても参られぬ 本願あるから参られる

などと、詠われるのです。

 煩悩具足の凡夫として、あるいはこの迷いの世界にある人間として、自分中心の思いや自らのはからいから離れるということは、不可能なことと言えるでしょう。釈尊ご自身がそのようにご教示くださっており、また阿弥陀さまの大慈悲心も、そのような凡愚のものであるとお示しくださって、大悲のはたらきをこの「私」にはたらかせてくださっています。「私」の方では、わが身を慚愧(ざんぎ)する以外になく、大慈悲のおはたらきをそのままに受けさせていただき、たよりとさせていただくばかりなのです。

 

(佐々木恵精)

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